行きはよいよい
初投稿になります。勝手を理解していこうかと。残酷描写は次のシーンから書く予定です。
カナミは用を済ませ、トイレのドアを開けた。そこで、二つの落書きに気づいた。
筆跡が明らかに違う。別の誰かが、書き足したのだろう。
『To be or not to be , that is the question.』
『おばの貞操についてか?』
カナミは、手を洗いながら、彼女をここに連れてきた知人に、この話をすることに決めた。
***
「――っていう落書きがあったよ」
カナミから落書きの話をされたタマコは、興味深げな微笑みを崩さなかった。タマコは言った。
「うん。それで?」
「いや、別に他におもしろいものはなかったかな」
「……」
二人の会話はそれで途切れた。歩く二人の先から、タマコの友人、少なくともタマコはカナミにそう言った、ユリが話に加わった。
「皮肉が効いた話だよねー」
「え、どういう意味?」
「いやー、シェイクスピアの名文句じゃん、それって。
その作品の中じゃ、主人公がパパの幽霊に言われて、父親を殺して母親を奪ったおじにかたき討ちするんだけどさ。そこで、実際にかたき討ちした方がいいかなーって悩んでるセリフなんだよ、それ。
でも旦那が死んだら、別の男にくっつく女は、父親以外の子種で主人公を産んだかもでしょ。問題が根底から覆っちゃうよね、って話を、ツッコミ風に言ってるの。
でしょ、カナミちゃん?」
「そういう話。タマコは聞いたことなかった?」
「いや、その話は読んだことがあったけど、そういう風には――」
「おっ、目的地が見えてきたよー。パパの幽霊ではないだろうけど、運が良ければ誰かの幽霊は拝めるかもねー」
そう言って、ユリは廃墟を指さした。それは、かなり大きく、元々は百貨店のたぐいだったらしい。
***
三人はフェンスを乗り越え、その元百貨店の駐車場に入り込んだ。周囲を道路に囲まれたその廃墟は、一部ビルそのものがほとんど道路に接していた。立地は悪くはないらしく、深夜だというのに、時々それらの道路を車が通って行った。
カナミが訊いた。
「で、このビルにどんな話があるの?」
「うんうん。カナミちゃん、ノリがいいね。ここは見ての通り潰れた百貨店なんだけど。当時の経営者が行方不明なんだよねー。
それだけなら、まあ、パンチが弱いんだけど。
最近、ここら辺の浮浪者や暴走族の姿が見えなくなってて。こう、ナンカに食われたんじゃないかって噂が立ちだしてるんだ」
「って、さすがにそれはまずくないの?」
ユリの説明にタマコは待ったをかけたが、ユリは気にしなかった。
「いやいや、単なる噂だって。内容の半分くらいは、怖い話を楽しむ人たちが作ったよーなもんだから、へーきへーき。
じゃ、行ってみよー」
そう言うと、ユリは、半開きのまま止まっている自動ドアを抜けて、百貨店に入っていった。
***
百貨店の中は暗かったが、三人にとって、そこは不快ではなかった。半開きのドアや壊れた窓を通り、静かな空気が流れていた。
カナミは言った。
「意外とすごしやすいね」
「こういう空気なのね」
タマコが続けた。ユリはそれに答えた。
「まあ、場所によるけどさ。ここは大きくって、日は当たらないし、かと言って特に腐るようなものはなく、こういう場所には珍しいくらい生物も少ない。風も通っている。水がたまるところだと、虫がいたり臭くなったりしてるかもだけど」
言いながら彼女は懐中電灯の光を振った。
「後、怖い話をしてないってのも大きいかな。不快感って、気分とか雰囲気に左右されるし。
ほら、上、明るいでしょ? 吹き抜けになってるし、天窓があるから。星や月に照らされながらになるわけ。肝試しって言っても、ホラーじゃなくて、青春っぽいね、今回。
大丈夫? 目的にかなってる、タマコちゃん?」
「え?」
「ああ、やっぱり何か目的があったのか」
三人は二階に上がる階段に着いた。階段の折り返しにある窓から、月明かりが静かに注がれている。
それを登りながら、ユリが続けた。
「いやいや、カナミちゃんと仲良くなろって、つもりだったんでしょー。隠さなくっていいってばー」
カナミは、特に表情を変えなかった。タマコは、変えた。
「ああ、やっぱり」
「いや、そうじゃなくてね、カナミ」
「今さらどっちでもいいよ。大体あなたが話を持ってくるときって、そういう感じだから。
だけど、なんで今回はこういう場所に?」
カナミの疑問にはユリが答えた。彼女は二階に到達していた。
「ホラーが好きって思われたんじゃないかな。カナミちゃん、普段、一人で本とか読んでない? この子、結構、判断が大雑把だから。だから、青春なノリで大丈夫かって訊いたんだけど」
カナミは眉をひそめたが、すぐに戻した。
「まあ、いいや。ホラーも好きだし、こういう場所も好きだし。それで? この階を見て回るの? それとも上に行く?」
「いや、『まあいいや』じゃなくてね? 今、不機嫌になったでしょ? カナミは何をしたら楽しいの?」
「まー、今回は、事件の現場ー、みたいなとこはないからねー。単純に、雰囲気を楽しむしかないよ。
一応、店の内容は大体、
一階がさっき見た通り、化粧品とか女性向けの品物。
二階、婦人服。
三階、二階と同じで婦人服。
四階、紳士服。
五階、雑貨、インテリア。
六階、ゲームコーナーと玩具売り場、子供服。
七階がレストラン街。
地下に食材売り場と飲み屋街。
後は、屋上がある感じ。どうする?」
タマコは、気持ちを切り替えて言った。
「全部見て回る時間はさすがにないから、偶数階だけにするのはどう? 何かおもしろそうな場所があったら時間を割くだけにして」
「あいよー。青春ものだし、行けたら屋上も行こっかー」
「それでいいんじゃない。まずは、この階から。……しかし、女性用と男性用に割かれているスペースに、差があるな」
「もしかして、カナミちゃん、皮肉屋?」
タマコは、カナミとユリの会話にため息をつくと、先を歩く二人についていった。
***
「はい、六階に、とーうちゃーくー。ここも、見て回ろっか」
その階も、特に今までの階と変わらず、静けさと暗闇に包まれていた。虫の羽音一つせず、吹き抜けや窓から控えめな光が射しこんでいた。
タマコが言った。
「それにしても、こんなに静かだなんて思わなかったかな。こういうきれいなホラースポットって多いの?」
「むむ。どうだろ。なんて言うか、ここ、みょーなくらい静かできれいだから……」
ユリの答えをカナミはさえぎった。彼女の目は、ずっと奥の、光の届いていない空間に向いていた。
「そうでも、ないみたいだね。何か、他の階と比べて、少しだけ音が聞こえる」
他の二人はカナミの視線の方に耳をすませた。外の車の音が聞こえないときは、確かに何かの音が、何かと推測できないほど小さくはあるものの、聞こえてきた。
「何?」
「いやー、全然分かんないな。たしかに聞こえるけど、小さすぎて。それこそ、虫とかかもしれないし……あるいは、周りの奴らを食ったナンカ、かもね」
タマコの問いに、ユリは声を落として答えた。口角が少し上がっている。カナミが、同様に、声を落として訊いた。彼女の表情は、特に変わっていない。
「向こうに、何があるか、分かる?」
「確か、そっちの方には、ゲームコーナーがあったはずだよ」