紅い棘(トゲ)。
「……では、今日はここまで。今年最後の授業だ。今日やった所は試験に出すからなー、ちゃんと復習しておけよー?」
七時間目の終業の鐘が鳴り響く中、頭の禿げかけた自称日系二世のアメリカ人だという英語教師が、ざわつき始めた教室で、声を張り上げた。
黒板いっぱいに書かれた小さく読みにくい、雑然とした板書を、それでも必死に書き写す生徒の前で、無情にも黒板消しを手に取り、無数のチョークの軌跡を無に帰し始めた。途端、教室中から悲鳴に似た叫び声があがる。
しかし、自称アメリカ人の中年男性教師は非難の声を物ともせず、綺麗になった黒板を背に、今日の日直に終業の挨拶のための号令を促した。
ノートにかじり付くかの様な必死の形相で板書を書き写していた男子生徒は、えらく迷惑そうな顔をしながら、渋々立ち上がり、
「きりぃーつ、れーい、ありがとうございましたー、」
と、やる気の無い号令を発し、
「ありがとーござーしたー、」
と、これまた適当な挨拶が、教室中から返った。
が、それには頓着せず、もぐもぐと、あまり見栄えの良くない口髭を動かしながら、うんうんと頷き、教師は教室を後にした。
ガタガタと、イスの足が床面をこする音があちこちから発せられ、写し切れなかったノートをお互い補い合うべく、数人ずつ固まって互いのノートを見せ合う。
「……問いの二十八の答えはー?」
「ここの慣用句、何て意味だっけー?」
「問い三十の英単語の意味はー?」
試験も間近に迫ったこの時期、誰の顔にも切羽詰まった表情が浮かぶ。
そんな中、英語教師と入れ替わる様に入って来た、年老いた定年間近の担任は、
「ホームルームを始めるぞ。」
手にした大量の印刷物で教壇を叩き、わいわいがやがや賑やかな教室を鎮めにかかる。
「……あー、皆も重々承知しているだろうが、来週水曜日から学期末試験が始まる。よって今日から試験週間に入る。いつもの通り、職員室は立ち入り禁止、各教科の指導準備室も同様だ。午後五時以降の外出は、学内の図書館以外は禁止。夜九時以降の寮内の行き来も禁止だ。違反があった場合、冬休みの帰省が制限される事になる。また、赤点を取った者は、冬休み中の補講へ強制参加になるからなー、ちゃんと試験勉強するんだぞー?」
言いながら、試験週間の期間中特有の校則についての注意事項がムダにつらつら書き綴られたプリントを配付する。
「……まあ、皆も時間は惜しいだろう、今日のホームルームはこれまでにしてやるから、全員直ちに寮へ戻るんだぞ!」
「起立、礼。」
担任の言葉に、日直が号令をかける。
皆、静かに黙礼を返し、それぞれ友人とかたまりながら教室を出て行く。
「あー……そうだ、おーい、神崎。神崎いるかー?」
そそくさと、足早に教室を後にしようとしていた竜姫は、担任に呼ばれ、何用かと出口へ向いていた足を教壇に向けた。
「神崎、高等部の生徒会顧問の先生がお呼びだ。帰る前に、高等部の生徒指導室へ寄って行ってくれ。」
「……あ、はい、分かりました。」
呼び出しとは何事だ、私、何かやったかしらん、と、一瞬訳が分からず戸惑ったものの、
「……ああ、もしかして誠人くんの事かな?」
……そういえば、彼の奇行に頭を悩ます面々がいるという噂を昨夜聞いたばかりだ。
昨日のあの様子からすれば、今日はもう何事も無く、平和に時を過ごせただろうと思っていたのだが……。
「もしかして、また何かあったのかな……。」
昨日は、彼の言い様に腹を立て、意地の悪い事をしてしまったが、元々、面倒に巻き込んだのはこちらである。責任を感じない訳にはいかない。
「すいません、神崎です。失礼してもよろしいですか?」
軽く、部屋の扉をノックし、中の応答を待つ。……が、何の返事も無い。首を傾げながらも、もう一度、今度は少し強めに叩いてみる。……が、やはり応答は無い。
……と、
「……君が神崎くんかね?彼の従妹だとかいう?」
L字型をした校舎の、中等部と高等部の境である角の部屋。その、高等部へと続く廊下の曲がり角から出て来たのは、竜姫を呼び付けた張本人だった。
「……はい、担任の笹木先生から、天宮先生がお呼びだと伺ったのですが……。」
軽く、礼をして、竜姫は言った。
「……取りあえず入りなさい。」
でっぷり太った巨体から生えた太い腕の先についたタラコの様に太く赤い指に、小さな鍵をつまんで、ドアノブの鍵穴に差し込み、右に回してロックを解除し、扉を押し開け、
「そこに座りなさい。」
と、指差した。
部屋には、折り畳み式の長机が四つ、くっつけて置かれ、上に白いテーブルクロスがかけられており、周りを囲むようにパイプイスが六つ並んでいた。
彼は、その一番下座の席に座るよう、竜姫を促し、彼自身は上座に、彼の体のサイズには小さすぎるパイプイスをどけて、オフィスの重役用のイスを持って来た上で、それに腰掛けた。
「……あー、それで、君はご両親を亡くして、君の母親の姉であった白崎君のお母上に引き取られた、と聞いたが?」
「? ……え、あ、はい……。そうですけど……?」
今まで全校集会の壇上でしか見た事のない人。事実上、初対面の相手に対し、いきなりプライベートな身の上に関する話題に踏み込んで来た。
「……どうも、白崎君がねぇ、君の事で悩みを抱えているらしい。」
「……は、はあ、」
予想通り誠人の名が出て来た事に関しては、やっぱりな……、とも思ったが、その話に絡めて自分の名前が出て来た事に、心当たりの無い竜姫は取りあえずの相づちを打つ。
「……君の実家の家業は神社だとも聞いたが、事実か?」
「はい、間違いありません。」
彼の、問いの意図をつかめぬままに答える。
「……ちなみに、君のご両親の亡くなった訳は?」
対して興味もなさそうに、彼は尋ねた。
両親の、死因。竜姫が、一番触れて欲しくない話題。今も、あの日の様な雨の日には夢にうなされ、頭痛に苦しめられる、忘れたくても忘れられない記憶。
心の中の、一番傷つきやすいデリケートな部分にズカズカと、土足で踏み荒らす様な、心無い質問に、息の詰まる思いで、
「……事故死です。」
と、事実とは違う、建て前上の理由を述べる。
「……それなのに、君は彼のご両親の厚意を無下にしてまで、家業を継ぐつもりだというのかね?」
「……は――?」
一瞬、何を言われたのか、分からなかった。
「おおいなる方の御心に背いて邪教などを信仰するから、そんな死に方をするんだ。君は白崎君のご両親の計らいで、おおいなる方の教えに触れる機会を得たにも関わらず、家業を継ぐと言い張っているそうだな?」
はぁ、と。蔑む様な目で竜姫を見下す態度を隠す事もせず、ため息をついた。
「……君が学園に来た時分から、白崎君に良く相談を持ち掛けられていたんだよ。彼は君の事を随分心配していたよ。このまま、ありもしない幻想に囚われ、君の愚かな二親の二の舞いに、君がなってしまう事にね……。」
違う、と。何もかもをここでぶちまけて、今すぐ全てを否定してやりたかった。だけど……。
「すいません、白崎です。失礼してもよろしいですか?」
「おお、白崎君か。ちょうどいい。入りなさい。」
打って変わって、歓迎ムードに笑みを浮かべて彼を迎え入れる。
「今丁度、彼女と話をしていたところだ。……全く、君が心配するのも無理はないよ。まだまだ子供で、一人では何もできないくせに……、おおいなる方に背いて邪教の道を歩もう等、何と罪深い行いか……。」
その、言葉は、竜姫の一番痛い場所を突いていた。
込み上げる、感情――怒り、悲しみ、悔しさ、憤り、痛み――。溢れる程の負の感情を、必死に堪えていたものが、目頭を熱くする。
もう、一瞬だって耐えていられなかった。
「バカッ、最低!!」
竜姫は、誠人の左頬を力一杯平手打ち、部屋を飛び出した。悔しくて、悔しくて、そして痛くて。こぼれ落ちそうになる涙を堪えながら、竜姫は走った。
……巫女で、あり続けるために――。