希望×(絆+時間)=運命
瓦礫から舞う粉塵を頭から被って、見事な金髪を残念な白色に染め、きめ細やかな生糸のごとき髪を般若の様に振り乱し、ハアハアと肩で荒い息を吐くその姿は、誰がどう見ても鬼婆にしか見えない。
かろうじて、背負った翼と頭に乗せた光の輪が、彼の出自を証明してはいるが……。
はたして、この彼を指して「清らかな天使様です」と説ける牧師や神父が一体何人いるだろう?
ともすれば暗転しそうな視界に、彼を映しながら竜姫は思う。
手近な机を杖代わりに立ち、冷えた身体をガタガタ震わせる彼女に、ルードは自分のマントを肩へ羽織らせ、ポンと軽く背を叩く。
この寒い中、ワイシャツ一枚にズボンだけという出で立ちで、かの因縁の相手に向き直る。
クラウスはクラウスで、裸体に大きな一枚布を複雑に巻き付けただけに見える、いつもの寒々しい格好で、仁王立ちしている。
バチバチと、今にも火花が散りそうな視線を互いにぶつけ合う二人。
ルードは、冷酷な青い瞳から放たれる視線から、竜姫を背に庇う様に立ち位置を調整しながら、一歩、前へと踏み出す。
その足元で、久遠は、今にも倒れそうな青白い顔をした竜姫の前に立ち、九本の尾を扇状に広げ、尾と尾の間に妖気の膜を張って作った簡易結界を、竜姫の盾にする。
「……まだ正式に契約を結んでいない以上、今、奴を殺す訳にはいかない……。スキを見てこの場から逃げるぞ。久遠、竜姫を連れて走れるか?」
――クラウスが天窓を、周囲の壁ごと破って突っ込んで来た時……。その騒音に紛れてルードが久遠の耳元で囁いた。
「不可能ではないが、少々厳しいな……。」
久遠の背は、ピンと立っても竜姫の腰程までしかない。
……まあ、子狐とはいえ妖怪だから力はある。咥えるなり背に乗せるなりして運べない事はないが、竜姫の状態がこうも悪いと、乱暴な扱いがためらわれる。
「……分かった、なら俺が竜姫を抱えて行くから、お前は俺の後をついて来い。……できるな?」
問われて、コクリと頷いた久遠の頭を撫で、ルードは、
「じゃ、それまで竜姫を頼んだぞ?」
と、ニヤリと悪戯っぽく笑う。
久遠は、仇敵を前にしながら、余裕たっぷりに微笑むルードの態度に驚きながらも、
「……そんな事はお前に言われるまでもない。」
憎まれ口を返す。
「……心配するな。奴の攻撃をしばらく凌ぐ程度の術ならば、ここでもある程度使いこなせる。……お前はあの天使の相手に集中しろ。」
昨日までの余裕の無さからはとうてい信じられない、自信に満ちた笑みを見せるルードに、この場の命運全てを委ねる意思を伝える。
竜姫を見上げれば、辛そうな顔をしながらも、一つ頷き、強い意志を込めた瞳でルードを送り出す彼女がいる。
――運命の歯車が、刻の鼓動を奏で、二人の時代が廻りだす――その音が、確かに久遠の耳には聞こえていた。
「よぉ、俺的には三百年ぶりの再会なんだが……、ご機嫌麗しくないようだな、天使様?」
片手をあげて愛想笑いを貼り付け、サービスだとでも言う様に、ウィンクまでしてみせながら、ルードは軽い挨拶の言葉を口にした。
「……よ、ようやく見つけたぞ、サハリエル……。こ、今度こそ、封印などと生温い事では済まさん! 後ろの魔女共々、滅ぼしてくれる!!」
唾を泡にして、周囲にそれを汚く撒き散らしながらクラウスが叫ぶ。
顔を怒りに赤く染め、人を指差しわめく彼に対し、一方のルードは落ち着き払って、
「……封印が生温い、ね……。だったらあの時に一息に滅ぼしてくれていれば、六百年も苦しむ必要はなかっただろうに……。まぁ、今となっちゃどっちでも良い話だな。あん時死なずに済んだおかげで、俺は今もこうして生きてる。」
頭から今にも白い湯気が吹き出しそうなクラウスに皮肉をぶつける。
「おかげで竜姫に会えたし、村の連中の仇をとる機会も得られそうだし。……六百年前、俺が奪った命への贖罪も――。」
ほんの、二、三歩。脚に力を込めて地面を蹴れば手の届く場所に立つ、憎き敵に、ルードは静かに語りかける。
「……お前は生温いと言うがな、……一応元人間――しかも常人――の感覚からすれば永遠に近い時を、一人、苦しみ続けるってのは、地獄の釜でゆでダコにされるよりキツいんだぜ? ……少なくとも地獄では孤独を味わってる暇なんか無いだろうからな。」
「ふん、大いなる神に背きし悪魔めが、心にも無い戯言をほざきおって! ……安心しろ、お前がこれから逝く先は地獄等ではない! 神の御光に貫かれた後の結末は完全なる消滅だ! お前の様に血に汚れた存在が、神に祝福されし地上に在る事は断じて許されん!!!」
スラリと、久遠や竜姫の目にはもう、毎度お馴染み、恒例行事の、クラウスの神剣抜刀の瞬間。剣の切っ先を向けられたルードも、さして動揺も見せずに話を続ける。
「……血で汚れた、ね。まあ確かにな、俺のこの手は血に塗れているさ。何人もの人間を、この手にかけたからな。だが、今この場にいる血に汚れた存在は、俺だけではないだろう? なあ、クラウス。」
肩をすくめ、首を傾げてルードは言った。
「……ああ、心配せずとも一緒に消し去ってやるさ。お前の後ろに隠れている魔女も、その使い魔共々な!!」
底冷えのする程、冷たく冷酷な低い声音。
容赦ない殺気を、弱った少女に向けるクラウスに、ルードは、彼の本質を冷静に見極めようと、次の一手を投げる。
「……彼女は巫女だ。何の罪も犯していない少女を、お前は殺すのか? 六百年前、俺の村を焼き払い、罪もない人々の命を奪ったように?」
ルードの反論に、クラウスは笑った。
おかしくて笑った訳ではない。人を見下し、貶める為の凶悪な笑みだ。
「何の罪も犯していない、だと? 戯けた事を言うな! その小娘は、大いなる神に背いた魔物を代々神として崇め、この神聖なる場所へ魔物を連れ込み穢した、立派な罪人だ! その上、お前の封印を解き、しかも自ら血を与え、魔物に力を貸している大罪人!!!」
剣の切っ先を、ルードから竜姫へと移し、クラウスはその罪状を叩き付けるように叫んだ。「……あの村とて、悪魔をかくまった罪深き人間の集まりじゃないか。それを滅ぼして何が悪い?」
本当に、これっぽっちも悪い事をしたとは思っていないのだろう。クラウスは当たり前だという表情で、あっさり答えた。
「……あの村は、ごく普通の人間達が暮らしていた。当然、皆常人。悪魔の存在に気付ける者などいなかった。しかもあの時悪魔はお前との戦いで傷つき弱って、……その為に、自分の気配を極力抑えていた。……天使のお前が、見つけ出すのに苦労する程に、な。悪魔と知らず、弱った病人を看病していただけの彼らを、それでもお前は罪だと言うのか?」
「……悪魔など、所詮は人を惑わす存在だ。最初からそれと名乗って現われる悪魔はいないだろう? 知らなかったからと言って逃れられる罪は無い!」
腹の中で煮えくり返る怒りをも凍り付かせる、クールな笑みを無理やり貼り付けながら、ルードは問いの答えを黙って聞き流し、
「……では、島原の一件でのお前の行為は罪にならないのか?」
最後の問いを投げかける。
「大いなる神の教えを知らぬ、憐れな民人を導いた事が、讃えられこそすれ、何故罪に問われねばならぬ?」
悪びれる事なく、天使は答える。
「……その、お前が説く教えは、無闇な争いを禁じているはずだろう。……にもかかわらず、無用な争いを、しかも無謀な戦を先導した事は、罪に問われないのかと聞いている。」
ルードは、飄々と言い逃れをするクラウスに尚も追いすがる。
「……無用な争いではない。大いなる神を退けんとする蛮族との戦は聖戦だ。罪は我に無く、神に刃を向けた彼らにある。」
彼にかかれば、この地上で暮らす異教徒は全て罪人になってしまうようだ。
呆れながらも、ルードは諦める事なく、問い続ける。
「では、多勢に無勢で勝ち目のない戦いに民を誘い、その全てを死なせた罪は?」
「あれは大いなる方を、神を信じぬ愚か者共からお守りし、罪深き人間達を神の裁きにかけるための戦い。勝ち目がないからと言って我らを裏切る者は真っ先に地獄へ堕ちていっただろうが、他は皆、最期まで勇敢に戦った。死した魂は天へと昇り、神の祝福を受けたはずだ。」
自信満々で微笑む天使を見て、ルードは深いため息をついた。
「……はず、ねぇ。お前、その目で確かめる事はしなかったのか? その、大いなる神の僕であるお前を信じて戦い、命を落とした者の魂を、何故お前はその手で天へと導いてやらなかった?」
死した魂を神の御元へ送り届けるのも天使の仕事だ。
「我には、お前の封印を守る役目があった。危険な魔物を置いて地上を離れる訳にはいかない!」
「……俺の封印は中級三隊の天使が施したモノだ。そう易々と解けるモノじゃない。魂を天へ送って行くほんの数日間くらい留守にしたからって、何の問題も無かったはずだろう?」
言い訳じみたクラウスの答えに、ルードは厳しく突っ込む。
「わ、分からないじゃないか、そんな事! 現にその小娘はいとも容易く、お前の封印を解いてしまったではないか!」
ムキになって反論するクラウス。
「竜姫が例外なんだよ。……お前にだって分かるだろう? お前がどうとも出来なかった俺の封印を解き、お前が手も足も出なかった化け物をこうして抑え込んでいる力が、いわゆる『魔』に属する類いのものじゃないって事くらい。それをお前は、お前の主の前に跪かなかったという、ただそれだけの理由で、彼女を滅ぼすのか?」
そう、問い掛けるルードの姿は、久遠の目に眩しく映った。堂々としたその後ろ姿は、彼の主と、とてもよく似ていて……、昨夜の忠告の効果がこうも早く、しかも顕著に表れたのが、嬉しいやら悔しいやらで身悶えしたくなる。
「大いなる神に背く者は、いかなる者であろうと、我らの敵に他ならない。まやかしの言葉で我を籠絡しようとは、笑止千万!」
……この天使にとって、異教徒の人間など、皆、魔物のごとく倒すべき敵でしかないようだ。
「……まるでお堅い役所のマニュアルみたいな答えだな。もう少しくらい考え方に柔軟性をもたせてもいいんじゃないか?」
「悪魔の甘言を聞く耳は、あいにく持ち合わせてはおらんのだよ。」
言い切る天使を前に、ルードは後ろを振り返り、
「なら仕方ないな。どうあっても戦うと言うなら、こっちも黙って殺される訳にはいかないぞ。久遠、竜姫、覚悟はいいな?」
そう問う紅い魔性の瞳は、太陽よりも強い輝きを宿していた。
無言で頷く二人に、心配するなとでも言いたげな笑みを浮かべ、ルードは何もない宙空から、一振りの抜き身の剣を取り出して見せた。
姿形はクラウスの物と酷似しているが、柄の部分には蛇が巻き付いたような意匠が施され、鍔にはコウモリの羽があしらわれている。
ルードはクラウスに向き直り、剣を構えて立つ。
「……こんな日が来るなんて、六百年前はおろか、ついさっきまでは考えもしなかったんだが……、生きようと思えるって、結構いいもんだな――。」
「何を戯けた事を! 今すぐこの手でお前を殺して、我の手柄にしてくれる!」
両者は互いに殺気に満ちた目で睨み合い、同時に地面を蹴った。
その瞬間は、人の目に映るには早すぎて……。
竜姫は息を飲んだまま、立ち尽くしていた。
妖怪である久遠の目には、はっきり映ったその瞬間。
だが、久遠もまた、竜姫同様、息を飲んだまま立ち尽くしていた。
あまりに異質な彼の力に、驚嘆の目差しを向けたまま……。