悪夢
ざあざあと、雨音が、聞こえる。ズキン、と頭が痛み、あの日の記憶が蘇ってくる。
これは、夢なのだと、分かっているのに。聞こえてくる声に、たまらず泣きたくなる。必死に自分の名前を呼び、逃げろと叫ぶ、両親の声。襲い来る魔物達の咆哮。充満する血の匂いにむせ返りそうになる。
ごうごうと風が周囲の木々を大きく揺さぶり、横殴りの雨が容赦無く叩きつけられ、ずぶ濡れになった身体から、体温が奪われていく。多量の水を吸い込んでぐしゃぐしゃになった土が、足にまとわりつき、思う様に走れない。疲れきって、冷えた身体から、体力が失われ、足が、どうしようもなく重くなって、動けなくなって。そして、気を失った。
「――竜姫、起きて。竜姫。」
そう、呼ぶ声に気付いて目を覚ました竜姫の目に映ったのは、白一色の壁紙が貼られた天井で。視界の隅に映った窓の外では、ざあざあと、音を立てて大粒の雨が降り注ぎ、時折吹き付ける風が、雨粒を窓ガラスに叩きつけていた。
「竜姫、大丈夫? また、あの夢を見ていたの?」
そう、心配そうに覗き込む、金の瞳。とがった鼻先で竜姫の頬をつつくその生き物に、竜姫はホッとした様に微笑んだ。すべらかな金色の毛皮の背の部分を軽く撫でてやりながら、竜姫はベッドから身を起こし、窓の外を眺めやる。
「すごい雨。まるで、あの時みたいな……。」
ズキズキと鈍い痛みを頭に感じる。あの日から、雨の日はいつも頭痛に襲われる様になった。今日の様な土砂降りの日等は痛み止めの薬無しには何も出来ない程の痛みに苛まれるのだ。
「久遠、机の引き出しに入ってる薬、取ってくれない?」
竜姫の頼みに、金色の獣は、ふさふさした九本の尾を揺らめかせながら、ぴょいっ、とベッドから飛び降りると、前足で器用に引き出しをあけ、中から薬箱を咥え上げて竜姫の元へ運び、彼女の膝の上へ置いた。
薬箱の留め金を外し、中から鎮痛剤を選んで取り出す彼女に、久遠は机の上に出しっ放しにしてあった水の入ったペットボトルを咥えて渡すと、
「急がないと。朝食に間に合わないよ?」
ベッドの脇に作りつけられた古めかしい木製の学習机の上に置かれたデジタル製の目覚まし時計を鼻で指し示した。時計は、すでに六時半を指していた。 この寮では朝食は六時から七時と決まっており、一分でも遅れれば、食いっぱぐれてしまう。慌てて着替えようとパジャマのボタンへ手を伸ばしかけて、はたと気付いた。
「あれ、これ、制服……。え、何で?」
自分の格好を見下ろしながら、戸惑いの声を漏らす。
「制服のまま、寝てたんだよ、竜姫。」
「え、だって昨日は……確か、クラウスに絡まれて、それで……。それから、どうしたんだっけ?」
昨夜の出来事を思い出そうと記憶を辿る竜姫に、久遠は、
「そう、あのバカ天使のせいで竜姫は古い礼拝堂の掃除をさせられる事になって……。」
記憶を手繰り出そうと昨日あった事を順を追って語り出した。
昨日は、散々だったのだ。昨日は日曜日で、カトリック系のキリスト教団体を母体とした全寮制のこの学園では、朝早くから礼拝が行われていた。整然と並べられた机と椅子。そこにズラリと並んで座る生徒達の列の中に、竜姫もいた。壇上に立ち、聖書の一説を読み上げ、説教を行う神父の長ったらしい話を、大部分の生徒は半分夢心地で聞いていた。しかし、竜姫は夢心地どころか、背後に立ち、殺気を放つクラウスを警戒するのに忙しくて、説教の内容など、右から左へ抜けて行った。
天使は、基本的に霊体の姿で現世に降りて来る。したがって、常人には姿を視るどころか、声すら聞こえない。この広い礼拝堂の中、誰一人、クラウスに気付かない。あの壇上で偉そうに神を語る神父も、この天使の存在にまるで気付いていない。
そんな状況の中、あろう事かクラウスは腰にさげた神剣を抜き放ち切りかかってきたのだ。これにはたまらず机を乗り越え慌てて避けた竜姫の目の前で、長机に剣が突き刺さり、机はパキりと真っ二つに割れた。
クラウスも、神剣も視えていない常人の目には、竜姫が素手で机を叩き割った様に見えたらしく、散々説教を食らった上、罰として旧礼拝堂の掃除を命じられたのだった。
……これだけで、充分災難だったのだが、この日の災厄はそれだけでは済まなかった。
もう長いこと誰も使っていない、埃だらけの床をモップで水拭きし、タイル状に敷き詰められた木製の床板を丁寧に磨き上げていた竜姫は、神父が説教するために一段高く作りつけられた壇上の床板が一枚、剥れかけているのを見つけてしまったのだ。
気にせず放っておけば良かったものを、何故かどうしても気になったので、その剥れかけた床板を完全に剥してしまったのだ。
どうせ、コンクリで固められた床面が現れるだけだと思っていたのに、剥した床板の下は、ちょうど段差の分だけ空洞になっていて、しかもあろう事かそこには棺が納められていたのだ。それも、日本の葬儀で使われる様な物ではなく、西洋風の黒塗りの棺桶で、頭の部分には銀で十字架が描かれていた。
「な、何、これ……。」
竜姫は、怖いもの見たさに、恐る恐る棺の蓋に手を掛け、開けてみようとしたその時、物凄い形相で、クラウスが叫びながら飛び込んで来たのだ。
「お、お前っ、そいつの封印を解きやがったな!?」
――封印て、何だ。一体何を封印していたのか。
竜姫がそう問うだけの暇もなく、天使は怒りの雷を放ち、竜姫は咄嗟に久遠の力を借り、結界を張って身を守ったのだが、術に力を使い過ぎて、そのまま気を失ってしまったのだ。
「結界に力を使ったせいで、ボクも眠っちゃったから……。その後の事は覚えてないんだよね……。」
そう言う久遠の言葉に、ちらりと竜姫の脳裏に紅い瞳が浮かんだ。
「――あれ……は、……夢?」
まさか、と思いながら首筋を手でなぞってみる。しかし、そこにはそれらしい痕跡は何も残っておらず。
「やっぱり……夢、か。」
それにしても、リアルな夢だった。牙の感触がまるで現実にあった事の様に首筋に残っている気がする。
「竜姫、どうしたの?」
執拗に首筋をなぞる竜姫を不思議そうに見上げる久遠を見て、ふと我に返った竜姫は、時計を見て仰天した。
「やだっ、もう四十五分!?」
全ての思考を頭の隅へと追いやる。身支度を整え、マグカップと箸を引っ掴むと慌てて部屋を飛び出した。 久遠はそれを追う様に彼女の後について廊下を駆け抜ける。
廊下には、既に食事を終えて友人と談笑しながら部屋へと戻って来る女の子達の集団で溢れかえっていた。その隙間と隙間を縫う様に、竜姫は早足に食堂へと向かう。
礼拝堂で派手に机を叩き割った例の転校生を見付けた少女達は揃ってヒソヒソと噂話に花を咲かせたが、しかし、その後ろをぽてぽてと歩く異形の狐の姿を見咎める者は誰一人いなかった。