悪魔・サハリエル
真っ暗な中を、下へ下へと墜ちていく。何も見えないし、何も聞こえない。何も感じない。……けれど、自分が墜ちているという事だけは分かる。
「!」
はっとしたように、目を開ける。
……すると。そこは……。
――白い薄靄のかかる幻想的な……あまり現実味を感じさせない――そんな場所だった。
墜ちても墜ちても変わらない景色。
「……?」
ふと、足に力を入れてみる。と。……立てた。しかし……ふわふわと宙に浮いているような……。……踏みしめているはずの地面ですら、――まるで舞台演出用のドライアイスの煙みたいな――そんな不確かなものしかなくて……。
「……ここは……」
「やあ。……さて……何と挨拶したものかねぇ……、こうして対面するのは『はじめまして』……なんだけど……、カタチはともかく、もう六百年ぶりの再会だから……『お久しぶり』? ……それとも……、」
背後から突然声がして、ルードはビクリと後ろを振り向いた。
「! お前は……、」
……激しく、見覚えのある顔。今、まさに竜姫逹と戦っているはずの天使と瓜二つなその顔に、ルードは条件反射的に眉間にシワを寄せた。
「ああ。あの可愛いクラウスの双子の兄でもある、僕が悪魔サハリエルだ。」
髪と瞳と羽の色が違うだけの、クラウスのそっくりさんは、かの天使とは似ても似つかない、ふざけた口調で軽口を叩きながら、にいっ、と、文字通りの悪魔の微笑を湛え、サハリエルはルードと同じ紅い瞳を細めた。
……悪魔の、長い黒髪は、風もないのに何故だかそよそよとたなびき、その艶をより強調する。
「あれが可愛いとはねぇ……、あんたのその瞳、腐ってんじゃないの?」
「まさか。ふふっ、だってさ、ああも盲目の愛に溺れ――自分の犯してる罪にも気づかない――愚かな小天使……。おバカで笑えるだろ?」
くすくすと笑いながら、悪魔は言った。
「……確かに、馬鹿な奴だ。でもアタシらからしてみれば、笑えたもんじゃないんだけどねえ?」
と、ルード逹の頭上から声が降ってきた。
「ふふっ、貴女とは……間違いなく『はじめまして』、ですね。多喜殿?」
ポンッ、と、紅い薔薇を一輪、手品よろしく出現させ、気障ったらしく花びらに口付け、ポイッと、靄だらけの中へと放った。
薔薇は、靄の中へ溶けるように消え失せたが……。
たちまちのうちにそこから紅い竜巻が立ち上ぼり、凄まじい強風が、辺りの靄を残らず吹き飛ばしてしまった。
払われ、薄靄の無くなった空間は、まるで月も星もない真っ暗な夜空に放り込まれたような……そんな場所だった。
そんな、ただただ暗いだけの場所でも、ルードの瞳には全てを見透す能力が備わっていた。……当然、悪魔にも。そして多喜にも。
むしろ、視界を中途半端に遮っていた薄靄が晴れたおかげで、より鮮明な画像が網膜に焼き付けられる。
互いに、相手の一挙手一投足まで見逃すまいと緊張感を高めつつ、が、それをその欠片も表に出すことなく、彼らは会話を続ける。
「……何か、言いたいことがあるのだろう?」
ズラリと牙の並ぶ口を開き、多喜は言った。
……その声は、鏡から発せられたものと確かに同じものなのに、まるで別物で。ルードの背の何倍もある長い身体でぐるぐるとぐろを巻き、それでも尚余る身体を持ち上げ、高みから見下ろす様は、中々に迫力がある。
「……身体の主導権を、俺から奪い返したいのか?」
ルードは、悪魔より若干低い目線から睨み上げながら、低い声音で問い質した。
「べっつに〜? そんなもんはいらないよ。」
多喜の威圧も、ルードの殺気もまるでこたえていないかのような口調で悪魔は答えた。
「いやね、正直なとこ、ついこないだまでは、こんなクソ坊主に、このサハリエル様が抑え込まれるなんて、面白くなくてねぇ。」
相変わらず笑んだ表情を崩すことなく、悪魔は言う。
「……でも、ここ何日かは中々に面白かった。僕も長いこと生きてきたから……、色々退屈してたんだよ。ふふっ、そう、……君達を見てる方がよっぽど楽しかったから、しばらくは干渉を控えようかと思ってたところだったんだけどねえ……。」
「……それはそれは、アリガタイことで?」
ルードは皮肉な笑みを浮かべながら、
「……なら、何故さっき暴れた?」
鋭く切り込んだ。
「……僕からの忠告さ。」
へらへらと軽薄な笑みはそのままに。しかし、目元だけは鋭く、そして瞳に冷たい光を帯びながら――悪魔は答えた。
「ノアの箱船の話を知っているかい?」
唐突な問い。
「……聖書の中のアレだろ? ――大洪水の話だ。」
……貧乏なアンセルム家では学校へは行かせて貰えず、難しいところまでは知らないが、毎週教会での礼拝は欠かしたことはなかった。
そう、教会の神父の説教の中に、そんな話もあった。
「世の害悪を流し去る大洪水……。その害悪とされた者逹の中に、我が妻と我が子も含まれていた。……というよりあれは……生まれた子を滅するためのものだった。」
「! お前は……まさかグリゴリの!?」
悪魔の言葉に、多喜は驚きに目を見張った。
「そう。楽園から追放された人の子に、当たり障りのない知識を与えるためだけに遣わされた天使団の一人。」
ニコニコと、感情の読めない笑みを浮かべて、悪魔はペロッと自分の出自を明かした。
「でもねえ……。」
背に負った漆黒の翼。そこからぶちっと羽を数本むしり、
「十ある知識や技術のうち、彼らに伝えることを許されたのは一にも満たない。」
一枚。また一枚。ポイポイ放って見せる。
「ねぇ、だってさあ。例えば未知の病で苦しんでる人が目の前にいたとして、だよ? ……その治療法を知っていながらそれを教えもせず傍観するのを是とし、彼女を救おうと知識を与え助けた事を罪だと言う。……そんなのが神だなんて、笑っちゃうだろう? ……もっと多くの実りを得られる技術を知っているのに、不作で飢える彼等の前で知らないふりしてニコニコ笑ってろってさ、……彼らにも、僕らにも、心や感情はある。……そんなことは出来るはずない。」
最後に残った一枚をグシャッと乱暴に握りつぶして、悪魔はそれでも表情は微笑んだまま。
「言葉を交わし、感情を交え、心をも通じ合わせれば……。当然、そこには縁が――絆が――生まれる。恋愛感情も……また……。」
が、声音には自嘲するような色が見え隠れしている。
「そして僕らは……、心から愛した女性との間に子を成したが……、生まれた我が子は……――そうは呼びたくはないが――魔物どころか化け物だった……。僕は堕天し……彼女もまた、淫婦だと堕とされ……ノアの洪水に我が子共々呑み込まれておしまいさ。」
では、ルードの脳裏に浮かんだあの光景は……。
「! だから……。……じゃあ……やっぱり――。」
一人、呟いたルードの言葉を拾い、
「ふふっ、君の場合、僕よりはるかにヤバイとおもうよ? こんなに歪になった魂じゃ……、何がどうなってもおかしくない。」
悪魔は言った。人差し指の先に、ポウッ、と白い光を浮かべ、それをつつきながら。――真ん丸い玉が、幾つもくっついたそれは……、
「ふふふっ、使い捨てるつもりの身体から油断してた隙に出られなくなっちゃった上に、喰ったつもりがついうっかり魂を乗っ取られそうになっちゃったなんて。……僕としたことが……とんだ不手際だったけど。君もなかなか面白いこと考えるよね。……僕の……悪魔の魂に無理矢理くっついた君の魂に……それを呪い汚そうと喰いつく吸血鬼の魂。もうこんなにも歪で穢れきった魂に、まさか神龍の魂を同化させようなんて。」
「……それは。」
「そうだよ、これが今の僕たちの――君の――魂の姿さ。」
指先で、それを弄びながら悪魔は笑う。
「これじゃあコドモをツクル前に、君の方が消えちゃうだろうねえ……。」
わざとらしく肩を竦めて見せる悪魔を睨み付けながら、
「……どういうことだ?」
ルードは緊張に高鳴る鼓動を必死に抑えつける。
「悪魔の僕や、吸血鬼の穢れた魂は、清き神龍の魂とは対極にあるものだ。……それを無理矢理くっつけるとなれば……針がどう振り切れてもおかしくない。当然、反動も相当なものが返ってくる。……その全てに、脆弱なお前の精神が耐えきれるか?」
悪魔は、それまでの軽薄な態度を瞬時に引っ込め、切れ味鋭く問いを投げ掛けた。
「……耐えきれず、中立を保つはずのお前の自我が消えれば、針の振り切れた魂は暴走する。……悪魔に神龍……力の塊みたいなそれが暴走すれば……世界は壊れる。この辺りの人里だけに留まらず……それこそノアの洪水の如くに全ては壊れるだろう。」
追い討ちをかけるかのように、さらに厳しい言葉を重ねる。
「……多喜殿。仮にも神龍である貴女が、どうしてこんなリスキーな賭けに打って出ようとなどと考えました?」
「悪魔よ。あんまり人間をなめくさってくれるなよ?」
ギロリと睨む悪魔の紅い瞳を、鼻で笑って見返し、多喜は言った。
「いざ心を決め、覚悟を決めた人間の精神にかなう神も魔物もこの世に存在しない。運命も宿命も何もかも、打ち破っていく力が、人間にはある。……だからこそ、魔物は人を貶めようとし……、心の狭い一部の神は人を束縛したがる。」
誇らしげな笑みを浮かべる多喜。
「……無論、心の弱い人間というのもいるが。コイツなら大丈夫。アタシが保証するよ。」
そう、言い切る多喜の下で、ルードは、つい今しがた初めて言葉を交わしたばかりの相手にそんな太鼓判を押され、タラタラと冷や汗が顔を伝っていくのを感じた。
何だろう。どんどん話が大きく大袈裟になっていく……。
――でも。
ルードは改めて自分の心に問いかける。
――俺は……。俺が望むのは……生きること。欲しいのは……未来。――大切なものをこの手に取り戻す。
そして。新たな大切なものをこの手に掴み……守る。自分のため。……そして竜姫のために。願いはただそれだけ。
……その願いを叶えるために背負うものの重さは、計り知れない。それは、事前にしてきた覚悟では到底足りない程に。
……それでも。
例え潰すだけでは飽きたらず地の底までねじ込まれそうな、重たいプレッシャーに耐えてでも、叶えたい願いなのがどうかを……。
「……俺は恩知らずなサイテー野郎に成り下がるつもりはさらさらない。自分の気持ちを裏切るような卑屈ヤローになるのもゴメンだ。」
ほんの数日。極々僅かな刻。その間に、ルードを繋ぎ止めた絆を断ち切る痛みに比べれば、のし掛かるプレッシャー等、痒くもない。
ルードは、改めて覚悟を決め、悪魔と対峙する。
「へえ。いい表情をするじゃないか。……でもねえ、消されるのを黙って見てるほどには広くないんだよね、僕の心は。」
サハリエルは、剣を手にしながら言った。
……彼の手にした剣には見覚えがあった。……さっき竜姫に貸したはずの剣だ。それが、何故ここに? ……まさか。
嫌な予感に顔をしかめ、ソワソワしだしたルードに、サハリエルは、
「……ここは僕たちの精神世界の中。現実世界とは別次元の世界だ。ここにある剣は君があの娘に貸し与えた物とは別物だ。」
そう言って、意味深な笑みを浮かべた。
「ここで使えるのは純粋に己の――魂の――力のみ。そしてこの魔剣は元々僕の力。」
細かい細工まで確かにあれと同じ剣を掲げて見せる。
「ねえ、ルードヴィヒ。ただの人間の力しか持たない君は……悪魔である僕とどう戦う?」
嫌みなほどに美しく、そして醜悪な、悪魔の微笑み。
……その笑みを見たと頭が認識するが早いか、プツン、と、テレビの画面が消えるように、ルードの視界が暗転した。
「闇を見透す力は僕と吸血鬼の力だ。……人間である君の力ではない。」
コツン、コツン、と、不安定な足場を悠々靴音高く近づく気配。
ルードは、距離を取ろうと、後ろへ飛ぼうとして――思うように体が動かず、戸惑いから足をもつれさせ、ステンと尻餅をついた。
「高い身体能力は吸血鬼の力だ。……君の力じゃない。」
ヒュッと空を切る音がして、チキッと金属の冷たく鋭い気配がピタリと喉元を捉える。
「……ああ。多喜殿の援護は期待するなよ? 多喜殿はこの場を用意するだけで精一杯なんだ。君の手助けをする余裕はない。」
クスクス笑いながら、悪魔は言った。
「ここで君を殺せば、全ての力は僕のものだ。」
刃の先が、皮膚に触れる。
「さあ、無力な人の子よ。……どうする?」
剣を振り上げ、悪魔は尋ねた。
触れていた刃先が肌と擦れ合い、ピッと一筋傷が刻まれ、僅かながらに血飛沫が飛んだ。……普段なら次の瞬間には消え去るはずの傷から、少ないながらも血が滲み出たまま、一向に治る気配がない。
……そう、驚異の治癒能力もまた、人間の力ではない。……悪魔は、振り上げた刃を、容赦なく、ルードの身体へと振り下ろした――。