紅き救世主
「ねぇ、竜姫ぃ、今度は一体どうしたのさぁ……、」
昨日に続き、またもベッドに潜り込んで動かなくなってしまった竜姫に、やはり訳の分からぬまま、久遠は困り果てていた。
ただ、昨日と今日では明らかに竜姫の様子が異なっている。
昨日は昨日で何か悩んでいる――というよりは戸惑っている――といった感じで、深刻さは感じられなかった。
だが、今日は――。
ひどく思い詰めた顔をしていた。今にも泣き出してしまいそうなのを、必死に堪えていた。
……昨日、夕食から戻って来た後にも、悲しげな顔をしていた。
「……竜姫、何か辛い事があったんだね……?」
もどかしさと悔しさで、久遠はうつむき、グッと奥歯を噛み締めた。
「おい、お前ら。何辛気臭い顔してるんだ?」
ガラリと、鍵のかかっていないガラス窓を引き開けて、彼は部屋の中をグルリと見回しながら、部屋へと降り立った。
「……試験期間中だって言うから来てやったのに、勉強もしねえでこんな早い時間からベッドの中でお休みとはどういう事だ?」
つかつかと、ベッドへ歩み寄り、力任せに布団をひっぺがす。
「ちょ、ちょっと、いきなり何するのよ!」
奪われた布団を取り返そうととっさに手を伸ばすが届かない。
蛍光灯の明かりが、布団の中の暗闇に馴れた目には眩しくて、反射的に目を覆う。
「あー……、」
しかし、目尻に残るものを隠すには、一瞬遅かった様だ。
ルードは、
「……えーと、お前。……確か久遠、だったか?」
彼の後ろで声もなく口をパクパクさせている狐に声をかけ、
「……もしかして、昨日からこんな調子か?」
と尋ねた。
「……。」
久遠はその問いには答えを返さなかったが、その沈黙を肯定ととらえたルードは、
「……ゆ、夕べの事は……わ、悪かった……から謝る……。別にナニしようってワケじゃないから、気にするな。」
「……ん、吸血鬼。お前、竜姫に何かしたのか?」
殺気を帯びた声で、久遠がルードに問う。
「いや、実際には特に何もしてないぜ? ……というか、俺としちゃあからかうつもりもなかったんだが……、まあ竜姫にとっちゃ、ちょっと冗談の過ぎる話だったらしくてな……。」
ぽりぽり頭をかきながら、吸血鬼は困った様に言った。
「……まさか、こんな泣く程過剰反応されるとは思ってなかったんだよ……。」
「なっ、これはちがっ、」
ガバッと起き上がり、竜姫は彼の言葉を慌てて否定した。
「こ、これは……別にルードのせいじゃ……。」
……完全に、彼のせいでないとも言い切れないのだが、しかしあくまで事の原因は別のところにある。今回の事はきっかけに過ぎない。
「……視えないものが視えるって、色々と大変なのよ……。」
寂しげに、竜姫は言った。
「キリストの『神』――『創造主』。――“大いなる御方”と呼ばれる存在や、その教えを、否定する気はないし、そのつもりもない……。だけど、やっぱり私は好きになれないし、その教えに従う事はできない……。」
一度治まった目頭の熱が、再燃するのを堪えながら、
「……でも、子供の私にできる事は限られてて……。死んだ父さんと母さんを侮辱されても、反論することもできない……。久遠や稲穂を悪者みたいに言われても、何もできない……。」
声を震わせる。
「……誰かに、何か言われたんだね……? ……、悔しいな。いつもなら、ボクが一番竜姫の近くにいるのに……、竜姫を傷つける様な事を言う奴にはそれなりの天罰を下してやるのに……。」
ギリッ、と床板に爪を立て悔しがる久遠。
「……子供だから、ねぇ。まあ、確かに地位も権力も無いままに、金も力も持った者に立ち向かうのは困難だ。そんなのは何百年も前から決まってる。だが、お前はそれを分かった上でこういう道を選んだんだろう、竜姫。」
ルードは、しかし冷ややかに言った。
「まあ、どんな事情があったかなんて、俺の知るところじゃないが、お前には力がある。相性が悪いと言っていたこの土地で、あの強力な俺の封印を解き、一時的なものだったとはいえ、奴の目を誤魔化す程の障壁を張れるだけの力がな。」
「……っ、でも、視えない常人にとってはあってもなくても分からない。……どころか、ここでは邪教呼ばわりされるのよ。」
自ら卑下する様な竜姫の言葉にルードは、
「……何だ、お前もしかして、その力、いらないとか思ってる?」
と、軽く尋ねた。
「! そんな訳ないじゃない、この力が無かったら私、巫女の資格を失っちゃう!」
それを、ムキになって否定する彼女に、
「……巫女を辞めれば、辛い事も無くなるかもしれないぜ?」
ニヤリ、と笑みを浮かべたその顔は、気の弱い人間が見たなら気絶したかもしれない程凄絶なものだった。
「っ、ダメ! 辞められないわ!」
しかし、竜姫は絞り出す様に言った。そんな彼女にルードは、
「……だろうな。お前、二度目に会った時俺に言ったもんなぁ。『我が祭神を愚弄しないで』……あん時の自信を何処へ忘れて来た? ……力の及ばない事なんて、この世には幾らでもあるんだ。いつまでもグジグジ悩むくらいならいっそここで豪快にブチまけちまえよ。スッキリするぜ?」
と、先程とは口調までガラリと変えて、彼女をいたわる様に言った。
「……私は、巫女だもの。そんな事、できないよ……、」
だが、竜姫は彼の提案を否定した。
「は? どうして……。」
その、否定の理由が理解できずにルードが聞き返す。
「……巫女の力は、すなわち霊力。持って生まれたその力を、長年の修行で育て上げて来た……。心を強くする修行……、精神を磨く修行……。心を負の感情に支配されれば力は邪気に染まり、巫女でいられなくなってしまう……。こんなグチャグチャな心の中をぶちまけたりなんかすれば、霊力の塊である久遠にだって影響が……っ、」
視界が歪む程の涙を抱えたまま、それを決してこぼすまいと上を向き、竜姫は答えた。
「邪気……、ねェ……。」
ルードは、右手の親指と人差し指とで竜姫のあごを捕らえ、上を向き過ぎたそれを、ナナメ四十五度の角度に固定する。
「……俺が、喰ってやろうか?」
紅い瞳が、にじむ視界の中、やけに鮮やかに映る。
「く、喰うって……、どうやって……。」
その視線に、心の中まで見通されていそうな気さえする、強い視線。
ルードは、楽しそうに笑い、
「……知りたい?」
そう言って、顔を近付け……そっと、乾いた唇に口付けを落とす。
「……ん、んんんっ、」
驚く竜姫が抵抗するも、続けて何度も角度を変え、落とされる口付けに、心の奥に咲いた華が、彼を拒む事をためらわせる。
「あっ、お前っ、竜姫に何をするっ!」
……竜姫本人より驚いた様子の久遠が、二人の間に割って入ろうと立上がり、……立ち上がろうとして固まった。
――……! 動けない!? ……コイツ、まさか?
ルードは、歯がみする久遠を尻目に、竜姫の唇を舌でなぞり、刺激に反応して僅かに開いた隙間に舌を潜り込ませた。暖かく、潤った口内で舌と舌とを絡ませて、弄ぶ。次から次へと枯れる事なく湧いて来る潤いを、ついばみ、吸い上げて、ルードはそれを味わうかの様に口内を侵略していく。
「ふっ、……んっ、」
初めてのキス。触れた唇の暖かさに、我が物顔で口内をはい回るルードの舌の感触に、驚きこそしたが、恐怖や嫌悪といった感情が、一切湧いて来ない。
……どころか、されるがままに弄ばれているこの状況が、何故だか何か大きなものに包み込まれているようで、安心感すら感じる。
心に生まれた余裕が、今まで幅を利かせていた暗い気持ちを押し退け、居場所を失った感情が、すうっ、と吸い取られていく。
「……どうだ? これで少しは楽になったんじゃないか?」
唾液に濡れた舌を引っ込め、湿った唇をペロリと舐めながら、ルードは言った。
「……っ、」
……反論しようにも、実際にこうも確かに軽くなって浮上した気持ちは誤魔化せない。しかも途中から抵抗する気も失せたとなっては、彼を責める余地などあるはずもない。
「……ふ、ファーストキスだったのに……」
と、呟くくらいしか、彼女にできる事は無かった。
……一方的なキスに対する竜姫の反応に、久遠は口をぱかっと開けたまま、九本の尾を凍らせた。
「……あんまり我慢し過ぎるのもどうかと思うぜ? 感情をコントロールするったって、人間である以上、どんなに修行を積んだところで完璧なんてあり得ないんだ。コントロールしきれない感情は、心を弱らせる。……弱った心は魔を引き寄せる。そんな事になる前に、さっさと吐き出しちまう方が得策だと、俺は思うがね。」
その言葉に、竜姫はハッとする。
「ルード……、」
「そ、いい例がここにいるだろ? ……ま、俺の場合は他にも色々特殊な事情が重なっちまったが……。」
ぽんぽん竜姫の頭をはたきながら、
「さて、そろそろ血をくれないか? ……でないとそろそろヤバそうだ……。」
よくよく見てみれば、ルードの額に脂汗が光っている。
「! ルード、どうかしたの?」
荒い息をし始めたルードに、竜姫は慌てて尋ねる。
「……ここへ来るのに力を……目眩ましの術を使った……。その上で邪気を喰ったからな……、俺の中でヴァンパイアと悪魔が邪気の力を欲して暴れてやがる……。」
「え……、そ、それって……、」
「……別にお前のせいじゃない。この程度で精神のバランスを崩す不安定な俺の意識の問題だ……。大丈夫だ、この位なら血を飲めばすぐに治まる。」
そう、竜姫に告げるルードの中に感じるとてつもない力の気配。その、凄まじい邪気の気配が、それまでわいせつ行為を働いた吸血鬼に対して、まるで怒りもしない竜姫にショックを隠せなかった久遠から、キスの事実など砂粒のカケラも残さない強風が、彼の思考を吹き飛ばした。苦しげにうずくまるルードの前にひざまずき、自ら襟元を開放し、首筋をさらして彼に寄り添う竜姫を見ながら、久遠の意識はルードに向けられていた。
日焼けの取れた白い柔肌に牙が刺さり、ルードが竜姫の首へと食いつくのを見ながら、久遠はその気配に圧倒され、何を思う事すらできなかった。
……それほど強烈な邪気が、次の瞬間には嘘の様になりを潜めた。
ルードが、ほんの一、二回喉を鳴らす間に、邪気は跡形もなく消え去っていた。
……いや、違う。消えたわけじゃない。おそらく、この吸血鬼の中に封じ込まれただけだろう。……竜姫の、血の力で。
「……大丈夫?」
「ああ、もう問題ない。……それよりお前、ちゃんと勉強しろよ? 赤点なんか取って補習になったとか言ったらホントに夜這いに来るからな?」
白い目で見るルードに、竜姫は顔を真っ赤にして枕を投げ付け、
「じゃ、俺はもう退散するから。……ベンキョーしとけよー!」
それをやすやすとよけて、ルードは窓から飛び降りていった。
後を追う様に窓にかじりつき、竜姫が下を見ると、ルードはひらひらと手を振りながら、のんびりとした足取りで、旧礼拝堂のある林へと歩いて行く。
「……なんだかもう、昨日からルードに振り回されっ放しだわ……私……。」
へなへなと、その場に崩れ落ち、竜姫は呟いた。
「……竜姫……。」
久遠は、そんな彼女に複雑な想いを抱いていた――。