50.双子の女神様
大変長らくお待たせしました。ちょっと時間取れない過ぎてましてね。少し先まで書いてあるのでしばらくは更新できると思います。
アステラからポーションを受け取って、教会地下の蔵に向かう。
ゆっくり休めたことに加えて気の利いた食事を摂れたためか、昨日よりも随分調子がいい。これなら、今日は倒れずに済みそうだ。
「それでは、魔力を重ねる所から」
アリアのその声に元気よく返事して、俺たちは二人、魔力結晶の前で向き合った。精神を集中し、互いの魔力を同調させる。勝手が分かっているからか、昨日よりもスムーズに前準備は完了した。
魔力結晶に流し込んだ魔力が、どんどん消えていく。昨日は気付かなかったが、魔力は足元に刻まれた溝を伝って樽の方に向かっているようで、溝が微かに光っているのが見える。
しんとした、張り詰めた空気。厳かで、どこか神樹様でクリスとアンリエッタが執り行っていた祭事に似た、不思議な心地よい雰囲気。……今は、クリスが一人でやっているのだろうか。ふと、故郷の母の顔が脳裏を過る。
微かに、俺の魔力が不安定に揺れた。いけない、集中が乱れてしまった。俺は慌てて魔力の流れを戻し、恐る恐るアリアを見た。
アリアはしっかり目を閉じて集中しているのか、俺の魔力の変調には気付いていないらしかった。よく見ると微かに口元が動いている。
——なんだろう?
耳を傾けると、それは聞き覚えのある祝詞だった。
「母なる女神の天涙より生まれし双の神、巡る命を司る魂の癒し手。どうか我らが魂を導き給え……」
神樹様では、死者を送る時や病に苦しむ時など、苦しい気持ちを抱いた時に唱えられていた祝詞の一つ。元々はアニマ・ツィティアという双子の神を讃える祝詞だったと聞いた覚えがある。
巫女となるための教育を全く受けていない俺がはっきりと覚えている祝詞は、それこそすずめの涙ほどしかない。だが、この祝詞に関してはよく覚えている。
いつ覚えたのか、誰に教わったかも覚えていないが、俺は何となく、この祝詞が好きだった。
「「遍く苦難を照らす天上の輝き。嘆きの海に沈んだ我らが母を救いし奇跡の光を今一度、どうか我らにお与えください」」
アリアと俺の声が、重なった。アリアが目を見開いて、まじまじと俺を見る。少し、照れ臭い。
「その祝詞は……」
「えっと……。地元で聞いたことがありまして、それで覚えていたんです」
「地元で……?一体どこの……」
震えた声で、アリアが言った。魔力の同調が僅かに乱れる。
「アリアさん?大丈夫ですか?」
声をかけると、アリアは小さく肩を震わせて、しかし柔らかな笑みを浮かべた。この短い間に幾度となく目にした、聖女の微笑みだ。しかし、今回ばかりは様子がおかしい。顔色が、目に見えて悪い。
「ええ、大丈夫です。続けましょう」
もしかして、体調でも悪いのだろうか。そんな中こんな負担の大きい儀式をして本当に平気なのか?
とはいえ、本人が続けると行っているのに止められる訳はない。魔力の同調自体は多少乱れても俺が合わせられるから良いが、今度はアリアが倒れないか心配だ。
——少しでも気を紛らわせられるように、何か話しながら続けるのはどうかな?
ふと、そんな考えが頭を過る。確かに、昔ミカエラが体調を崩して倒れた時、アンリエッタかクリスが隣で何か話をしてくれて、いくらか楽になった覚えがある。
……そういえば、アニマ・ツィティアの祝詞の話を聞いたのも、そんな時だったっけ。誰から聞いたのかはっきりと思い出せないが、熱に浮かされた頭で聞いていた覚えがある。
「アニマ・ツィティアの祝詞って色々ありますよね」
共通の話題。丁度思い出してきた祝詞の話を振ると、アリアは僅かに表情を変えた。
「私、その中でも特に好きな祝詞があって。
『命の泉にて導の光を希う。母なる神より授かりし明々たる導きの一雫を、どうか我らにもお与え下さい』
っていう、導きの祝詞なんですけど……」
神話の一節が元になっているらしいその祝詞は、俺が覚えている祝詞の中でもかなり好きな部類に入る祝詞だ。これのお陰で、俺は……何が、あったのだったか。とにかく、この祝詞のお陰で今の俺がある。それくらい、思い入れの強い祝詞の一つだ。
俺がそれを口にすると、突然、どこからか澄んだ高い音が聞こえた。よく響く、鐘のような、聞いたことのないような不思議な音色。俺は思わず口を噤んだ。
「今……何か、音がしませんでしたか?」
「音なんて……わたくしには……」
アリアが首を振る。しかし、確かに聞こえた筈だ。耳を澄ませると、再度、あの音が響く。
「やっぱり、聞こえます。柔らかい、優しい音色の……」
聞き覚えはないはずなのに、何故か、懐かしいような不思議な音色。耳を澄ませていると、その音はどんどんこちらに近付いてくるようだった。いや、『音』ではない。これは、『言葉』だ。
『……子よ』
『……子よ』
連なる二つの声は、俺の事を呼んでいる気がした。その声を聞き逃すまいと、俺は一心に耳をそばだてる。
『愛しき命の愛子よ』
『我らが母の愛子よ』
それは、畏敬の念を想起させる程に優しい、そして懐かしい声。それが何かしらの神々の声なのだと、俺は直感的に理解した。
対面で、アリアが息を呑んだのが分かる。彼女にも、この声が聞こえたのだろう。彼女は聖女だ。神の声を聞く事ができても何の不思議もない。そう思ってアリアの意見を聞こうとして、続いたアリアの言葉に俺は困惑した。
「あなたには……何が、聞こえているの……?」
「え……?聞こえない……?」
「……ええ、あたしには聞こえない。あたしには、何も……」
不安定になりつつあったアリアの魔力が、大きく揺れた。俺は崩れそうになる同調を繋ぎとめようと、必死に魔力を調律する。しかし、心理状態が決定的に違うからか、それともアリア側が俺を拒んでいるのか、その同調は全然うまくいかないどころか、合わせようとすればするほど離れていくように感じる。焦る俺の頭の中に、再び女神の声が響いた。
『命の愛子、この子は可愛い、迷い子なのです』
『可愛い可愛い、哀れな子。私達の可愛い愛子』
その言葉の示す所を聞き返そうとすると、突然視界が暗転した。
体から感覚がなくなって、心が宙に浮く奇妙な感覚。それはほんの一瞬で、気が付けば、俺は一人、白とも黒とも付かないどこかに佇んでいた。
ここは、覚えがある。何度か足を踏み入れたことのある、意識の空白地。しかし、何故今……。戸惑っていると、ぐらり、足元が激しく揺れた。それと同時に、複雑な感情を伴った叫び声が、空間全体に響く。身に覚えのない「心」の音色。それは、俺ではない誰かのものだった。
「これは……」
『ここはあの子の心の内側』
『ここはあの子の心の傷口』
女神の声が、俺の心に直接響いてくる。
『ここが、あの子のすべての始まり』
『ここが、あの子の、痛みの始まり』
その声が浮かんだ直後、周囲の景色が変わる。どこかの部屋の内部らしかったが、先程までいた蔵とは決定的に違っていた。
足元に描かれた、複雑な魔法陣。周囲に配置された輝く宝石と、何かの花と、細かい紋様が刻まれた小さな三角柱。その祭壇は、細部こそ違うが、全体的な雰囲気は俺が神樹様で作った女神の加護の祭壇と似ている。
そして、その薄っすらと輝く魔法陣の上に、彼女がいた。桜金の長い髪をバレッタで止めた幼い少女。よく目を凝らすと、彼女の側に、半透明な二つの影が寄り添っているのが見える。
『成功だ!この反応、かなり高位の眷属神を引き当てたぞ!』
突然、俺の後ろで狂気に満ちた声がする。びっくりして振り向くと、白衣を着た顔のない男がこちらに歩いてくるのが見える。体は動かない。
ぶつかる、と思って腕を前に出すが、俺の体は男に触れることはなく、男もそのまま俺をすり抜けて祭壇の方に歩いて行った。……これは、何かの立体映像……なのだろうか。祭壇の方に視線を戻すと、少女に向かって男が屈んで話しかけているのが見えた。
『さあ、アリア。君は誰の加護を賜った?』
何人もの顔のない男が、女が、ぞろぞろと少女の周囲に集まっていく。その中央で、少女は震えた声で口を開いた。
『アニマ・ツィティアから加護を賜りました』
彼女の言葉で、顔のない人間達が沸き、不協和音が辺りに響く。思わず耳を塞ぐが、不協和音は鳴り止まない。
『やったぞ!我々はついに、過去最高の聖女を作り上げた!』
『神代を取り戻す第一歩だ!』
顔のない人たちの姿が歪む。
『さぁ、新たな聖女。私達の最高傑作!明日から忙しくなるぞ!君は、これまでの中で最も優れた聖女になるんだ。その為には知識も、相応しい立ち居振る舞いも、学ぶべきことはたくさんあるぞ!我々も、失われた知を研究しなければ!ハハハ!』
『聖女』『聖女』『聖女』『聖女』
沢山の大人たちが、うるさいくらいの声をあげて、薄暗い影を少女に絡みつかせる。やがてそれは、彼女を雁字搦めに縛り上げると、その耳元で小さく囁く。
『お前は最高の、本当の聖女でなければならない』
『聖女でなければ、ならなかったのに」
背後で声がした。気が付けば辺りは元の白とも黒ともつかない場所で、目の前にはアリアが立っていた。
「あたしは聖女じゃない」
「あたしにできるのは聖女の真似事だけ」
「本当の聖女になんて、なれなかった」
「いっそ、あの子が聖女ならよかったのに」
どこも見ていない虚ろな瞳で、アリアが言う。呪いのような、嘆きのような、願いのような、悲しい声。
世界が揺れて、目の前にあったアリアの姿が微かに震える。その目は先程までと違い、確かな光に満ちていて、真っ直ぐに俺のことを見据えている。
「どうしてあなたがここにいるの……?ここはあたしの場所よ……?ここは、あたしの……。あたしの中から、出て行け!」
激しい拒絶の感情が、全身を打つ。大きな衝撃を感じ、それと同時に身体の感覚が消える。何時間にも思える一瞬の後、気が付けば、俺は蔵の地面に膝をついていた。
「っ、はぁっ、はぁっ……」
胸が痛い。苦しい。さっき見た暗い部屋の景色が心に焼き付いている。おぞましい人間達の声が鳴り止まない。痛む胸に癒しの光を当てるが、早鐘のような鼓動も、痛みも、ちっとも治ってはくれない。何とか顔を上げると、魔力結晶を挟んだ向かい側で、アリアも俺と同じように蹲っている。
側に置かれたランタンの魔力光の弱々しさが、決して短くない時間経過を仄めかす。アリアとの魔力同調は完全に断たれていた。何とか体を起こすが、視界がぐらつく。魔力切れではない。魔力酔いに近い、嫌な感覚。
「……あなたは、何なの?あなたは、何者……?」
震えた声音の、アリアの誰何。
「わたし、は……俺は……」
——命の巫女の、妹の……
「アリア!」
ガタンと音がして、蔵の入り口が開く。慌てた様子のアステラを先頭に、ヴィスベルとミラが蔵に入ってくるのが見える。起き上がって振り返ろうとしたアリアが、ふらりと倒れるのが見える。俺はそれに駆け寄ろうとして——
丁度そこで、ぷつんと音を立てて意識が途切れた。
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