揺れる心は、
「……あー、久しぶりに頭使ったら腹減ったな……。」
東の空が、太陽の気配に白々明けて来るまでずっと、礼拝堂の屋根に掲げられた十字架の下に寝転がり、夜空を見上げたまま過ごしたルードは、朝日から逃れる様に室内へと場所を移して、この数日間ですっかり定位置と化した壇上で大の字になった。
――夕べ、あの狐に言われた事。……今後の身の振り方について考えろ、と。
彼の意見は確かに的を射たものだった。今、ルードの意識が消えずにあるのは強い憎しみのせい。……ならば、その憎しみを晴らし、唯一の執着が無くなればどうなるのか――。
考えるまでもないだろう。……恐らく過日の惨劇を繰り返す――いや、目的を失った分、無分別さが更に増し、より多くの悲劇を呼ぶだろう。
「……竜姫に血を貰い続ける事が出来れば……少しはマシになるかも――……だけど、それだって俺の意識が消えずにあればの話だもんな……。」
竜姫の血は力の暴走を抑制してくれるが、それとて、常識や道徳心といった人間らしい心が持つ制御装置が無くなってしまえば、いくら力を抑えても無意味だ。
「この俺が、この世に生きる意味なんてのを真剣に考える日が来るなんて、思いもしなかったな……。」
まだ、人間だった頃ですら、日々考える事といえば、明日を生きるための食べ物と金の事ばかり。せいぜいが、恋や友情についての、今となっては馬鹿らしい程のちっぽけな悩みごとを考えている程度で。
「……ここしばらく……奴を殺して、俺も死のうとか考えるのに忙しかった俺が……っ、ははっ、笑っちまうよな……。」
だが、少なくとも今は生きている。……その証拠に、
「あー……ヤベー、マジ腹減った……。……でも昼日中に外出歩くのも……かったるいしなー、……さて、どうしたもんか……。」
まだ、日は昇ったばかり。時間的にもさっき始業の鐘が鳴ったばかりだ。当然、日が落ちるまでにはだいぶ時間がある。
「……仕方ない、何か適当に見繕って来るか……。」
連日の晴天に、ルードは恨めしげに空に浮かぶ太陽を見上げ――すぐに痛そうにしかめた顔を、視線ごと逸らした。
ザクザクと、地面に降りた霜が、足を踏み出す度に楽しげな音を出す。
冬の弱々しい日差しの中でも、日だまりの中にある霜は既にあらかたが溶けて消え、代わりに水気を含んぬかるんだ地面が小さな水溜まりを抱え、水浴びに来る鳥達を迎え入れる。
しかし、日光を避けてルードが選んだ林の道は、まだ溶けないままの霜柱が、光の届かない暗い道を白く染め上げて、一層の寒々しさを演出している。
「……さて、どうしたもんかね……。」
旧礼拝堂を囲む林を抜け、目の前に建つ寮を見上げて、ルードは呟いた。
こちら側から見て、T字の形の建物。Tの縦棒部分が共同棟になっており、その一階に食堂がある事を、あの日竜姫を礼拝堂へ呼び出しに行った時に知ったのだが、生徒達が皆、登校してしまった後では、食べ物等残っているはずもない。
共同棟を挟んで左が女子寮なのだが、竜姫に食料をたかろうにも、この時間では彼女も寮にはいないだろう。
……男子寮に忍び込んで、生徒達の手持ちの菓子類を漁ろうかとも考えたが、クラウスの気配を感じて断念した。
ルードは仕方なく、寮の建物を迂回して通り過ぎ、校舎へと足を進める。
L字型をしたこちら側は高等部、角を挟んだ向こう側が中等部になっている。
そして、高等部のすぐ隣りに建つ、三階建ての縦長の建物はクラブ棟になっていて、中には学食やカフェテリア、購買も入っている。そう、この学園の建物を上からみると、ちょうど「片」の文字に見えるのだ。
……ちなみに、片桐学園と言う名にちなんでこんな配置になったらしい……、というのはこの学園の都市伝説の一つ……だったりするのだが……。
そんなものなど知るはずもないルードは、当然のように、購買を目指して歩き出した。
まだ、一時間目の授業中なのだろう。校舎はしんと静まり返っている。
ただ、校舎の向こう側にあるグラウンドからは、威勢の良い掛け声と、ボールを蹴る音が聞こえて来る。
恐らく体育の授業中なのだろうが、辺りに反射して響く野太い男の声に、ルードは、うんざりといった表情を見せる。
が、雑音だと聞き流した声の中に、聞き覚えのある声が混じった気がして、ルードは不意に顔を上げた。
「……昨日、彼を殴った事は謝ります。ですが、この件はあくまで神崎家と白崎家の問題です。天宮先生のお手を煩わせる事は何もありません。」
……耳を澄ませてみれば、やはり竜姫の声。
「何を言うか。私は彼に相談を受けているんだ。模範生である彼の悩みを聞き、助力するのは教師として当然の行為だろう。」
その、彼女の声と重なる様に聞こえてきた男の声。
「……彼や彼のご両親との話し合いが足りていなかった事は事実です。……私の両親が亡くなってまだ半年です。それから色々バタバタしていましたから、……将来の話については後回しにしてしまったんです。……そのせいで彼に――白崎先輩にご心配をお掛けしたのなら、それについても後で謝ります。」
その、男のセリフに抗う様に、必死に訴える声。
……どうやら校舎とクラブ棟との間の狭い通路の方から聞こえて来る。ルードは、足音を忍ばせ、声のする方へ近付いて行く。
「事が落ち着いたら、改めてお話するつもりでいました。白崎先輩にも、彼のご両親にも……。」
「……話をしたとて、何が変わる? なるほど、日本の法律には宗教の自由が謳われているが、ではなぜ君はこの学園へ来た? 君の信じる邪教の神ではなく、我らの大いなる神を讃えるこの学園に?」
「――……っ、そ、それは……、」
竜姫が言葉に詰まったのを見て、男は、畳み掛ける様に言った。
「君がこの学園に来たのは、白崎君のご両親のご意向だろう。違うか?」
校舎と校舎に挟まれて、ちょうど陰になったこの場所は、隠れるにはもってこいだった。ルードは手近な茂みに身を潜め、彼らの会話に耳を傾けた。
「……そうです。」
竜姫が悔しそうに答える。
角度的に、相手の男の顔は見えないが、竜姫の表情はとてもよく見える。
「では、君が彼らの提案を断らなかった理由は何だ?」
意地悪く尋ねる男の手には、やたらと高そうな葉巻が握られている。
「……それはっ、……その……、」
言い辛そうに口ごもる竜姫に、男はわざとらしく煙を吹き掛け、
「まあ、自分で稼げないお前が、世話になっている身でアレコレ言えないよなあ?」
肩を震わせた。
「何せ未成年なんだ。社会的責任を何一つ果たしていないお前に、何かを選ぶ権利なんか無いんだよ。」
「……確かに、今はそうかもしれません。でも、中学さえ卒業すれば、働ける様になります。……働けば収入を得られる。アルバイトでも、私一人食べていけるだけ稼げれば、家や土地はありますから、何とかやっていけます。」
……未来を語るには似合わない、悲壮な表情で、竜姫は言い返した。
「……ふん、なぜそこまで寂れた神社等にこだわる? 得体の知れないものを祭る化け物社を?」
ルードは、その言葉にピクリと眉をひそめた。
……九本の尾を持つ狐は、確かに妖怪なのだが、化け物と言うのは違う気がしたのだ。
「……先生がどう思おうと構いませんが、私にとっては大切な存在なんです。それに、私が神社を継ぐ事は、死んだ両親の願いでしたから。」
それは、あの日と同じ、自信を秘めた言霊。……しかし、彼女の瞳には悲しげな色が見え隠れしている。
「ふん、神をも恐れぬ物言いとはまさにこの事だな。神のお慈悲を蹴って、悪魔の誘いにのるなど、言語道断。お前、両親同様、まともな死に方はできないぞ。」
そんな竜姫に、尚も心無い言葉を吐く男。
ルードは、気付けば茂みから飛び出し、男の頭をぶん殴っていた。
……顔を上げれば、そこには、驚いて目を丸くした竜姫がこちらを指差したまま固まっている。
……さすがにマズいと、そそくさ退散を決め込もうとしたルードの背後で、竜姫は、その場にうずくまって笑い出した。
「……っ、ははっ、」
しかし、よく見れば目尻には涙が浮かんでいて――。ルードは、そんな彼女の視線に捕らわれ、動けなくなった。
気絶して倒れた教師を一人、間に置いたまま数刻。二人はお互いの瞳を見つめ合ったまま、しばらくの時を止めた――。