紅い静寂
そして、その日の午後。午前に四時間、昼休憩を挟んで午後に三時間の授業を終えた、各教室に掛けられた時計は一様に四時を指していた。冬至も近いこの季節、外は既に日が傾き、西の空が赤く染まり始めている。
グラウンドでは、日が沈むまでの僅かな時間を惜しむ運動部の生徒達が部活前の走り込みを始めており、その掛け声が周囲の山々に反響され、校舎の裏手にある林にまで響いてくる。校舎の四階にある第一音楽室では吹奏楽部が、学園で盛大に催されるクリスマスパーティーで演奏する曲を練習しているようだ。漏れ聞こえてくるあの曲は、アメージング・グレース。さらにその隣りの第二音楽室からは、合唱部の歌う、クリスマス用にセレクトされた賛美歌が数曲、聞こえてくる。
あと、二週間とちょっと。もうじき始まる学期末テストが終わればクリスマスだ。厳格なカトリック系のこの学園では、普段から色々と厳しい決まりがある。
まあ、男女交際の禁止だとか、髪の色、髪留めのゴムの色からスカート丈等服装に関する規則、遅刻、欠席、早退や授業中の態度の様な風紀的なもの、他にも礼儀作法や寮での生活の細かいところにまで張り巡らされた校則は、数多くの学校の類に漏れず、多くの教師陣から支持され、また多くの生徒達から敬遠されていた。
幼い頃から色々と規制のかかる規律の厳しい環境で育った竜姫にとって、それは本来、それほど苦痛に感じるものではなかった。身だしなみについては今ある校則より余程厳しく躾られたし、修行や稽古をサボろうものなら鉄拳制裁が飛んできた。けれど、礼儀作法や生活様式の違いが、竜姫の悩みの種だった。
その日、一日だけは特別に規則の幾つかが撤廃され、締め付けが多少弱くなるクリスマスを、学園の生徒は皆、心待ちにしていたが、竜姫にとってはむしろ苦痛にすら思えた。
今日はもう、数十回目となる盛大なため息をつきながら、竜姫は林の中を歩いていた。
針葉樹林ばかりが植えられた林は、この季節でも葉が落ちる事も無くうっそうと生い茂って太陽の恵みの大部分を遮ってしまっており、暗く、寒々しい雰囲気を醸し出していた。
その中に、他のどの建物からも離れたそこに、忘れ去られた様にぽつんと佇む、小さな教会風の建物はあった。外見、昨日と何一つ変わらないその佇まいに、嵐の前の静けさの様な嫌な感じがするのは、果たして本当に気のせいだろうか。
クラウスの所業に腹を立て、怒りに任せて乱暴に鍵をこじ開けた昨日は、特に何も考えずとも簡単にくぐれた扉は、昨日と同じようにそこにあるのに、まるで昨日とは別物に思えた。中は、どうなっているのだろうか。……昨日の惨状が目に浮かんでくる。それにあいつは……、もう来ているのだろうか。そして、もう一つ。あの、バカ天使は――?
扉に取り付けられた、大きく古めかしい錠にあけられた鍵穴に、仰々しく飾り立てられた、サイズの割にやたらと重たい小さなキーを差し込み、軽く捻ると、鍵はガチャリと音を立ててあっさりと外れた。
金メッキの剥がれかけた円柱状の鉄の棒。扉の取っ手であるそれを、必要以上の力を込めて握り締め、竜姫は意を決し、扉を押し開けた。
キィ、と、扉の蝶番が軋んだ音を立てた。そのかすかな音は、エコーの利いた室内にやたらと響いて聞こえた。
薄暗い室内には、幾つもの机と椅子が、左から右へ等間隔に整然と並んでいて。一段高く作りつけられた壇上の背後には天井まで届くステンドグラスが天窓から差し込む西日を正面から浴びて眩しいくらいの赤に染まっていた。
壇上の人物から見た正面には、祈りを捧げる信者達を後ろから見守るかのように掲げられたイエス・キリストの十字架像が、昨夜のアレはやっぱり夢だったのでは、と思いたくなる程昨日と何一つ変わらない光景が、そこにはあった。
防音設備の整った礼拝堂は、開けた扉を閉めた途端、外の喧騒が遮られ、シン、と逆にうるさい程の静寂に包まれた。その、静けさは、今朝の一幕を思わせる。
西日に染まるステンドグラスを背に、それより尚も紅い瞳をした吸血鬼は、壇上にどっかと腰を下ろしていた。白、黒、赤のコントラストが、ギラギラと照りつける夕焼け色に支配されたその中で、その存在を一段と際立たせている。
今朝方着ていた高等部の制服ではなく、昨夜と同じ、全体的に黒っぽい服を身に着け、マントを羽織ったその少年を前に、竜姫の表情が歳相応のそれから、場慣れした巫女のそれへとスッと切り替わる。
静かな室内に、ローファーを履いた竜姫の足音が響く。頭の後ろで一つにまとめられた、腰まで届く長い黒髪が、竜姫の動きに合わせて揺らめく。ぴんと背筋を伸ばし、スッ、スッ、と静かに歩くその姿は美しく、どこか威厳すら漂う。
「よう、あの変わったペットはどうした?」
一段低い場所で凛と佇む少女を、少年は腰を下ろしたまま見上げる。
「我が豊生神宮の祭神を、愚弄しないで。」
誇り高き巫女は、少年を鋭く睨み付けた。
「久遠は、私が仕えるべき神。私にとっては幼馴染みみたいな、大切な存在。それを汚すなら、私は巫女として、それ相応の対処をとらせてもらう。」
ピリピリと静かな怒りを瞳に浮かべ、失礼な言葉を吐いた吸血鬼に今にも殴りかかりそうな程の殺気を放ち威圧する。
怒気をあらわにする竜姫に、少年は、降参だというように両手を上に挙げ、肩をすくめて見せた。ご機嫌伺いをするかのように上目遣いに竜姫をちらりと見、ニッといたずらっぽく牙を見せて笑う。
「まあ、待て。俺は、こんな所でお前と揉め事起こす気はねぇんだ。俺が、今必要としているのはパートナーだ。そして、俺がパートナーに求めるのは――、」
少年は、挙げた両腕を降ろし、自分の膝に肘を乗せ、まるで祈りを捧げるかのように組んだ両手に顎を乗せた。紅い瞳が目蓋の下へと消える。そして、
「お前だ。」
と、軽薄な笑みを消し、再び開いた瞳が、真剣な眼差しで竜姫を射抜いた。
「だけどな、俺は力ずくで無理強いするのは趣味じゃないんだ。だから、お前の同意が無い限りは俺はお前に何もしない。」
少年はヒョイと壇上から飛び降りるように立ち上がると、コツン、コツンと靴音を響かせながら、竜姫の背後へと移動すると、並ぶ机の一つに体重を半分預け、寄り掛かった。
「でも、お互い、事情も何も分からないままで同意もクソもないだろう?」
そう、首を傾げる仕草をしながら、問いかけるように、吸血鬼は言った。
「ちょっと、昔話をしてやるよ。気になってるんだろう、俺が、実際何者なのか。なんでこんな所で封印されていたのか、とか。」
にっこりと、営業スマイルを浮かべてみせる少年に、竜姫は警戒心たっぷりの視線を投げかける。
「確かに、聞きたい事は山程あるんだけどね。でも、話を聞いたら最後、同意しなかったら殺す、とかいう展開にならない保証はあるの?」
「それは大丈夫。絶対ない。だって、君が同意してくれるまでしつこく説得するつもりだから、ね。ほら、死なれちゃったらパートナーになって貰えなくなっちゃうじゃないか。」
無邪気な笑顔を浮かべる少年の、その表情の裏に潜む、邪気の気配。
竜姫は反射的に、ゴクリと唾液を飲み込んだ。グッと拳を握り締め、腹筋に力を込める。人外の存在を相手に、気持ちで負けてはならない。幼い頃から叩き込まれてきた心得。そして何より物心ついてから日々積み重ねてきた経験が、竜姫の盾となり鎧となって、ともすると暴走しそうになる心臓の拍動をギリギリのところで抑え込む。
「随分一方的な要求ね。私には拒否権が無いなんて。」
刻一刻と、天窓の外の茜色の空から投げかけられる明かりが、その存在感を薄れさせていく中、精一杯の余裕の笑みを作り、必死に平静を装う。
「悪いようにはしないぜ。」
そう言う少年の紅い瞳が、時を経るごとに次第に爛々とその輝きが増し、瞳に宿る妖しげな光が強くなっている様に見えるのは、気のせいだろうか?
「あんたの言う、パートナーって、何なの?」
ざわわ、と木々が一際強い風に煽られ、葉に残る朝の雨の名残を建物の壁へ叩き付ける。
「文字通りの意味さ。」
天窓から、瞬間的に矢のように降り注ぐ強力なオレンジ色の光線が、ステンドグラスを射抜き、マリアの肖像を描いたそれは、眩い程に真白く輝いた。
「俺の相方として、力を貸して貰う。」
その、目に突き刺さるかの様な強い光にも、怯む事無く、竜姫の瞳をひたと見据えて少年は言った。
「言ったはずよ。私はこの国の神に仕える巫女。異国の神の力が支配するこの場所は、私とは相性が悪いんだって。私はこの学園内では満足に力を使えない。貴方の相方を務めるには、今の私では役不足だと思うけど?」
少年の答えに反論の切り口を見つけ、すかさず切り返す竜姫に、少年はしかし、
「役不足どころか、最高の掘り出し物だ。」
と、太鼓判を押した。その、次の瞬間には、白い光が急速に輝きを失い、天窓から差し込む日の光が完全に消え失せ、礼拝堂は闇一色に染まる。暗闇の中、急に暗転した視界に慣れぬ竜姫の瞳に映るのは、煌々と輝く、一対の紅い瞳だけ。
夜は魔物の時間である。夜闇の中で力を増す魔物は数多い。力を充分発揮できない今、力を制限されるこの場で、この紅い瞳と相対するには、分が悪すぎた。
竜姫には、守るべきものがあった。命を賭けてでも、守らなければならないもの。久遠と、そして稲穂と交わした誓い。亡き両親の願い。巫女としての使命が、竜姫にはあった。その為に、決して失ってはならないものがあった。
それは、己の命。殺さない、と、吸血鬼は言った。昨夜も、血を吸い尽くそうとすれば出来たはずのところを、彼はそうしなかった。竜姫は悟ったようにため息をつく。半ば、諦めたように竜姫は口を開いた。
「本当は、もうこれ以上の厄介ごとはお断りなんだけど。仕方ないから話だけは聞いてあげる。……言っておくけど、聞くだけだからね。」
勝った、とばかりにほくそ笑む少年の表情は、暗闇の中、竜姫の目に映ることはなく、
「小難しい類いの話じゃないが、すぐ済む類いの話でもないからな。座れよ。立ったままじゃ、疲れるだろう。」
再び段の前へと移動し、段に腰掛けると、竜姫に隣りに座るように言った。
昨日、掃除をしたはずなのに、その苦労が跡形も無く埃に埋もれた床に、竜姫は顔をしかめたが、今ここで、下手に逆らって、機嫌を損ねられても困る。しかし、制服を埃まみれにしたくない竜姫は、片手で印を結び、神言を唱えた。風と水を操る呪文が、壇上の埃を残らず滅殺する。
「へえ、便利なもんだな。」
「確かに便利な術だけど、ここでは単に疲れるだけの技よ。普通に掃除する方が、よっぽど楽なんだけど、今はそんな暇ないし。」
事実、埃は消えたものの、床はまだとうてい綺麗とは言い難い状態にあった。
「それに、下手に力を使うと、来るのよアイツが。」
苦々しく言い捨て、徐々に闇に慣れ始めた目に映るキリスト像に冷たい視線を浴びせる。
「目下、最大の厄介事よ、アイツは。アレさえいなければ、いくらここが異国の神を祀っている場所だからって、ここまで力が抑えこまれるなんて事にはならないはずなのに。」
ぶちぶちと隣りで呟く竜姫に、吸血鬼は、
「なあ、何でアイツはここにいるんだと思う?」
と、何か含んだような笑みを浮かべる。
「お前の言う通り、ここに祀られている神は、この土地では異国の神だ。しかも、この国では一部の民を除いて長く敬遠されてきた歴史がある。その数少ない一部の者との縁が深い訳でもない、こんな山奥の土地に、何故天使がいる?」
その問いは、竜姫がこの学園へ来て、クラウスと初めて遭遇した瞬間から胸に抱いていた疑問だった。
「特に力のある人間がいる訳でもない、ただの学校に、何故大天使がいる?」
その問いの答えに、竜姫は思い当たるものがあった。
「貴方が、何か関係してるのね。」
「ご明察。」
パンパンと、わざとらしい拍手をしながら、少年は言った。
「面白い話を聞かせてやるよ。昔話を、な。」