堕ちた光と輝く紅と
ガキっと鈍い音がして、気付けば二人は宙で斬り結び、緊迫した鍔競り合いをしていた。
竜姫の目には、まるで瞬間移動でもしたかの様に映った光景が、久遠にはコマ送りで見えていた。
それでも立ちすくんでしまう訳は……もちろんルードだ。だが、それとて昨日とはまるで違う理由。昨日は、彼から漏れた、制御の利かない邪気の気配の強大さに驚き、気圧された。
だが今は。クラウス相手にかなりの殺気を放ちながらも、邪気の気配は欠片程も感じられない。むしろ、クラウスが抑制無しに撒き散らす殺気の方が余程恐ろしく思える。
ルードとて、手加減を加えている訳ではない。
そもそも、彼の気持ちからすれば、身を捨ててでも殺してやりたいところであろうが、その想いを殺して、相手を死なない程度に痛め付けるには、相当な精神力が必要だろう。
ましてや、相手はクラウス。適当に手を抜いて戦って、無事で済む相手では無い。当然、ルードもそれは重々承知の上だ。
そうである以上、本気で戦っているはず。
……にもかかわらず、ルードの意識が揺らぐ事なく、戦いに必要なだけの力をしっかり引き出して戦っている。
しかもこの、彼にとって不利な時間と場所で、本人達二人はもちろん、竜姫や久遠ですらも口を挟む事の出来ない、一進一退の攻防を繰り広げているのだ。
……竜姫の血を飲んだとはいえ、それだけの理由では説明出来ない光景が、目の前にある。久遠は、廻り出した歯車が、二人の新たな導を引き寄せる音を聞いた様な気がした。
……目の前で確かに戦いが繰り広げられているのに――。
間のコマが幾つも飛んだスライド写真を見ている様にしか現状を把握出来ない。……竜姫は祈る様な想いで、時折剣のぶつかりあう音と共に散る火花と二つの人影の残像を目で追いながら、ジリジリと壁際へより、壁面を背でなぞる様に這って移動する。
一歩、また一歩。ルードとの斬り合いに夢中なクラウスに気付かれないように。クラウスを引きつけるルードの邪魔にならないように。
クラウスが天井にあけた大穴の下へと、慎重に、慎重に。
その様子を目の端で追いながら、ルードはそれと気取られぬ様、――襲い来る刃をかわし、己の剣で受け止め、弾き返しては間合いを調整し、スキを狙って切りかかり、反撃される前に、タイミングを計って間合いを取る――一連の動作を絶えず繰り返す。その心の中は、自分でも信じられない程に静まり返っていた。
力の手応えは感じているのに、悪魔や吸血鬼の存在を己の中に感じない。
剣を握る手も、地面を蹴る足も、脈打つ心臓も、全ては彼自身のもの。クラウスの剣筋を知り、次の一手を的確に読むのは、悪魔の頭脳。クラウスと互角にやり合える力を有した肉体は、吸血鬼の身体。
だがそこに、彼らの意識の存在が無い。
それらを支配し、操っているのは確かに彼、ルードヴィヒの意識。
昨日まで、殺したくて殺したくて仕方のなかった相手を前にして、これだけ冷静でいられるとは、正直、最初の一撃を交わすまで思ってもいなかった。
「おい、クラウス。俺は今、悪魔に取り憑かれてから初めて、カミサマって奴に感謝してるぜ。生かしておいてくれた事に……な。」
白目を真っ赤に充血させた天使を相手に、もう何度目かすら分からない鍔競り合いの最中、ルードはニヤリと笑った。
「……おかげで、見つける事が出来た。俺でも出来る、有意義な生き方ってやつをな。」
天使や大天使が為す術もなく敗れ、下級三隊の長である権天使ですら手も足も出なかった化け物だ。
だが、現在のコンディションでは、全力の半分も力を出せないはず。
今なら、大天使である自分の方が有利なはずなのに。
不利なはずの彼は、苦しさを一切見せず、それどころか余裕で笑って見せ、皮肉を含んだセリフを、鍔競り合いの真っ最中というタイミングで吐いた。
クラウスは、よく知るはずの相手が己の手の範疇から零れ落ちていく現実を直視するのが怖くて、それを見ない振りをしたまま、しゃにむに剣を振るい続けるが、心眼を曇らせた剣など、所詮、ルードの敵ではなかった。
一閃。大きく振りかぶった剣を、横なぎに振り切る。ありったけの力を込めた一撃は、鈍い白に輝くクラウスの神剣の刃を真ん中から真っ二つに叩き折った。
「クラウス。お前、お偉い上司がついてるからって、あんまり調子に乗ってると、いつかきっと痛い目見るぜ?」
白い翼で悠々と宙を舞うクラウスに対し、単に跳び上がっているだけのルードは、徐々に彼の視界の下方へと落ちていきながら、折れた剣の柄を握り締めたまま、まだ放心しているクラウスに、忠告めいた言葉を残し、地面へ降り立った。
手にした剣をマジックさながらの早業で消し去り、膝のバネをクッションに、身軽く着地すると、文字通り目にも留まらぬ戦いに目を凝らしたまま立ち尽くした竜姫を横抱きに持ち上げ、再び宙へと、大きく跳躍する。
天井の大穴を抜け、林を跳び越え、学園の塀さえも跳び超えて。
ハッと我に返った天使が振り向く頃には、竜姫はルードに抱えられたまま、久遠共々、学園の裏山の土手に転がり、安堵のため息を三人揃ってついていた。
竜姫は重度の貧血で青白い顔をしていたし、ルードも荒い呼吸を繰り返している。
学園の敷地外の場所で、力の制限が緩んだ久遠は、クラウスの追撃をかわすため、三人をギリギリ覆い隠せる程度の小さな結界を張った。
「……ルード、お前、調子はどうだ?」
確認の為の、久遠の問いに、
「……さすがに少し疲れたが、問題はない。むしろ気分は最高だ。」
ひらひらと、あげた手のひらを振りながら、ルードは穏やかに笑って答えた。
「今が夜なら、もう文句はねーってくらい、いい気分だ。」
寝転がったまま、眩しいはずの空を見上げて彼は、腹に乗せた竜姫の上半身を片手で抱いたまま、半分独り言のように呟いた。
竜姫は、起き上がる気力も体力も乏しい上、ルードの腕の中が予想以上に居心地が良くて、動くに動けないままに、先ほど噛み締めた悔しさを反芻しながら呟いた。
「ダメだなぁ、私。」
ため息と共に吐き出された彼女のセリフに、久遠とルードは思わず顔を見合わせた。
「……?」
互いに、彼女のセリフの真意を探り合うも、やはり浮かぶのは疑問符ばかり。
頭上を白い物体が、物凄いスピードでどこかへ飛んで行くのを、他人事のように見送りながら、二人は、取りあえず竜姫の体調が復調するのを待つ事で合意し、ルードも消耗した体力を取り戻すべく、瞳を閉じて仮眠する事に決めた。
久遠は、暖を取るための火を、狐火に頼り、青く光る小さな炎を彼らの傍らに発生させ、自分は見張りのつもりで土手から学園を見下ろした。
まだ、初めてここを訪れてから三か月程。赤レンガで壁面を統一したお洒落な建物。二時間目の終業を告げるチャイムが、久遠の心に空しく響いた。
新たな導が果たして何処へ続いているのだろう。希望と不安とが、久遠の脳裏をよぎる。
――どう転ぶにしろ、全ては竜姫と、ルード次第で、未来は大きく変わるだろう。
それも、目まぐるしいスピードで。
久遠は、休憩時間に賑わう校舎を眺めながら、塀の中に暮らす彼らと、今こうして塀の外にいる自分達の間にある、薄くて透明な、けれども広く高い、硬質ガラスのような壁の存在を、普段以上に感じていた――。