使命と、宿命と……本音と。
久々の、外界だった。……時間的にも、距離的にも、これが初めてだった。あの山の中。自分で結界を張った、あの時から。その結界から、こうも離れるのは……。
――と、
「は、何故……、ほんはひも必死に、彼女を追ふんれふか?」
……もう、歯の音の合わない段階をすっ飛ばした彼の言葉が、そんなことには我関せずといった様子で、ただただ地平線のその先を、険しい表情で睨み付けているだけのクラウスに問うた。
もう、重たくて。
それは、刻一刻と確かに重量を増していて。何が? ……と、問われれば。目蓋が、重たくて……。
もう、一分一秒だって目を開けてはいられない。だが、今眠れば、確実に命はないだろう。
そして。今の誠人には、
「寝るんじゃないっ!! (バシッ!、)」
「殴ったね!? 親父にもぶたれた事ないのに!!」
……等とノリ良く付き合ってくれる連れは居ない。……いや、一応連れは居るが……。今ここで自分が眠ってしまって命の危機に直面したとて、気にかけてくれるかどうかは、かなり怪しい。
この極限状態で、ちょっと試してみようか等と考えられる、剛胆な性格を持ち合わせていない誠人は、自分で自分の頬を叩いて、眠気を飛ばしていた。
が、……はっきり言って、焼け石に水である。
それでも。眠れば死ぬのだ。
ギロリと、白い目で睨みつけられたからといって、引くわけにはいかない。問うた言葉が正確に相手に伝わったかどうか分からないが。いや、正しく伝わったとて、応えて貰えるかどうか……。
「ほれに、ほはいはは、ほうひへ俺を襲っはんへふは?」
それでも、誠人は、眠気を少しでも誤魔化そうと、一人、喋り続けた。クラウスは煩わしさに、眉をひそめたが、それでも初めて自分が人一人抱えていたことを思い出したらしい表情をする。
……天使は、霊体だ。意識的に触れようとしなければ、この世の全ては彼には関与しない。
こうして真冬の真夜中に、薄衣一枚で宙空を舞っても、『寒い』という感覚がないのだ。
布一枚でも平気な顔のできるクラウスから見れば、上から下までキッチリ布地に包まれた誠人が『寒い』だろうなどと思うはずもなく。
彼の様子に怪訝な表情をしながらも、
「あの娘は、危険極まりない魔物の封印を解き、その魔物を擁護していた。……魔物を滅さんとする我の前で奴に力を与え、そして、奴と共に逃げた。……魔女は許しがたい存在だが、所詮は小娘一人。我が直接手を下さずとも、いずれ大いなる御方が裁きの鉄槌を下されるだろう。だが、あの魔物を放っておくわけにはいかない。過去、幾百の集落を襲い、幾万もの人間を殺した大悪魔。……何としてでも、我の剣で討ち果たさねばならん。」
と、彼にしては珍しく律義に答えを返した。
「は、……魔物? ほんはほと竜姫ひゃんは……?」
クラウスは……、できればかかわり合いたくないタイプだが。せっかく会話の糸口ができたのだからと、誠人は重ねて問うた。
「奴は……、サハリエルは悪魔だが。今は吸血鬼でもある。あの小娘は、自ら奴に己の血を――力を――与えていた。」
「……?」
「かつて、我の剣の前に膝を折った、あの忌まわしき悪魔が取り憑いていた人間が、吸血鬼に咬まれたんだ。」
ギリッと、誠人を抱える腕に力がこもる。
「あれは、我の獲物だ。……たとえ格上の天使にだってくれてやるものか。」
誠人に聞かせる為というよりは、己の決意を自分で確かめるように。
「……もう二度と。」
低く低く、そう呟いた。
「サハリエル……、兄上……。」
天と地とを分ける、 緩やかな弧を描く地平線の向こうまで見通さんと、蒼の瞳でそれを睨み。翼を、より一層忙しなく羽ばたかせる。
逸る心が、遠い過去の記憶を、次から次へと脳裏に焼き付けていく。
――かつて天獄に、かの偉大な月の天使ガブリエル様の元、優秀な天使として称えられていた天使が居た。
世界樹の卵から生まれたクラウスの、双子の兄天使。……名を、サハリエルと言った。
明けの明星と宵の明星。
御使いであった者と、御使いと。……黎明の時代の大戦。以来、天にとって、双子は不吉だと忌まれる存在だった。
しかし彼は。
その優秀さから、どんどん昇格し、ついにはグリゴリの一団に加わり、人間を教育するため地上へ降りることを許された。
……同じ卵から生まれたはずなのに。その片割れの弟天使は、大した功績をあげるでもなく、ただただ他人の陰口を気にしてばかりの小天使でしかなかった。
真面目なだけが、唯一の取り柄であったクラウスの目に、サハリエルはとてもまぶしく映ったのに……。
地上に降りた兄は、あろうことか天から堕とされた。人と交わり子を成して、天の智恵を人間に差し出した。あの、優秀だった兄が。
……双子の兄が堕ち、尚の事、かの双子と重ねて見られるようになったクラウスは。天に居づらくて。
いっそのこと、兄を追って堕ちてしまおうかと思ったことは数知れず。
……サハリエルの討伐を命じられたのは、そんな折りだった。命令者は、神その人で。命令を預かり、伝えに来たのは――。
「宵の明星」。
「慈悲」、「正義」、「聖別」……。他にも多くの名を背負う、天獄のプリンス、ミカエルその人だった。
キラキラ光る白い六枚羽は、天使たるクラウスの瞳にも眩しいほど。神の御印のついた剣を差し出して。そして、彼は言った。
「私にもかつて、兄が居ました。……彼は愚かしくも大いなる御方に背き、多くの御使いを連れて堕ちました。私は、以来、彼を討ち果たす命を、大いなる御方より賜り、今もまだ、彼に静かなる終焉を与えるべく、かの堕天使を追っています。」
蜂蜜色に輝く、剣。聖なる光を刃に宿し、魔を打ち砕く力を凝縮した武器は、確かに、ミカエルの腰の物と同じもので。
「クラウス。神の命を伝えましょう。『悪しき魂を滅する力を与えよう。堕ちた魂を狩れ。悪魔となった兄、サハリエルを追うのだ。……見事討ち果たしたならば、主天使の位を授けよう。』……神は、貴方の事を気にかけ、憂いておられます。本来なら優秀な御使いである貴方が、心無い御使い達の言葉に堕ちていく様を。クラウス。これは、神に賜りし試練なのです。貴方の強さを他の御使い達に示し、堂々と階を上がって来なさいと、大いなる御方は仰せなのです。」
創造主から命を賜り、天獄の英雄に励まされれば、ただの天使に過ぎないクラウスは頷かざるを得ない。
「……では。天使クラウス。行きなさい。」
天獄一の有名人に見送られ、そうして天から地上に初めて降り立ったのは……、もう一万年以上前の話だ。
それから、ずっと、クラウスは悪魔となったサハリエルを追い続けていた。
……しかし。
天使であったときから、サハリエルとクラウスの力の差は明らかなものだった。それは。堕ちて尚、変わることなく、力の差は歴然と存在し、それは、クラウスに、サハリエルと刃を交える機会すら与えなかった。
……どころか、初めの頃は兄の所在さえまともに追えない体たらくだった。天使にとって絶対であるはずの神の力を失い、堕ちたはずの魂の輝きが。……どうしてだろう。何故か、以前にも増して光輝いているように見えて。
己の無力を思い知らされながら、感じるのは悔しさよりも嫉妬ばかり。裏切られた心に渦巻く闇に、蓋をして、見て見ぬ振りをしたまま。力が足りぬまま、感情任せに剣を振り回す。
神に賜った武器に宿る神の力に頼り、その絶大な力に自分の方が振り回されながら。……それでも、一万年の時は、クラウスの位を小天使から大天使へと昇らせた。
地上を西へ東へと飛び回る内、雑多な魔物を数多く討ち果たし、僅かずつながら、力をつけたクラウスは、あの日、初めて兄に膝をつかせたのだ。
……激しい斬り合いの中、消耗した剣が折れ、折れた剣先が偶然悪魔の胸を抉り、勝負はついたかと思われたのに。
イレギュラーとはいえ、手柄は手柄だ。ようやく苦労が報われたのだと、そう思ったのに。
その後の不測の事態により、彼は、中級三隊によって討伐され、封印されてしまった。当然、出世話はパァ。……どころかクラウスは、左遷されてしまった。
「ずっと、憎らしかったんだ、あの悪魔の事が。あれが、堕ちたと知った時から。」
どんなに真面目に神に仕えようとも。
――カナワナイ。
そう、思い知ったあの瞬間から。クラウスは。
「我は……、あれを我の手で廃し、あれを越えるのだ。神に従わぬ魂に、神の忠実な僕たる我の魂が劣るなど、そんなことがあってたまるか!!」
心の眼を閉ざしたのだ。信じるのは、己が仕える主のみ。信条と食い違う事実は全て偽りと邪に染める色眼鏡で世界を眺めれば、歪な世界も、整然として見える。
それは、ピカソの絵画やピサの斜塔を芸術と捉える人の感性とはまるで真逆のもので。
……他人の意見に耳を傾けたりだとか、そんな余裕を持てるような広い心は、クラウスには無かった。
――お前、お偉い上司がついてるからって、あんまり調子に乗ってると、いつかきっと痛い目見るぜ?――
悪魔のほざいた戯れ言と。ルードの忠告も、彼の心には届いていなかった。そもそもが……、あんなもの、悪魔の――サハリエルの――言葉ですらない……。
堕ちた常人の魂など、それこそゴミ屑に等しいのだから。あの、2つの魂の輝きは、曇った瞳には映らない。
「おい、奴らの逃げた先はまだ着かぬのか?」
東の空が白く染まり始めた頃、ようやく地平線の向こうに、大きな湖が見えてきた。
「あの、湖の向こうの山を越えた先……、が、あの子の実家です。」
危うく、うとうとと微睡みかけたところへ声をかけられ、ビクリと目を開いた誠人が応える。
指差し、先を示そうと腕を持ち上げようとするが……
(――ダメだ……、もう……感覚もない――)
既に、瀕死の一歩手前といった状態では、もう言葉を発することすら厳しかった。半分以上夢心地の誠人の耳に残る、クラウスの言葉。
そして、魔物も存在するのだと言っていた、竜姫の台詞。
そして。
不意に、誠人の脳裏に、一つの記憶が閃いた。
紅い、色が。紅い瞳が。
あの日。
一日中、災難に苛まれ続けたあの日の、一番初めの災厄であった、制服行方不明事件のあのトイレの個室で。
妖しく輝く瞳を見た途端、意識が飛んで………、気付いた時には、制服と記憶が無くなっていた………。
あれが。あの、紅い瞳が。……吸血鬼、なのだとしたら。
あれを、……あの、見るからに人ならざる存在だった彼を、擁護するからには、何か訳があるのだろうか?
側にいるだけで恐ろしいと感じる、この天使が、これ程躍起になるような、そんな相手を。
竜姫は、何のために連れて逃げたと言うのだろうか。
血を、与えてまで。
もう、誠人の常識では測りきれない事ばかりで……。
(――そうだな……、もしこのまま無事にたどり着けたなら……、まず最初に謝って……、話を聞こう――)
眩しすぎる朝日も、誠人の冷えた身体を暖めるにはまだまだ役不足で。突き刺さるような水面に散らばる光を見下ろしながら。誠人は、目蓋を閉ざした――。