襲来
「――あれか……」
遠目ながら、朱い鳥居が見える。もう、太陽は天の頂きに近くある。
天使の呟きに誠人は、閉ざしていた目蓋を僅かに持ち上げ、眼下に広がる景色を網膜に映した。
「……ああ、そうか……、着いたのか……。」
……どうやら、命だけは無事にある……が、だからといって、単純に喜べる状況ではまだない。
天使の翼が真白い光を湛え、放つ。その光は、優しく包み込むような類いのものとは程遠く――。鋭く突き刺すような殺気を極限まで凝縮したような、光でありながら闇と紙一重といった代物で……。
膨れ上がる気配は、まるで質量を有しているかの様で。翼を羽ばたかせる度に、衝撃波にも似た突風が巻き起こり、クラウスを始点に放射状に吹き荒れる。
と、社のある小山から何か……、が。
そう、視認し、それを誠人の脳が認識するより早く、神剣が抜かれ、飛んできた何かを叩き落としていて。
「!?」
その何かが矢だと理解するより早く、次から次へとそれは飛んでくる。あきらかにこちらへ向けて放たれているそれを、クラウスは悠々と打ち落としていく。
「……ふん、牽制のつもりか?」
と、鼻で笑い、
「こんなお遊びみたいな弓術で我が怯むとでも?」
飛来する矢の群れの中、更にスピードを上げて突っ込んでいく。たまらないのは誠人の方だ。
成る程、狙い違わず矢を打ち落とすクラウスの剣技は素晴らしいのかもしれないが。己を害する矢しか狙わないのでは、小脇に抱えられた誠人はまるきり無防備なままである。
……正直、まだかすり傷だけで済んでいる今の状況は奇跡としか思えない。視界は山の斜面へと急速に迫り――矢の雨がピタリと止んだ。そして。葉の落ちた裸の木とその枝が絡み合う、山の中から次に飛んできたのは――。
「クラウスっ、誠人くんを放しなさい!!」
良く見知った顔。
杉ばかりが植えられ、真冬のこの時期でも緑を保つ周囲の山に比べ、枝や雪の色でやや白っぽく見える背景の中で、やけに眩しく見える白い着物と紅い袴。束ねた長い黒髪をなびかせ、少女は、手にした剣を力一杯振り切った。
ニヤリと笑いながら、天使は、軽々とその刃をかわし、
「人間が、魔剣を振るうとは……、」
己の神剣で、竜姫の胸を狙い突きを繰り出しながら、
「堕落者め!!」
口汚く罵りの言葉を吐く。
……が、剣先が竜姫の身体へ届くより早く、飛んできた青い火の玉が、刃を弾いて攻撃の軌跡を狂わせる。
「させるかっ!!」
クルリと空中で宙返りしながら地面へ着地する竜姫の隙を庇うように、金色の狐が木々の枝を高速で伝いながら、火の玉を次から次へと繰り出す。
狐の尻から生える九本の尾。
……明らかに、現実的な生き物ではない。
神剣といえど実体のない火球を刀身で打ち落とすのは無理だ。クラウスはやむ無く射程外まで上空へと退避し、避ける。
が、
「おやおや、後ろががら空きだよ?」
背後から影が落ちた。
「悪いがこれは貰ってくよ?」
言うが早いか、誠人は乱暴に身体を引っ張られ、抱えていたクラウスの腕から無理矢理引き抜かれた。
……戦いに、おそらく彼はお荷物だったのだろう。強引なやり口にも、特に引き留めようとか、余計な力が加わるような事もなく、無茶苦茶ではあるが、取りあえずクラウスから無事に解放された誠人は、クラウスに代わって自分を抱える人物の顔を見ようと視線を上向けて……すぐさま逸らした。
目にしたのは、瞳に毒になりそうな紅。
着物や口紅はともかく……。この、鮮やかな紅髪は、染料なんかではこの色は出せないだろう。今まで、こんな鮮烈な紅い髪色を見たことがない。
……人にあり得ない跳躍力をみせているこの状況からしてみると、おそらくこの女性も人間ではないのだろう。
「……おや、随分と身体が冷えてるね。」
あれだけ高く跳びながら、ふわりと身軽く着地した彼女は誠人を降ろしながら呟き――そして木々の枝を伝って飛び回る他の二人に向けて指示を飛ばす。
「竜姫!! 一旦戻れ!」
「はいっ!」
「久遠! 援護しろ!」
「承知!!」
彼女の叫びが届くやいなや、彼らは瞬時に指示を実行に移す。竜姫は構えた剣を下ろして木から飛び降り、久遠は即座に新たな火球を幾つも作り、放つ。サッと駆け寄ってくる竜姫に、稲穂は、
「こいつ、一応命は無事だが……このまま放っておくのもまずいだろう。それに。この事態を、このガキがどれだけ呑み込めてるかは知らんが、懇切丁寧に事情説明してやってる暇や余裕もない。……どうする、竜姫?」
この場の最終責任者としての回答を求めた。
「……久遠を。久遠を下げて火で暖を。彼に事情を説明して貰います。……今、彼の目にはクラウスも、稲穂達も映っているようだから。」
「いいのか? お前の身体が万全ではない今、あれは貴重な戦力だろう?」
「大丈夫。ルードに借りたこの剣がある。」
含みを多分に持たせた竜姫の言葉に、稲穂は一瞬興味津々な瞳をしたが、今はそんな場合ではないと、すぐさま厳しい問いかけの視線を投げる。
「大丈夫。」
手にした剣を握りしめ、竜姫は頷きながら言った。
……幼い頃から、戦う術を指南してきた稲穂に、それ以上の説明の言葉は要らなかった。
「久遠!! 戻れ!」
その、稲穂の指示を合図に竜姫は再び駆け出す。
颯爽と森を駆け、驚異の身軽さで枝から枝へと跳び移りながら、上へ上へと駆け上がり、そして飛び出し、宙へ跳ぶ。
……見ただけでは、中学生の女の子の細腕では到底持ち上がりそうにない、重たそうな真剣を片手で軽々構え、無駄のない素早い動作で突きを繰り出す。
それを追うように、稲穂と呼ばれた紅髪の女性も、宙へと跳んだ。首から下げた、粗末なつくりの木製の小さな縦笛を口に啣え、ピィと吹く。
耳に突き刺さるような高い音が鳴り、その音に呼応するように、風が生まれ、叩きつけられた見えない刃が天使の翼から幾本もの羽根をむしりとった。
「くっ、」
青い空に、白い羽根を雪のように散らしながら、クラウスは、神剣で空を斬る。
神の威光を籠めた剣撃は、衝撃波となり、襲い来る二撃目のかまいたちを迎え撃ち、両者の攻撃は相殺される。
「チッ、」
翼を持たない稲穂は、手近な枝へ降り、しなる足場をバネに空へと跳ぶ。ヒラリヒラリと、自前の翼で宙を好きに飛び回るクラウスを捉えるのは、風を操る能力を有する稲穂でも難しかった。
「……あれはやっかいだねぇ。」
言いながら、チラリと教え子を見やり、
「それにしても……、あれで体調が万全じゃない……だなんて……信じられないね。」
苦笑を浮かべる。
高く高く。
久遠と稲穂の攻撃を避けて、空高く飛ぶクラウスと、同じ高さまで、跳んでいく。高く高く跳んで。ルードの魔力を籠めた刃を、クラウスに向けて降り下ろす。
大振りな攻撃は易々かわされるが、すかさず鋭く突いた一撃が、クラウスの脇腹を掠めた。衣装が裂け、ピッと赤い飛沫が衣を僅かながらに斑に染める。
……所詮、かすり傷だ。傷は次の瞬間には消え、刃は神剣に払われる。
だが、人間ごときの攻撃に傷を負ったクラウスのプライドはいたく傷ついたらしい。手加減なしの乱れ突きをを繰り出し、竜姫の身体を穴だらけにせんと、神速の攻撃を見舞う。
……昨日は、瞳に映すことすら叶わなかったクラウスの一挙手一投足が、まるでスローモーションの様に見えて。
握った剣が、まるで意思を持っているかのように、竜姫をリードし、向けられた攻撃の全てを見事なまでに受け止める。
息つく間もないような、剣撃の嵐。
……少なくとも肉体は、ただの人間であるはずの、少女の思わぬ奮闘ぶりに、クラウスは戸惑い、畏れを抱いた。
ドクンと、心に嫌なものが――何かどす黒くて嫌な臭いのするタール状の液体みたいな……毒のようなものが――ゆっくりと広がり、侵食していく。
しかし、色眼鏡をかけ、曇りきった心眼を閉じたままのクラウスは、すぐさま己の感情を否定し、怒りで塗りつぶす。
「雷よ!!」
バチバチッ、と、神剣を静電気が覆い、地上へと降下していく竜姫へ向けて撃ち下ろす。すると、刃からバリバリと空気を裂く音と共に稲妻が放たれ、竜姫の頭頂目掛けて墜ちていく。
竜姫は落ちながら体の向きを変え、地に背を向け空を睨み、走る稲光を剣で払い、雷撃を跳ね返す。
背中から落ちる格好になった竜姫を、稲穂が受け止め、地へ降ろす。
返った雷撃を避けるのに、竜姫の追撃のチャンスを逃し、今度はクラウスが舌打ちをした。
「……こんな。こんな力が……、こんな世界が、本当に……あったなんて……。」
地面に転がされたまま、手の届かない高い空の上の闘いを、じっと見上げるしかする事のない誠人は、無意識のうちに、そう、呟いていた。
「……お前、あれが視えているのか、……どこまで?」
戦闘から離脱してきた九尾の狐が、雪に湿った地面に寝転がる誠人の隣に腰を下ろし、そう訪ねてきた。
「……どこまでって訊かれると困るんだけど。……そうだな。俺をここまで運んできた、あの『天使』と、あの紅い髪の女の人は……視えてる。君も……。」
良く見知ったはずの少女は……、今はまるで見知らぬ別人に見えるのだけど。
「……君は、……君たちは……、一体……?」
……尋ねなくとも、答えの予想はついたけれど。
「ボクは豊生神宮の三の神。名は、『久遠』。……あの紅髪の姐さんは『稲穂』様。この社の二の神だ。」
……やっぱり。
誠人は、自分の吐いた言葉をじっくり噛み締めながら、久遠の答えを聞いた。
――……誰もいない、あの場所で、君は一体何をする気なんだい?……たった一人で――
……一人じゃ、ない。
――また、カミサマ……かい?実際ににそんなものがいるのかどうか――なんて事を言い争うつもりはないけどさ、今、現実にいないものに振り回されるなんて不毛じゃないか。……竜姫ちゃんももう中学生なんだから、夢みたいな事ばかり言っていないで、きちんと現実を見た方がいい。田舎の寂れた神社を継ぐなんて馬鹿な事を言うのはやめて、うちに来た方がいい……――
神様は、居る。夢物語の中ではなく、この現実の世に。
……現実を視ずに、馬鹿なことを言っていたのは。
(……僕の方……みたいたな……。)
狐は、攻撃に使ったのとはまた少し違う様子の炎を灯した。青い炎が、誠人の身体を覆う。
しかし、熱による痛みはなく、ちろちろと体をくすぐる炎はむしろ暖かで心地よい。
冷風に当てられ続けた身体を、芯から暖めてくれる。
「……じゃあ、あの天使の言ってた魔物って……君の事?」
「……いや。」
久遠は狐火を操り冷えた誠人の身体を暖めながら、彼の問いを首を振って否定した。
「……まあ、奴にとっては奴の信じる『神』以外は全て『魔物』だ、……ボクも姐さんも、竜姫も。だけど、今、奴の言う魔物はボクらじゃない。……ボクらは、神だ。奴がどう言おうと。……でも彼は……確かに、魔物だ。今はまだ……。」
でも、と。久遠は笑う。
「すぐに来るさ。……悪魔であり、吸血鬼でもあるが。同時に、我が社の最強の守護神となって。あの天使を倒しに、な。」
……竜姫の心をも奪っていった事は許しがたいが……。もう、運命の歯車は誰にも止められない。
ルードの魔力を借り、クラウスと戦り合う竜姫の魂の輝きは、……きっと、彼にしか引き出せない。
「……神?魔物が?」
「ボクも姐さんも。元は人里を荒らしていた妖怪さ。……でも今は、この辺り一帯の豊穣を守る神だ。」
眉をひそめる誠人に久遠が言う。
「生あるものは変わる。変わっていける。……良い方にも、悪い方にも。そうだろう?」
確かな、確証を持った言葉には重さがある。
「……見ろ。あれを、お前は悪しき魔物と……呼べるか?」
言われて見た空に。新たな影が飛び出した――。