大切なモノ。
いつしか太陽は山の向こうに隠れ、背後の月は刻々と明るさを増して来ている。
山の木々を跳び越え、葉が落ちて白い枝が目立つ森を眼下に見下ろしながら、ルードは空中で体制を上手く整え、百数十メートルの距離を、跳躍一つで済ませる。
なるほど、これなら一キロ三分というのも納得だ。
……荷物的に背負われていたら今頃自分は彼の背で何を思っていただろう。
この激しい上下運動に伴う衝撃は、ルードの気遣いによってかなりの軽減がなされている今の状況下でもまだ厳しいものがある。
……竜姫は、自分の身をちゃんと気遣ってくれたルードに心の中で礼を言い、また安易な文句を口にした自分を反省した。
一つ、また一つと、闇に塗り潰されていく空に浮かび上がる星。
山を一つ半も越えた頃。数えるほどしかなかったそれが、空全体に広がる頃、見渡す限り木の海だった眼下の景色にも、星明かりに似た街の明かりが、網にかかったホタルイカの群れのように広がるのが見えて来た。
「街の明かり……、見えて来たね……。」
どうやら、空が完全な闇に飲まれる前には街に入れそうだとホッと呟きながら、竜姫は、街の向こうの西の空、地平線近くに僅かに残された太陽の残り香を眺める。
「……さて、どうする?」
少し、速度を緩めてルードが問う。
「ひとまず、街外れの山道に降りるが、俺のこの格好は目立つんだろう? ……目眩ましを使えば問題はねーけど……俺としてはあんまり長時間術を使ったまま歩き回りたくねーんだよな……。今日はもう絶対に、力の制御を誤る訳にいかねーから。」
それが、彼にとってどれ程大変なことなのか。それを知る竜姫は、申し訳なさそうに切り出した。
「……うーん、田舎の小さな街だから、街外れから街の中心部まで歩いても一時間かからないし……、バスかタクシーを拾えば二十分もあれば駅前まで行けるからさ、そこまでなんとかできないかな? 駅前まで行けば服も買えるし、トイレかなんかで着替えちゃえば後はもう目眩ましなんか必要ないでしょう?」
彼女の言葉に、少し考え込みながらも、
「まあ、その位なら何とか……。」
ルードは頷き、明かりが集まる場所から少し離れた場所で足を止めた。
「じゃあ決まり! ……とにかくまずはこの山道から、あっちに見えてるバス通りに出なくっちゃ。」
そっと地面に降ろしてもらいながら竜姫は、茂みの向こうを指差して言った。
「……田舎だからね……、バスの本数も多分かなり少ないと思うんだ……。もし、バスがなかったら、ちょっと懐が痛むけど、タクシー拾うね。」
……ルードの負担を考えても、バスよりタクシーの方が楽だろう。
そう思いながら、ルードに肩を借りつつ、人気のない山道を下り、時折、地元ナンバーの軽自動車が何台か通り過ぎるだけの通りに出ると、何か誘っているかのような立て看板が二人を出迎えた。
「大谷タクシー……、」
その一方で、山あいを縫うように走る通りを右端から左端まで、視力の届く範囲を見回すも、手近にバス停は見当たらない。
もう少し山を下ればあるのかもしれないが……。
「今はお金より、時間の方が惜しい時だし……、」
ポケットの携帯を取り出し、電波状況を確認すると……
「こんな山裾でもアンテナ三本立ってるなんて……。」
竜姫は複雑な表情をする。
正直、タクシー料金はやはり中学生の懐には痛すぎるのだ。バスがあるなら、ぜひともバスで行きたかった竜姫だが……。
「うぅ、もう、仕方ない……、非常事態だし……覚悟を決めるしか……。」
竜姫は、今月分の小遣いの振り込みが、つい先日あったばかりだった事に感謝しつつ、携帯のキーを叩く。
「……あ、もしもし、すいません――」
看板に書かれた番号に電話をする竜姫の隣りで、ルードはじっと、これから行く先の街を見つめていた。
山へと続く道を逆上れば、今しがた越えて来た山の中を学園方面へ続く道へと繋がっている。
その道に背を向けて、ルードは、山を下っていく道の先の明かりを眩しそうに眺めて呟いた。
「すげーな……。」
ぼんやりした灯の明かりしか知らなかったルードの目には、田舎町のまばらな街灯の明かりですら、きらびやかに映っていた。
「ルード、すぐ来てくれるって! ……で、ルード、悪いんだけど……。」
「ん、ああ……、目眩まししてくれってか?」
「それなんだけど、三十分ずっと術を使い続けるのと、人一人の記憶をちょっと弄るの、どっちが楽?」
紅い瞳を、伺うように覗き込みながら、竜姫が尋ねる。
「タクシーなら、駅近くまで、他人に見られる心配なしに行ける。……運転手を除いては、ね。」
「……おい、いいのか? 俺にそんなポンポン軽く術を使わせても?」
呆れたようなルードの言葉に、
「……軽くはないわよ。ルードに無理させて、今調子を崩されたら大変だもの。なるべくなら使わずに済む方がいいでしょう?」
と反論した竜姫に彼は、頭を抱え、ため息までついて顔をしかめた。
「バカ、そういう意味じゃない。……本来、人に害をなし悪行を行う為の術を、俺が使っているのを黙って見過ごしていいのかって聞いてるんだ。」
……その気になればすぐにでも術に堕とせる紅い瞳を見上げる竜姫の瞳と視線を重ねながら、彼は言った。
「それと。お前は俺を甘く見過ぎてないか? ……ここはもう学園の外なんだぜ? しかも今は夜。さすがに今朝までみたいに、ちょっと小技をサービスした位じゃ、俺的には痛くも痒くもないんだ。……それでも、まあこの先、小技以上の力を要する場面に出くわしちまったらヤバイから、加減しているだけなんだからな?」
まるで説得でもしているかのように、竜姫に説いて聞かせるルード。
「ルード、バカって言う方がバカなんだよ? 力なんて使いようでどうとできるものじゃない。それとも何、あんたの力は悪行にしか使えない決まりでもあるの? ……違うでしょう? だったら、あんた自身が悪行を働こうと思わない限りは、折角ある力なんだもの、使えるものなら使わなきゃ勿体ないじゃない?」
ルードは、目を見開き――それから、目をぱちくりと瞬かせた。
……何か、とても眩しいものでも見つけたみたいに。
やがて、彼は柔らかく穏やかな笑みの中、静かに目を閉じ、
「……そうだな。この力が俺の支配下にある限りは、俺が使いたいように使える。なら、今までさんざん振り回されてきた分、役立てなきゃな……。」
辺りも暗くなり、周囲の見通しも悪くなる中、夜目の利くルードの目に、道沿いをこっちへ近付いて来る一対の眩しい明かりを見ながら笑った。
明かりは、かなりのスピードで迫り、二人の前で止まった。キッとブレーキが踏まれ、同時に後部座席のドアが片方、自動で開かれた。
竜姫は、ルードの手を引いて車に乗り込もうと背を屈める。
が、運転席のウィンドーが下へとスライドし、半分程開いた中から、五十代前後と思しき男性が顔を出し、不審な物を見る目で二人を見た。
……まあ、当然だろう。まだそう遅い時間ではないとはいえ、辺りも暗くなった山中に、女子中学生が、おかしな格好をした超絶美形の男を連れているのだから。
「……君、中学生だよね? その制服、片桐学園のだろう? それが、平日のこんな時間に、こんな所で何をしている?」
問い質そうとする運転手に、ルードは愛想笑いを浮かべながら近付く。
「やー、ちょっと複雑な事情がありましてね?」
にこにこしながら、こちらを窺う運転手と視線を重ね、
「ちょーっと悪いんだけどさ?」
パチッ、とわざとらしいウィンクをして見せる。
「……えー、あ、はい。すいません、お客さん、どちらまで行かれます?」
すると、新たに目醒めたかのように態度が改まり、お決まりのセリフでルードに行き先を尋ねた。問われたルードは、
「う……それは俺に聞かれてもなあ……。」
助けを求めて竜姫を見た。
「駅前のショッピングセンターまでお願いします!」
竜姫はルードを座席に押し込みながら目的地を告げた。
ルードに続いて、竜姫が乗り込んだのを確認した運転手は、ドアを閉め、ハンドルを切った。
そう道幅のないこの道で、何度か前進とバックを繰り返し、Uターンすると、アクセルを踏み込み、明かり溢れる街中を目指して車は走りだす。
車窓を流れて行く街の景色を眺め、ルードは改めて自分の『浦島太郎』ぶりを実感する。住宅街を抜け、商店の立ち並ぶ通りに入った途端、溢れる人と車と、街灯や車のライトや看板のネオンサインの洪水が、ルードの目に飛び込んで来た。
どんなに忙しく瞳を動かしても、流れて行く景色の全てを見る事は不可能で……。
時代も、国も越えて、……見た事も無い物が溢れる街は、ルードの常識で計れる物など、一つもありはしなかった。
ただ一つ、分かる事は……。
「豊かな街なんだな……。」
店頭に並べられた沢山の品物。……それが一体何なのかはよく分からないが。
「……そうね。ルードの生まれ育った環境と比べれば、きっとすごく恵まれてると思う。でもね、これでもここは田舎町なの。」
「……何か、すごく複雑な気分だ。」
街の賑やかさに興奮する一方で、寂しそうな表情をするルード。
「あの学園の中の狭い場所でも、何となくあった違和感が、ここにきてハッキリ感じるようになった……。だけど、そんな風に感じられるって事は……、俺は今、紛れもなくルードヴィヒなんだって実感できるんだ……。本能だけの獣や、何もかも、世界の全てを知り尽くした悪魔が、こんな事で哀愁なんか感じるわけないからな……。」
暖房の利いた暖かな車内で、ルードは呟くように言った。
「俺は生きてる……。俺はこの異世界みたいな場所で、これからもずっと……。」
物に溢れた豊かな時代で。
繋がれた手の温もりが、揺らぐ心を支える、唯一の確かなものだと、ルードにはそう思えて。握った手を、ギュッと解けないように、大切に。大切に、包み込むように握り締める。
手の中の温もりが、今の自分にとっては全てなのだから……。
彼は、いつの間にか自分の中で、天使への復讐が占める心の割合が急激に居場所を失いつつあることに気付かぬまま、ただただ、手の中の温もりに縋っていた――。