無理矢理エスケープ!!
くすくすと、わざわざ人を指差しながら、忍び笑う声。教室でも、廊下を歩いていても、寮の食堂でも……。
とにかく、何処へ行こうとも付きまとう不愉快な雑音に、誠人は我慢の限界に達しつつあった。
原因は、先日の己の奇行にある。……が、それだけならもう、噂はたち消えていただろう。
日々積み重ねてきた信頼度は伊達じゃない。
……噂を煽る原因は、彼の頬にクッキリ浮き上がった赤い手形。昨日、従妹にひっぱたかれてできた傷のせいだった。
一昨日辺りから、とにかく良いことがない。
テスト前だというのに、勉強が手につかず、ベットに大の字に寝転がったまま、イライラ、ソワソワと落ち着きなく寝返りを繰り返す。
「……何で、誰も竜姫の事を覚えてないんだ?」
頬の腫れた理由を説明するも、誰も彼もが決まって返してくる問い。
『神崎竜姫って、誰?』
『……そんな娘、いたっけ?』
……まだ転校してきて間もないとはいえ、それでももう三ヶ月は経つ。
どんなに目立たないタイプの人間だろうと、同じクラスの人間が、誰一人――クラスの担任も含めて―― 竜姫の名前すら知らないというのはどういう事か。
しかも、彼女自身の行方も知れない。
「……どういう事なんだ?」
ポツリと、独り言のつもりでそう、一人、天井に向けて呟いた台詞。
「……お前。記憶を消されてないのか?、奴の術に。」
その独り言に応える声が、自分以外誰も居ないはずの部屋の隅から返った。
「……っ!?」
何故か、聞き覚えのある気がする声。
急いで飛び起き、部屋中に視線を忙しく走らせる。
「っ、ということはっ、お前、やはりあの魔女と通じているのか!?」
フッと、周りの空気が歪んだ気がして。目の前に突然、この明るい部屋の中で尚、光り輝やく男が一人、姿を現した。
……輝く金髪。それも、地面にまで届く様な長髪。日本人にしては白っぽすぎる肌。……天使みたいな翼や輪っかをつけて、古代ローマ人みたいな服装で。腰に携えた剣にはキリストの神の御印が。
……それらには。見覚えが、あった。
「お……っ、お前っ……!」
そうだ、この男はあの夜の……。
「人間。大いなる御方に遣わされし大天使である、このクラウスをお前呼ばわりとは……、許しがたい、今すぐ神の裁きを下してやる! ……、と、言いたいところだが……。今は、お前に尋ねたい事がある。」
静かに抜いた剣の刃先を誠人の首元へ押し当て、
「答えろ。魔女は何処へ逃げた?」
視線だけで心臓を止められそうな、殺気を宿らせた蒼の瞳で彼を睨み付ける。
……ルードや竜姫であれば、またかと呆れこそすれ、この程度、脅しとも取らなかっただろう。
しかし、誠人は。
彼らとは違い、常人だ。……加えて、優等生であり続けてきた人間だった。……こういった、緊迫した修羅場に遭遇した経験など無に等しかった。
そんな彼にとっては、己の急所に突きつけられた剣の刃先や、射殺されそうな視線等無くとも、彼から放たれる大天使たる強大かつ強力な存在感と威圧感だけで、十分な脅しであった。
「ヒィッ、」
反射的に上げた悲鳴は声にならず、喉の奥に詰まったような呼吸音だけが口から漏れる。
ピッタリと急所を捉えられ、動けない。
「さあ、答えろ。素直に言えば、先程の無礼は水に流してやろう。」
男の顔に浮かぶ、狂気の笑み。
「……なっ、ま、魔女なんて非常識なもの、い、居るわけない……、だ、ろ?……、」
恐怖にどんどん血の気の引いていく顔を晒しながら、誠人はそう言いかけて……、途中で言葉を失くした。
目の前で、剣を突きつける存在。……天使だと名乗った男の背にあるのは一対の白い翼。頭上に浮かぶ、金の輪っか。
……格好だけなら、コスプレと片付けられたのに。なんの冗談か、男の足が地に着いていないのだ。……つまり、宙に浮いているのである。
ここは、自分の部屋だ。当然こんな男をワイヤーなんかで宙吊りにした覚えなど無いし、 ……そもそも、いくら視力が悪いからと言って、この至近距離で、そういった仕掛けを見逃すなど有り得ない。
……間違い無く、この男は自力で宙に浮いているのである。そんな有り得ないはずの存在が、目の前にある……。
「お、おま……、あ、いや、貴方は……、本当に……、天使? ……、なら、魔女というのは?」
……一体、なんの事なのだろう?
「お前の血縁に、神崎竜姫と名乗る娘がいるだろう。そやつの事だ。」
問うた誠人は、返った答えに、
「……え、竜姫ちゃんが、……魔女? まさか。彼女は普通の女の子で……、」
まさか、と。そう思った。
しかし。
「下手な庇いだてをするな。本来、常人の目には映らぬ我を視、使い魔を従え、強力な魔術を行使するアレが、普通の人間な訳がなかろう。」
天使は、バッサリと切って捨てた。
「昨日と一昨日、この部屋に封印を施し、我のこの部屋への侵入を妨げたのは、あの小娘の仕業だろう?」
天使に言われて、思い出したように、誠人は、机脇のゴミ箱を見た。ゴミ箱の中の、一番奥の方にあるはずの、それ。
……竜姫に貰いはしたが、胡散臭いと、クシャクシャ丸めてさっさと捨ててしまった紙切れ。それが、本当にこのデタラメな存在に効いていたのだとすれば………。
「……、でも、使い魔って……、……そんなもの、見たことも無いし……、」
今まで、真剣に目を向けてこなかった竜姫の主張が、否応無く、彼の目の前で、事実として展開していく。
「当たり前だ。常人のお前に、あれが視える訳がなかろう。我とて、昨日今日にここへ降りた訳ではない。もう、数百年ここにいる、……が、お前はあの晩まで、一度たりとも我に気づかなかった。」
視えない、だけ……。
今、現実に居ない存在。それが実は居たのだとしたら。ただ、自分の瞳に映っていなかっただけだったとしたら。
……自分の見た世界が、万人共通のものだと、そうずっと思っていたことが、実は違うのだとしたら。
「……いるよ。神様はいる。神様だけじゃなく、魔物の類いもね。」
……竜姫は、そう言った。
それが、真実なのだとしたら。
「じゃあ……、本当に彼女は……、巫女……なのか……? ……でも……、魔女って……?」
「馬鹿者。大いなる御方に従わぬ異形を神と崇める者は魔女だ! 神の裁きを受けるべき存在だ!!」
グッと、突きつけられた剣に力がこもり、刃先が肌を傷付ける。
つつぅーっ、と、赤い線が刻まれ、そこから血が流れ落ちた。
「か、神の裁きを……って、竜姫ちゃん、どうなるんだ?」
「殺すに決まっているだろう。」
冷たく言い放つ天使に誠人は、
「……っ、そんなっ、」
苦い表情をする。
「本来なら、我の質問に応えぬお前も、今すぐ斬り捨ててやりたいが……、未だ結界の余波の残るこの場ではお前に危害を加えられん。」
……たいした傷ではないにしろ、この、首元の怪我は、この天使の基準では、危害の内に入らないらしい。
「やっぱり、竜姫は学園にいないんだな?、……何故?」
この、試験前の大事なときに学園に居ないのは何故か。……誰も彼女の事を覚えていないのは何故?
「……彼女は逃げたのだ。我から。」
「逃げた……?」
「だから、こうして尋ねている。奴の行き先を知らぬのか、と。」
天使は、冷徹な瞳を更に凍てつかせて問うた。
誠人に、抵抗する術などない。
「あの子が帰るなら……、実家の神社しかないかと……、」
誠人は答えた。
……自分の親に引き取られて約半年経ったがそれでも、彼女が帰るべき家としたのは、誠人の両親が待つ街の家ではなく、田舎の神社だった。
「それは、どこにある。」
重ねて尋ねられ、誠人は、
「な、長野と岐阜の県境近く……、の……、山に囲まれた。」
訳の分からない存在相手に、どう説明したものかと、一瞬迷ったものの、そう答えた。
が、やはり、
「それでは分からん。」
と。……そして天使は、
「お前。我を案内しろ。」
当然といった態度で要求した。
「え!? ……、でも……、」
まさか、生徒会長を務める自分が、この時期に学園を離れるわけにはいかないだろう。
だが、
「今ここで、死にたいか?」
そんな、誠人の側の事情など一切歯牙にもかけず、天使は言い放った。
「……。」
剣を突きつけられて、そんな事を言われれば、誠人は頷かざるを得ない。だが、
「でも……、」
誠人は、机に置かれた時計を見て、
「こんな時間じゃ……、今日はもう電車が……、交通手段が無いんですが……? 到底歩いて行ける距離じゃないし……、」
と、しどろもどろに言い訳する。
時計は、九時を回っていた。……しかし。
天使は、ニヤリと、背筋が寒くなるような笑みを浮かべて、
「ふん。人間の造ったちんけな移動手段など無くとも我は困らん。我には大いなる御方に与えられし翼がある。」
ガシッ、と。誠人の首根っこを捕まえて、高校生男子の体重を軽々持ち上げて。
「さあ、行くぞ。」
まるで、これから夕食にでも出掛けるような気軽さで、天使は、寮の窓枠に足をかける。
「うっ、ぐっ、ぐるじ……、苦しいですっ!」
首根っこを捕まえられたままの誠人は、首を絞められ、涙目になりながら苦情を訴える。
煩いとばかりにクラウスは眉をひそめたが、青かった誠人の顔が赤く染まっているのを見て、彼を小脇に抱え直して、外へと飛び出した。
……時間は九時。季節は冬、十二月。誠人の服装はと言えば、部屋着のトレーナーとジーンズといった軽装で。
「うわあぁぁぁぁ!!!」
宙空に突然放り出され、誠人は、恥も外聞もなしに悲鳴を上げた。
骨身にしみる寒さ。不確かな状況にいる怖さ。……真剣に、泣きたくなってきた。
「さあ、どっちへ行けば良い? 北か、南か?」
「……東へ。」
天使は、ほんの数時間前に、久遠が駆け抜けた同じ道のりを、それより少し高い目線で追いかける。
地上ですら凍える夜風を、より高い場所でモロに受け、誠人は、呼吸を詰まらせた。
……誠人は、己の命の危機をすぐそこに感じ、自分の不運を呪いながら。目的地に辿り着くまで、命が無事にあるよう祈ろうとして……、やめた。
この男が天使だと言うなら、今までずっと信じてきた神に祈ったところで、何が変わると言うのか。
……今更、ずっと否定し続けた存在に祈るのは、さすがに気が引ける。
誠人は、今までの自分の姿勢を振り返りつつ、少し神妙な面持ちで、眼下を流れてゆく景色を眺めながら、竜姫に叩かれた頬を、そっと撫でさすった。
頬は、寒さに当てられ、手形の赤より赤く染まっている。
と、夜空を流れ星が駆けていった。
普段なら、迷信の類い等信じない彼だが、今回ばかりは、何かの前触れのようで……。それが、凶事の前触れでない事を願いながら、星の消えた夜空の一点を見つめたまま、誠人は、クラウスに抱えられて、豊生神宮へと、文字通り、飛んでいく。
……ある意味、今までに無かった新たな視点だ。
ここから、何が見えてくるのか。今は……。夜も更け、重たくなってくる目蓋を閉じてしまわぬように。
涙で歪む視界で、一点を睨み続けた――。