刃の向かう、その先は……。
その瞬間、彼は戦慄を覚えた。
自分の攻撃に為す術もなく、無様に墜ちていった魔物に、胸のすくような想いだった。
散々、不愉快な戯れ言を吐いてはいたが……。所詮、この程度。……神剣は……砕け散ったけれど。
だが、そんな物に頼らなくとも、自分はやれる。
――そんな自信が持てたことに気持ちが高揚する。墜ちたまま、何の反応もないことが、さらにクラウスを調子に乗せた。
「……これは……もしや……やったのか?……」
まさかあの一撃で倒せるなどとは露ほども思っていなかったのだが。もしそうなら……。
クラウスは、卑屈を絵に描いたような笑みを浮かべつつ、意気揚々と彼の様子を確かめに地上へ降りようと、翼をはばたかせた、まさにその時。
辺りを囲む山々が、突如顕れた恐るべき力と共鳴するかのように――鳴動、……した。
そこに在るのは、ただ、力の気配、それだけ。他に何がある訳でもない……ただ、感覚的な『畏れ』を強制的に感情へ叩き込まれる――そんな視えない何かに――クラウスは、囚われたようにその場から動けなくなった。
……断じて、先程の様に魔術にはめられた訳ではない。これは――術などと高尚な形をとる以前の、ただ漠然と在るだけの力。本当に、ただそれだけのものなのに……。何だ、このデタラメ通り越して無茶苦茶もノンストップに通過した、もう反則じみた力は……!?
驚愕するクラウスの前に。
「……よう、クラウス。」
さっき散々のして叩き墜としたはずの紅い瞳の魔物が、悠々と剣を構えて立った。……その仕草は、ついさっき見た。……見たはず、の、仕草が、今はまるで違って見えた。
木に引っかけた翼は痕もなく、夜闇の迫るなかでも艶やかにその存在感をアピールしているし、暗がりに白く浮かぶ肌は傷一つない。……瞳は。闇を歓迎するように、爛々と紅く燃え。
そして。あの、恐ろしい気配をその身にまとい、魔力の気配に満ち充ちた剣を構える様は――。
ストン、と。それを見たクラウスの顔から表情が剥がれ落ちた。
「……悪いが、時間切れだ。今度こそ本気でお前を殺す。もう、容赦はしない。」
紛れもない、殺気。
クラウス以上に凍てついた表情が、彼の本気を物語る。
そして、前触れもなく、鋭敏に研ぎ澄ませた攻撃――相手を確実に殺すための攻撃――を剣にのせ、晃希は目にも止まらぬ速さで空を翔けた。
……クラウスの理性は、もう敵わないことを――敗北を――すぐに悟った。……たとえこの一撃をかわせたとしても、もう、運命から逃れる術はないのだと。
けれど、クラウスの感情は『生』と『勝利』にしがみついた。間一髪、ギリギリで攻撃を避けつつ、クラウスは雷パンチを繰り出した。
「食らえ! 痺れて、墜ちろ!!」
このタイミングでは、打撃が間に合わないことは承知の上での攻撃だ。真に当てたいのは拳ではなく、それに纏わせた雷撃だ。
光速で飛ぶ雷撃を背後から飛ばされれば、避けようがない。少しでも掠めさえすれば効果の見込める攻撃。……一撃必殺でないけれど、確実にダメージを与えられたその攻撃を。
だから、クラウスは目を見開いて驚いた。
確かに飛んだ雷撃を、後ろを振り返りもせず、翼で払っただけで弾き返したのだから。
「……!? っ、ばっ馬鹿な!?」
……翼とはいえ、あれだって生身の身体の一部なのだ。雷に触れれば感電するはず。
しかし、「何故」と考える間もなく、跳ね返された雷撃が我が身を襲う。咄嗟に翼で庇う……が、羽根はともかくも、血の通う、翼を支える軸に痺れが走り、身体が傾いだ。
地上を背に夜空を仰いだクラウスの胸に、魔剣が降る。クラウスの視界を覆うように飛びながら、晃希が魔剣を突き出す。
――クラウスの手に、もう神剣はない。クラウスは、もう一振りの剣を宙空から取り出し、その刀身で重たい攻撃を受け止めた。
「……聖剣、か。」
それは、全ての天使が生まれ持ってより神から授かりし力。神から貰った借り物の力ではなく、己の持てる力を具現化した、真実自分の剣だ。
クラウスは、晃希の魔剣を払い退け、彼の下から逃れ出る。……衝撃波でも叩きつけて、間合いを稼ぎたいところだが……この、自分の聖剣に、そんな便利な小技を繰り出せる機能はない。
ただ、斬り合うしかできないつまらない剣。クラウスはそう嫌って……神剣を賜って以来、一度として抜いたことはなかった。
が、神剣を失った今、クラウスに残された武器はこれだけ。……かなり心許ないが――。
「……まあ、無いよりはマシだろう……。」
クラウスは、キンキンカンカンと激しく魔剣と刀身をぶつけ合いながら思う。
それにしても。こっちは受けるだけで精一杯で、防戦一方なのに……。晃希の方は余裕顔。息一つ乱さず、汗の一滴すらなく淡々と、一歩避け損ねればあの世行きな攻撃を恐ろしいスピードで繰り出してくる……。
突いて、払って。……攻撃パターンは竜姫とまるきり一緒。……サハリエルの剣筋そのものの攻撃。それを越えるスピードとパワー。
……受け止めることを許された攻撃は、二割程度に過ぎなかった。クラウスの白い衣も、真白い翼も、みるみる間に血の赤に染まっていく。
……感情が、どんなに勝利に執着しようとも。目の前で、こうもはっきりその力の差をさらけ出されては……さすがのクラウスにももう、反論の術を見出だせなかった。
「何故……、同じ卵から生まれたのに……、こんなにも違う……?」
「俺は、晃希だ。サハリエルじゃない。その答えを持つ者の一人はもういない。もう一人はお前だ、クラウス。その答えはお前の中にある。」
動揺するクラウスの呟きに、晃希は攻撃の手を僅かに緩めて言った。
「だが……一つ、教えてやろう。俺から見たお前とあいつの違い。あいつは、お前と違って自分を客観的に見られる力を持っていた。」
「自分を……客観……的……に?」
「そうだ。全てを神に委ねていたお前と違い、自分の頭で考え行動し、それを振り返って反省することが出来た。」
人間より余程頑丈な天使の身体は、無数に突かれ、切り裂かれ、身体が血に染まりきってもまだ、生きていた。
白い衣は血を吸い尽くして重みを増し、ベッタリ身体に貼りついている。……吸いきれなくなった血が、ボタボタと地上へ降り注ぐ。
片や晃希はと言えば、服こそ裂けたりほつれたりとボロボロだが、たまに掠める刃が傷をつけるも、すぐ治り、ダメージには至っていない……どころか、剣が彼に傷をつける度、彼から発せられる力の波に削られて、刃に刃こぼれが生じる。それはもう、……まるで、発泡スチロールをヤスリで磨いているかのようにポロポロと。
面白いくらいに、自分の力が、彼の力によって削ぎ取られていく。
「我……は……、」
当然だろう。具現しているのはクラウスの力。そして自分はそれをつまらない力だと卑下してきたのだ。
周りから嘲笑ばかりを浴びせられ、クラウスは耳を塞ぎ、心を閉ざした。唯一認めてくださった神を絶対と信じ、それを縁に己の心を守った。……けれど、知らず知らずのうちに彼は、自分で自分を認められなくなっていった。……兄との差を認めざるを得なくなった、その時から。
……虚ろな心を誤魔化すため、必死に虚勢を張って。空回りして。
「……それではまるで……道化のようではないか……。」
血に汚れたクラウスの頬を、透明な滴が滴り落ちた。
「……今頃気づいたか?」
晃希は口許に笑みを滲ませながらも、冷徹な瞳でクラウスを睨み付けた。
「道化……、は……」
そうだ。それは悪魔の性である。
「我……は……天使……で……」
クラウスは、もう剣を振るう気も起きないといった表情のまま呟き、色を無くした。実際、剣を持った手を力なく下ろしたまま、構えようとすらしない。
……空から、太陽の気配が完全に消えた。眼下の町に明かりが点り、夜空の星も息を吹き返したようにチカチカ瞬き始める。
……夜は、魔物の時間。もう、こうなってはクラウスには万に一つの打開策も残されてはいなかった。
晃希は、自分の宣言通り、動揺に揺れるクラウスにも容赦なく、トドメの一撃を心臓へ叩き込むべく、予備動作へ移る。剣をいっぱいまで引き、そこから一気に突いて、心臓を抉る――。
一連の動作を頭でイメージしつつ、それを実行に移していく過程で、晃希は、見た。
チカチカ瞬く星の中。田舎で、街頭もまばら。真に迫る暗闇に光る沢山の、砂粒みたいな六等星まで道具なしに見れる、天然プラネタリウム。
無数の星の、その中の一つが、異様な光を放つのを。
あの星の名は、「ルード」も知っていた。
あれは――。
しかし。
晃希が、その名を記憶の中から引き出してくる前に、その衝撃的な出来事は起こった。
「う……っ!?」
とすっ、と。やけに軽い音がして。次いで、クラウスが小さく呻いた。一瞬の後、辺りに血の豪雨が降り注いだ。
「……なっ!?」
クラウスの身体を貫く、一本の巨大な矢。……その矢には、見覚えがあった。これは、「サハリエル」の記憶。そうだ。あの星の名は……。
「……宵の、明星……」
晃希の呟きに、クラウスの身体がピクリと僅かに反応する。
その頭上へ、今沈んだばかりの太陽が天頂へ舞い戻ったかのような光が降ってきた。……かの天使が司るのは……太陽。
「……嘘……だろ?」
晃希は息を飲んだ。
稲穂は、
「こりゃ……、」
呟きながら、継ぐ言葉に詰まったまま、黙り込んだ。
久遠はぺたんと地面に尻をつけ、腰を抜かした。
誠人は、この事態をキリスト教信者として喜ぶべきか、昨夜のクラウスの所業に苦情を申し入れるか、一瞬迷ったが、取りあえず静観を決め込むことにした。
そして、竜姫は。
心配そうな表情で晃希を見上げるも、じっと、目を逸らす事なく、事態のなり行きを見守る。
彼を、信じて――。