新たな緋の元で……。
うっすらと白む窓の外に琵琶湖を映し。明るさを増していくごとに、遠ざかる湖を背に、山の中へと線路は続く。
昇る太陽の前にそびえる富士山は、中腹辺りまで雪に覆われ白く染まり、荘厳な雰囲気を醸し出している。
寝台列車を降りた駅のホームに、朝日が斜めに射し込んでくる。目覚めたばかりの竜姫の目にはそれは眩しすぎて。目を細め、後ろを振り向けば、ルードは眉間にシワを寄せてそっぽを向いている。
朝の比較的早い時間だが、街へ向かう列車の発車する向かいのホームには、通勤・通学客が溢れている。げんなりしながらそれをながめるルードに、竜姫は、
「大丈夫、私たちが乗るのはあっちの電車だから。」
ちょうどホームへと滑り込んできた四両編成の洒落た列車ではなく、その一つ向こうのホームにさっきから停車している二両編成の、時代を感じさせる趣きある車両を指差し、言った。
ホームはガラガラ。車内の人影もまばら。隣の喧騒が、まさに他人事。
そんな列車で、この忙しい朝の時間帯に、わざわざこちらに注意を向ける者はいない。唯一、車掌が「切符を拝見」しに来た以外は実に静かな旅。
一晩寝て起きて、竜姫の身体の調子も大分良くなった。……正直なところ、昨夜は眠れないかもしれないと思っていたのに。
それだけ、疲れていたらしい。まだ血が十分足りてはいないが、もう普通に動くくらいは平気なようだ。
「まだ、かかるのか?」
東南から、文字通り射るように注がれる陽光から、隠れる術もなく、ぐったりとだらしなく手足を投げ出し座るルードが尋ねる。
「んー、電車はあと三駅だけなんだけど……。またそこからタクシーで三十分。山道登って十分はかかるかな……」
昨夜一晩、宣言通り、一睡もしなかったらしいルードは、その答えに思わず呻き声を漏らした。ルードは、そんな己の状態を情けなく思いながら、込み上げてくる吐き気と戦っていた。
昨日、あれだけ血を摂取した後だ。いくら日の下にいるにしろ、こうも体が不調を訴えるはずはない。
一晩や二晩の徹夜ごとき、どうということはない。しかし、今日これからの事を考えると、緊張と不安とで、気が重くなる。
アナウンスが流れ、列車が止まる。コンクリを固めただけの簡素なホームが一つあるだけの小さな駅。ホームの隅には、掻いて退けた土や埃で黒く汚れた白い雪が積まれている。
一人、列車を待ってホームに立っていた客が、扉を開けて乗り込んでくる。開いたドアからは、冷たい空気が流れ込み、暖房の効いた暖かく緩んだ空気を一瞬で引き締める。
日に焼かれてぼうっとなった頭に、風は心地よく届き、ホームに集団で、忙しなくコンクリを頻りにつつく雀を見やりながら表情を緩めるルード。
それを横目に見ながら、心の中でこっそり、ホッとため息をつきながら、
「ルード、もう次だから。もう少し辛抱して?」
竜姫は、彼の体調を伺うように言った。
命にかかわらないからといって、吸血鬼である彼を朝っぱらから、こうして太陽の下にいさせているのは、……それが本人が望んだ事のためとはいえ、何となく罪悪感が付きまとう。血をあげられれば少しは楽にしてあげられるかもしれない。
「悪いが血なら間に合ってる。……余計な気を回すな、少し日陰に居ればすぐに回復できる。」
……そう、心の中でチラリと思ってみただけなのに、ピンポイントを狙って釘を刺された。
「……言っておくが、俺は何もしてねーぞ?」
膨れながら、疑いの眼を向ける竜姫に、ルードは言った。
「……。」
――それは、考えてることが全部顔に出ているという事?
竜姫は、考え込むように黙り込んだ。そうホイホイ内面を外へ漏らしては巫女失格だ。そんなこと、知られたら『彼女』にしばき倒される。間違いなく。開口一番に、
「半年間、何をしていたあぁ!?」
と怒鳴られ、人の範疇を越えたコブラツイストが待ち構える。竜姫は、既に被害者となった久遠の悲劇を知らぬままに、青ざめる。
急に狼狽えだした竜姫に、ルードは怪訝な顔をする。
アナウンスが降車駅を告げ、スピードを落とし始めた列車の中で、竜姫は、必死な顔でルードを問い詰める。
「ねぇ、私ってそんなに分かりやすい?」
彼女の問いに、ルードは自分の失言に気づいて、しまったとばかりに手で顔を覆った。危険な魔物と対峙したとして、相手に自分の考えを易々と読まれてしまっては、命にかかわる。
「気を抜かなきゃ、その手のお前のコントロールは完璧だよ。……だから、そう深刻に気にするな。」
後ろから手を伸ばし、自動では開かないドアの取っ手を引いて開けながら、ルードはもう片方の手を竜姫の頭の上にポンと乗せた。
少し、くすぐったい気分に踊らされたように。二人は歩き始める。
隣の駅とそう代わり映えのしない田舎の駅のホームで、大分高いところまで昇った太陽と、一人しかいない駅員の、ここまでに買った切符の束を渡されて驚く視線を背に、駅を出る。
昔ながらの商店が並ぶ通りが一本、線路と平行して走る。線路と通りとを挟んで立ち並ぶ商店街は、まだシャッターが降りている。
人通りもまばらで、少し寂しい感じがする。
慣れ親しんだ町並みだが、駅前に、大きなショッピングセンターが、どーんと建っていた向こうの駅と比べると、うんと田舎じみて見えるようで。
……まあ、事実田舎なのだが。店さえ開けば賑やかになって、とても素敵な町になることを知っている地元民としては、少し悔しい気もする。もう後小一時間もすれば店は開く。
けれど、今は時間が惜しい。竜姫は、ルードをタクシー乗り場へ引っ張って行く。財布はもうこれでスッカラカンになるのを承知で、行き先を告げる。
「豊生神宮までお願いします。」
タクシーは、踏み切りの無い線路を渡って東へ向かい、走り出した。商店街を抜けた先は、すぐ畑と田んぼが、正面に並ぶ山まで整然と並んでいる。
ルードは、畑に植わった作物を指差しながら、興味津々に尋ねた。
「なあ、あれは何を作っているんだ?」
「あっちの畑に生えてる細長いのは長ネギ。隣のギザギザの葉っぱは大根。むこうは白菜。」
雑草を除き、霜でダメになった葉を間引き、野菜に防寒対策を施す農家の人々も、そろそろ一段落と、一人、二人と引き上げていく畑には、見知った顔が並んでいる。
竜姫は、なるべく顔を合わせぬように、畑を見ることなくルードの問いに答える。幼い頃から慣れ親しみ、見慣れた景色。光景は、改めて確認せずとも目に浮かぶ。
田畑を区切る畦道が、網の目のように張り巡らされている中の幾つかが、舗装されて車が通れるように整備されている。
ちょうど、大きな箱に小箱を幾つも詰めて仕切ったように。そして、大箱を幾つも敷き詰め、その隙間隙間を埋めるように所々、ポツポツと民家が点在する。
町の北側に作られた貯水池から畦道に添うように走る用水路では、雀や鳩がこの寒い中水浴びをしている。冷たい水の中で、翼をバタつかせ、水滴を弾き飛ばす。
順番待ちの雀が、何もない田んぼを眺める。ほんの一月前のたわわに実った黄金の稲穂を懐かしむように。
そこへ一羽のカラスが舞い降り、小鳥の群れを追い散らして我が物顔で水浴びを始めた。その向こうに建つ学校の校庭では生徒達がジャージ姿で集まっている。
体育の時間なのだろう。あの顔ぶれを見るに、どうやらあれば同級生達のようだ。校舎はそう大きくもないが、広々した校庭では、準備体操の後のランニング中らしい。男女入り交じり走る。……半年前までは、あの中に普通にいたのに。
もう吹っ切った事ながら、少しばかり複雑な思いがふと心を過る。
車は、そんな心情など知るよしもなく、軽快なスピードで走り過ぎる。高い建物もなく、遮るものなく広がるのどかな風景に、ルードも、どこか故郷の村と無意識の比較をしながら町を眺める。
「ここが、竜姫の生まれ育った場所なんだな……。」
おおよそ、犯罪はもちろん、ご近所同士のトラブル等とも無縁な、平和な町で。
「ほら、あの正面右手に、他より少し小さめの山が見えるでしょう。あれが、うちの神社よ。」
言われてみれば、確かに山の中腹辺りに、朱塗りの建物が集まっているのが見える。……しかし、気のせいだろうか? 神社だと言うわりに、あの近辺にだけ、なにか黒いモノを感じるのは……?
ほのぼのとした空気が漂う周囲とは裏腹に、がぜんルードの緊張は増す。
一世一代の大勝負だ。ここで、負けるわけにはいかない。目の前に迫ったその時を改めて目にして、ルードはグッと拳を握りしめた。
そう、いよいよ、だ。
――俺の過去と未来がここで決まる。生きるか死ぬか。
さあ、いよいよだ。
タクシーは、山のふもとで停まり、ドアが開いた。舗装すらされていない登山道の入り口に、「豊生神宮」と書かれた石柱が立ち、少し奥まった先には石造りの鳥居がそびえている。
鳥居を潜った先には、丸太で段をつけた山道が続く。
季節柄、多くの立派な大木も今はほとんど皆葉を落とし、山は白々としているが、季節になればさぞかし辺りは幾つもの緑で覆われるのだろう。
茶色く朽ちた枯れ葉が、下の地面が見えないほどに撒かれた道に、点々と溶け残って凍った雪が、神社へ向かう者達の足を引っ張ろうと待ち構えている。
踏み荒らされた葉や雪を見ると、どうやら参拝客は結構いるらしい。
「この道を上がった先が、本殿よ。」
支払いを済ませてタクシーを降りた竜姫が、凍って滑りやすくなった道を、そうとは微塵も思わせない足取りで踏みしめる。
こここそが、己のテリトリーなのだと、一歩鳥居を潜った瞬間に、竜姫は、改めて思い知る。拒絶され続け疲弊していた魂が、あるべき場所に戻り、本来の力を取り戻す。
まだ少し重かった足取りは明らかに軽くなり、山道を登っているにもかかわらず、足の運びが速くなる。
……おそらくは無自覚なのだろうが、表情からも今までルードが気づけなかった僅かな堅さが消え、柔らかな笑みが浮かんでいる。ここは、まさに神のお膝元。悪魔や吸血鬼が真っ昼間に訪ねるには本来は向かない場所だろう。
しかし、あの古い礼拝堂でいつも感じていた身体に来る不快な威圧感を、今ルードはまるで感じていなかった。
……ある程度力に制限がかかるであろう事は覚悟していたのに、鳥居を潜り神域へ入った今でも、昨日、クラウスとやり合ったあの時よりも力は溢れている。
昼日中でさえなければ、力の制限なと無に等しいだろう程に、ここは、ルードにとっても居心地の良い場所のようだ。
魔物に堕ちた時点で、神は敵になったのだと、ずっと思っていたのに。もしかすると、自分は井の中の蛙だったのかもしれない。
そう、改めて突きつけられたようで。ルードは、少し複雑な想いにかられた。
……それに。山の上、ちょうどさっき見えた社の辺りから、断続的に感じる殺気も気になる。身体がどうこういう類いのものではないから、「魔物」である自分に向けられたものではないだろうが、しかし……。
これは明らかに、漠然と漂っているような類いのものではなく、自分達に向けられた殺気だ。と、なると……。これは……?
「……。」
幾つか考えつく理由は、どれもルードの気持ちを重くするものばかりで。門前払いこそされなかったが、やはりここからは厳しい闘いになりそうだ。
ルードは、一段一段、段を確実に踏みしめながら、全身にのし掛かる殺気の出所へと続く道のりを、竜姫の背を追うように登っていく。
「へぇ、あれが噂の坊っちゃんかい? ……成る程ねぇ、確かにアレはちょいと厄介だねぇ。」
呟く稲穂。
「色々気に食わない奴だけど。……でも、悪い奴じゃない。好きにはなれそうにないけど、助けてやりたいとは思う。」
久遠は言った。
「ここへ来たいと言い出したのは彼、だったね?」
久遠に問う声。
「……はい、多喜様。」
「この、吹き込んだ新しい風が、追い風となるか……逆風となるか……。こんな短期間の内にこうも色々事が動くとは。千年生きてきて、初めてだよ。事は中々に、面白いことになりそうだねぇ?」
鏡から聞こえる、破天荒な女帝の台詞に、久遠はため息をつきながらも、己で感じ取った動き出した運命の奏でる音を思い、眼下の二人を見つめる。
ほんの、数時間前に別れたばかりのはずの二人の心の距離は、見ればすぐに分かる程、あきらかに縮まっている。
若干、不機嫌そうな顔をする久遠の隣で、稲穂が握りしめた拳に息を吐きかける。
「ふふっ、まだ殴られ足りなかったかしら? ……ねぇ、久遠?」
忘れようとしても忘れられない、身体中をズキズキ苛む痛み。さんざんしばき倒されたばかりの彼は、我が身を守るため、心の中の雑多な感情を全て押し出し、心を無にする。
……少しだけ。ほんのちょっとだけ。ルードのこれからの運命を、案じながら――。