巫女の宿命[1]
「私の両親はね、魔物に殺されたの。」
竜姫が購買で買って来たアンパンを頬張りながら、ルードは静かに彼女の言葉に耳を傾ける。
「前にも言った通り、豊生神宮には御神体が祀られている。うちは、豊穣の神様を祀る神社でね、久遠はその中でも土壌の恵みを司る役目を負っているの。同じように風の恵みを司るのは稲穂。そして豊穣に一番大切な水を司るのはうちの本社に祀られた主神、水輝。」
一時間目の終業の鐘を遠くに聞きながら、天窓から差し込む日差しを避けるようにキリスト像の下に座り、ルードは、
「……待て、久遠はいい、稲穂ってのも何度か聞いた。だが、水輝ってのは初耳だぞ? ……お前がこないだ許可がいると言った時に挙げた名は確か、多喜じゃなかったか?」
もぐもぐ口を動かす。
「……そう。半年前に代替わりをしたの。」
「……さっき、両親が死んだのも半年前だって言ってたよな?」
「そう。全ては半年前のあの日が原因だったの……。」
暖かなココアが入った缶を傾けるルードの横で、竜姫は額に手を当て、苦い記憶を語り始めた。
「うちの主神は、あの日まで、多喜という名の龍神様だったの。元は、神社近くを流れる川の中腹に住むはぐれ龍でね。気が向けば豪雨を降らせて川を溢れさせては困り果てる人間達を見て喜ぶ、困りものの妖だった。」
視線の先で輝くマリアのステンドグラスを見ながら、竜姫の目は過去へと向けられていく。
「彼女はね、中国で生まれた神龍の末裔だったの。その昔、中国の力ある僧侶に請われて守護につき、その僧侶について日本に渡って来たけれど、……人間である僧侶は多喜を置いて、先に逝ってしまった。……一人残された彼女は、もう故郷の仲間の元に戻る事を許されなかった。……当時の大陸では、日本は未開の野蛮な国だと思われていて、神龍である多喜がその国へ降りれば穢れると、一族に反対されたのを押し切って、この国に来たから……。」
相変わらず埃っぽい礼拝堂。静かな空間に、二時間目の始業のチャイムの音が届く。
「帰れない多喜は、この土地で暮らさざるを得なかった。でも、土地の妖と馴染めなくて、……彼女と契約できる程の術者とも出会えずに一人、異国の地で長いこと暮らして……。きっとグレちゃってたのね、って、多喜は笑ってたけど……。」
竜姫は胸に手を当て、目を閉じる。
「そんな彼女を鎮めたのが神崎家の初代。……度々洪水を起こしては、農作物をダメにしたって農民達が怒り、結果的に税収が減った城の殿様が兵を差し向け、討伐に乗り出した。……多喜は力ある妖だけど、所詮多勢に無勢。何人もの術者に囲まれて……、もう駄目だって思った時、彼女を救いだし、その代わりに土地を守る様、契約を交わしたのが、初代、豊生様。……それから数百年、ずっと多喜は代々の神崎の巫女と共に、土地の豊穣を守り続けて来た。」
心から誇らしく思っている事が、一目で分かる顔。
「実は稲穂もね、昔は畑を荒らし人を襲う、猿の妖怪の女頭だったのを、うちのご先祖様が改心させて、うちの神様として働いてくれるようになった。」
竜姫は閉じた目を開け、慈しむような笑みを浮かべる。
「……そして、久遠をうちの社の神様にしたのは、この私。」
「!、」
柔らかく、暖かく、微笑む竜姫の言葉に、ルードはピクリと両耳をそれまで以上に熱心に傾ける。
「久遠は、生まれたすぐ後に親兄弟を他の魔物に殺されたの。そして、一人生き抜くために、食べていくために、人里まで降りてきては悪さをしていた。私がまだ小さい頃、里山で遊んでいた時に初めて久遠と会った。……九尾の狐――妖としてはかなりの妖力を持つ一族だけど――彼はまだ幼すぎて、山に棲む妖怪達に追われて……その時の久遠は傷だらけで死にかけていた……。それでも牙をむく久遠の姿が痛々しくて……。私は習ったばかりの治癒術で必死に治療を試みたけれど、所詮未熟な子供の未完成な術。応急処置が精一杯だった……。ホント、代々伝わる先代の武勇伝とは比べるのも恥ずかしいくらいにね。……だけど、久遠はあれからずっと、いつも私の側にいてくれてる……。一緒に遊んで笑って、悪戯して怒られて。神様一年生の久遠は多喜を師に、巫女見習いの私は母を師に、二人で一緒に修行して……。」
ルードは、竜姫の話に、昨夜の久遠の残したセリフの意味にようやく納得がいった。
「……神崎の家の女は巫女として代々強い霊能力持って生まれて来た――神龍・多喜の加護のもとに――。けれど、神龍の寿命はおよそ千年……。多喜の寿命が尽きかけ、力ある巫女が生まれにくくなった。事実、母には多喜や稲穂の姿を視るのに神具の補助を要したし、母の姉である伯母にはまるで霊視の能力が継がれなかった。……ここ数代はそれ位が普通で、私だけが例外的に飛び抜けた能力を持って生まれて来たの……。」
一つ、ため息に似た吐息を吐き出し、竜姫は天井を仰ぎ見た。
「寿命尽きかけた多喜は、次代の神を生んだ……。千年の時は時代を移ろわせ、中国から神龍の一族も頻繁に日本を訪れるようになったから……。帰ろうと思えば帰れるのに、多喜はあの土地のために、新たな命を残す道を選んで……、そして、半年前のあの日、水輝は生まれた……。」
静かに。静かに、彼女は言った。
「……だいぶ前から弱っていた多喜だけど、その日は、大半の生命力を我が子に――水輝に――注いでしまっていてひどく弱体化していたわ……。当然、稲穂も久遠も、多喜の護衛として動いていたけれど……。」
強く。強く、手を握り締めて。竜姫は続ける。
「父は入り婿で……霊能力に関しては皆無だったし……、母も、簡単な厄除け程度の術しか扱えなかった……。久遠はまだ子狐で、大きな力は扱えない。……実質まともに戦えるのは私と稲穂だけだった……。その稲穂だって、豊穣の神よ……戦いに適した能力なんか持ってない……。腕っぷしは強いけど……、でも、あの数を相手にしては……、なす術もなかった……。」
力のこもる手が小刻みに震える。
「大挙して押し寄せた妖怪や怨霊達。彼らの目的はただ一つ。新たに生まれた神龍の子供の魂を喰らう事。力の塊でありながら、無力な赤子であった水輝は、力を求める連中にとっては単なる獲物に過ぎなかったから。……皆、必死に戦ったわ……、だけど、最初に無力な父が妖に魂を喰らわれて死んだ……、それを庇おうとした母も一緒に……。私も、二人を助けに駆け付けたけれど……所詮多勢に無勢。『来るな』、『逃げろ』……叫びながら、両親が血まみれになって地面に倒れる姿を目の前で見ながら……、私は動けなかった……。あの日は朝からひどい土砂降りの雨が降っていて……、地面はグシャグシャにぬかるんで……足を取られて……。雨に打たれて身体は凍える寸前……、久遠も稲穂も、自分の目の前の敵の相手で手一杯で……。結局、その場を治めたのは多喜だったの。……最期の力をふり絞って多喜は、その場の妖を神気で灼き尽くしたわ……。その命と引き換えに……。」
手だけでなく、全身を震わせる。……声が、震える。
「……久遠も稲穂も傷を負っていたけれど、無事だったわ……。……だけど、両親はもう……、命も魂すらも失われてしまった……。多喜は、後に残される水輝のために、社全体に結界を張った。……生まれたばかりの神龍はとても無防備な存在だから、邪気の中に長くおけば、邪龍として覚醒してしまう恐れがあるの。……どうしても、清浄な場所に安置しなければならなかったから……。」
ルードのココアを、一言断って口にする竜姫。……もう冷たくなりかけたそれで、喉を潤し、缶をルードに返しつつ、体重を彼に預ける様に肩へ寄り掛かった。
「多喜は、自らの意識を鏡に封じた。水輝が一人前になるまで、親として指導するために、……水輝が豊生神宮の主神としての役割をまっとうできる様になるまでの代理を勤めるために……。だけど、残ったのはあくまで意識だけ。身体も命も力も失ってしまった……。そんな場所に水輝をおけば、また妖怪達が襲って来る。けれど、外界に連れ出せば、僅かな邪気も水輝に悪影響を及ぼす毒となる……。……だから、」
竜姫はルードの手を取り、自分の胸に重ね、心臓の鼓動に触れさせる。
「邪気に触れない清浄な場所に水輝をおいたまま、社を離れる手段として、水輝の魂を、私の魂と同化させたの……。」
……ルードは彼女の言葉に固まった。
魂の同化――あまりに聞き覚えのありすぎる、そのキーワードに、ルードは、手に触れる竜姫の胸の感触や、自分にしなだれかかる彼女の一昨日とはまるで違う態度に気付く事すら忘れたまま、目の前の少女の姿を改めて上から下まで眺めて、
「……そ……、それはどういう事だ?」
そう、尋ねた。