32.5 閑話:カウルとシルヴィア
カウルの過去が少し絡むお話です。
ヴィスベル達と別れたカウルは、メタルジア・タワーに足を踏み入れると地図を確認することもなく、真っ直ぐに昇降機に向かった。
魔法の力でタワーの一番上から一番下までを繋げる昇降機は、タワーの中央付近に設置されている。九つ並んでいる昇降機のうちの一つに、カウルは躊躇なく乗り込んだ。
このタワーを登るためには、三通りの方法がある。一つは、カウルも利用しているこの昇降機。もう一つは、階層の中に設置された、直上階と繋がる階段。最後の一つが、外周部に設置された非常階段である。カウルが階段ではなく昇降機を利用した理由は一つ。階段を使っていては、カウルの目的地までは時間がかかり過ぎるからだ。
カウルが昇降機に乗り込み小さなボタンを押すと、カタン、と小さな起動音を立てて昇降機は動き出した。
久々に味わう浮遊感に似た気味の悪い感触に、カウルは思わず眉をしかめた。とはいえ、それも僅かに数分のことである。
やがて、昇降機の上部に取り付けられている画面に「100」の数字が浮かび上がり、昇降機の移動が止まった。ゆっくりとした動きで、扉が左右に開いく。
目に飛び込んでくるのはもう二度とみることはあるまいと思っていた、成金趣味全開の見慣れた光景。
権威を強調するためだけに無造作に配置された皿や壺は名のある陶芸家の作品。床はヘパイストスの高級石材である「ティンデル白色太陽石」を切り出したタイルが敷き詰められていて、壁面や照明に使われている装飾などは頭が痛くなるほど高価な、高名な職人の手による作品。見る者が見れば涎を垂らして喜んだであろう品の数々は、カウルにとっては目に痛いだけの代物である。カウルは無造作に並べられたそれらの装飾から目を逸らし、姿勢を正す。
周囲を行き交う客は貴族らしい格好の人間が大半であり、そのほかは彼らの護衛らしい騎士然とした者が疎らに見える程度。カウルのような、見るからに「冒険者」という人間は、そこには存在しない。多くの奇異の目がカウルに向く。カウルは彼らと極力目を合わせないようにして、目的の場所へと向かった。
カウルの目的地。それは、メタルジア・タワー最上層の一角にある一つのブースだった。「シルヴィアの魔法薬店」という看板のかけられた、小さなコンテナ。他の店がスペースに商品を陳列する形式の中、この店だけが異質だった。その異質性からか、周囲の客足は少ない。カウルはその店の戸を開けて足早に中に入る。
「あら、珍しい人が来たものね?久しぶり、カウル」
出迎えたのは、白衣を纏った一人の貴婦人。薄紫の腰にも届きそうな髪に、僅かな喜色を湛えた紫紺の瞳。雪のように白い肌にはシミ一つなく、その立ち居振る舞いには見る者を魅了する優雅さがあった。長年見る事のなかったその姿に、カウルは思わず息を呑む。
「シルヴィア。……あぁ、久し、ぶりだな。もう、十年になるか……?」
恐る恐る、相手の反応を伺うように、カウルは聞いた。シルヴィアと呼ばれた女性はふわり、カウルに微笑むと、彼の前にまで歩み寄る。紫紺の瞳が僅かにカウルを見上げた。
「十二年と、正確には三ヶ月ね。少し待っていて、今店を閉めるから。……いつもの部屋で待っていて下さる?」
言われたまま、カウルは在りし日に何度も訪れた部屋に向かう。薬品棚が並ぶ区画を抜けた先。カウンターの裏手にある小さな部屋。二人だけの談話室。防音の魔法が幾重にもかけられ、強力な魔法妨害の魔導具で守られた、おそらくこのメタルジアで最もセキュリティの高い部屋である。
扉を開けて目に入るのは、以前に訪れた日から全く変わらない部屋の景色。カウルはあたかも懐かしい日々に戻ったかのような強い郷愁の念に襲われた。
「お待たせ……。それで、どうしたの?あなたが、私を訪ねるなんて」
非難を全く含まないその声音に、カウルは思わず、背中を揺らした。てっきり開口一番に非難されると思い込んでいただけに、カウルはすぐには口を開けない。
なかなか口を開こうとしないカウルの態度に業を煮やしたらしく、シルヴィアは大きなため息を吐いた。
「はぁ……。あの時、国を離れる決断を下した時の堂々としたあなたは、一体何処に行ったのかしら?」
予想だにしない方面からの攻撃。カウルはぱくぱくと口を開閉して二の句を探す。
「……あの時はすまなかったと思っている」
僅かな逡巡の後に、カウルがなんとか絞り出せたのは、そんな謝罪の言葉だった。それが益々気に入らなかったらしく、シルヴィアの眉間に皺が寄る。機嫌が悪くなるとすぐに顔に出る癖は変わっていないようだと、カウルは場違いにも安堵した。
「その話なら、もうあの時に答えは言ったはずよ。『何があっても、わたくしの気持ちも変わりません』。
まさか、そんな謝罪のためだけにここに来たの?」
「本題は別だ。だが、一言謝りたくて……」
「終わった話を何度も蒸し返されるのは、私の趣味じゃないわ。それで、本題は?」
シルヴィアに急かされて、カウルはあぁ、と頷く。
「いくつか聞きたい事がある。君が知っている範囲で構わない」
「質問ね。それで対価は頂けるのかしら?」
「金なら、多少はある」
「お金なんて要らないわ。それは知ってるでしょ?」
その言葉にカウルは頷き瞠目した。それはそうだ。彼女の『家』を考えるなら、冒険者が用意できる程度の金は端金と切って捨てられる程度の物。彼女が欲するとすれば金銭以外の何かになるだろうことは、ここに足を踏み入れる前には予想出来たこと。実際、カウルも本気で金銭で解決するとは思っていなかった。
「……俺は、何をすれば良い?」
僅かな沈黙を破ったのは、そんなカウルの声だった。どんな断罪でも受け入れよう。どんな誹りにも甘んじよう。それだけの事をしたと、カウルは沈痛な面持ちで頭を下げる。シルヴィアが「顔を上げて」とカウルの頰に触れた。カウルが顔を上げると、透き通った瞳が、真っ直ぐにカウルだけを見つめている。どこか熱っぽい色を帯びた、それと同時に憂いを秘めた紫紺に、カウルは意識を奪われる。
「……あなたの時間を私に頂戴。今晩だけでいいの」
そっと耳元で囁かれた言葉は、古典的なラブロマンスで用いられるような逢瀬の言葉。
「……いいのか?君にも、誓いを交わした夫が、いるのだろう?」
「居ないわ。私の婚約者様は後にも先にも一人しか居ませんもの。お父様も理解してくれたわ」
シルヴィアの言葉に、カウルは胸が締め付けられる想いがした。それは、カウルにとってはとても重い言葉だった。黙るカウルの右手に、シルヴィアがその手を重ねる。
「……ねぇ、カウル。幾らでもやりようはあるわ。今からでも戻れるの。今は冒険者なんでしょう?ランクによっては、私との婚姻だって……」
「……もう、戻らないと決めた。それに、今の暮らしも楽しみがない訳ではないし……今は、すべきこともあるんだ」
脳裏に、まだ幼い少年達の姿が思い浮かぶ。まだ旅慣れない彼らと、今離れる訳にはいかないのだ。
「そう。やっぱり、変わってないのね。頑固な所なんてちっとも変わってない。……それでも、今晩一晩だけは、頂きますからね」
「あぁ。無理を言っているのは俺だ。構わない」
「……それで、聞きたい事っていうのは?」
シルヴィアの手がカウルの手から離される。カウルは一度姿勢を正し、改まった態度で頷いた。
「まず……魔導国家の土の大神の聖地について、知っていることがあれば教えて欲しい。それと、風の大神の聖地についてもだ」
カウルの問いに、シルヴィアが驚きと戸惑いが混ざった顔になる。
「予想外の質問ね。あなた、そんなに信心深い人だったかしら?」
「少し、訳があってな。土の聖地がバルバトスにあるのは知ってる。だが、具体的な場所がわからない。風の聖地もだ。頼む、何か知っている事があれば教えて欲しい」
シルヴィアは暫く考え込むように俯くと、やがて指折り数えながら口を開いた。
「バルバトスで土の大神を祀っている聖地は幾つかあるわ。ウィートラインの大神殿、グランドカノンの大岩、ベルベティア大渓谷に、我が国との境界に位置する大峡谷も、元は土の大神を祀る神殿があったとされているわ」
「その中で一番古いとされているのは?」
「一番古い……それなら、グランドカノンの大岩かしらね。神代の始まりにアニムス・アースが隆起させた大きな岩で、今でもオリハルコンが産出されるダンジョンがあったはずよ。とはいっても、簡単に立ち入れなくなって久しいけれど……」
「助かる。風の聖地についてはどうだ?」
「残念だけど、心当たりは無いわ。……でも、そうね。うちで雇っているメイドに一人、シーカ出身の子がいるから明日には何かわかるかも」
吟遊国家シーカは、レーリギオンの西に位置する歌と芸術の国である。書籍化されていないような口伝や神話が数多く眠るともされていて、カウルが知りたい情報を聞くにはうってつけであるとも言えた。
「そうか……。ありがとう。あと、これは個人的な話になるんだが……」
そう言ってポーチの中から何かを取り出した。それは、小さな薬瓶だった。ミカエラに殆ど与えてしまって、もう小指の先程しか残っていない、エリクサーの小瓶。
「君は、魔法薬が得意だろ?これと同レベルのエリクサーが欲しい」
シルヴィアはそれを受け取ると、矯めつ眇めつその中身を検める。やがて、シルヴィアはその瓶の蓋を開け、くい、と残りを飲み干した。
「低級エリクサーね。でも、今流通してる中ではかなり良質なエリクサーみたい。味の感じに覚えがあるわ。これは……レーリギオンのアステラ・カニオン、彼女の作品ね。効能は解呪、魔力循環促進、身体機能回復、生命力向上……普通のエリクサーよりも少し特殊な調合をしてるみたい」
「作ることは可能か?」
「……残念ね、今は材料が足りないわ」
エリクサーは希少だ。カウルは詳しくは知らないが、入手が困難な材料と並の錬金術師には到底調合不可能な複雑な製法を併せ持っている。それ故、今でも出回るのは良くて中級、殆どが低級のエリクサーだと言われている。
シルヴィアは今、「材料が足りない」と言った。それはつまり、材料さえあれば作れるという事に他ならない。シルヴィアができないことは言わないということを熟知していたカウルは、ぐいと身を乗り出した。
「何が足りないんだ?」
「私の予想では、一番近いのはアンフィナの花の花弁ね」
アンフィナの花。世界で最も手に入れるのが困難とされる、高嶺の花。人工栽培の成功例は報告されておらず、ダンジョンの奥地に稀に咲いていると言われる高級素材。ミカエラの育った世界樹の上には無数に群生しているが、そんな事をカウルは知る由も無い。
「何か、別のもので代用はできないのか?」
「できないことはないかもしれないけど……。その場合、高濃度の命属性の魔力が必要になるわ」
「命属性?」
聞き覚えのない言葉に、カウルは思わず聞き返した。
「錬金術では普通よりも細かく魔力を区分するのよ。命属性は、まぁ、簡単に言えば光属性に分類されてる魔力の中でも特にレアな特性を持った魔力のこと。
今の時代の人間で命属性の魔力を持つとされているのはレーリギオンの聖女様筆頭にごく一部の限られた人だけだから、私たち錬金術師は命属性魔力をよく含んだ素材から抽出してるんだけど……。
エリクサーの調合に充分な量を抽出しようとするなら、アンフィナの花か……それか、あの聖水くらいじゃないと足りないわ」
シルヴィアは完全にお手上げね、と首を振る。
「あの聖水っていうのは?」
「ええ、少し前に騒ぎになっていたでしょう?……って、今のあなたには知る方法がなかったわね。
実は、少し前にレーリギオンから良質な命属性の魔力を含んだ聖水が流れてきたのよ。そりゃあもう、錬金術師なら一目見ただけで垂涎の代物だったわ……。
聖水っていうと普通の光属性の魔力を込めた物が多いんだけど、あの聖水は文字通り格が違った。加工前の原液ですら上級ポーションに劣らない回復効果があって……」
「そんなにか!?」
本来、魔法薬というのは錬金術や様々な魔導具を用いて強力な効果を物質として定着させたものである。聖水はレーリギオンが製法を秘匿する特別な水だが、それ自体は錬金術に用いられる素材に過ぎない。効果も気休め程度の魔除けくらいの筈だし、そもそも魔法薬とは根本的に在り方が違う。それが、錬金術師の知恵の結晶である上級ポーションに匹敵する効果を持っているなんて、それこそ神話かなにかのお話である。
「それで、その聖水はどうなったんだ?」
「もちろん私も落札したわ。酒瓶一本分くらいね。でも、残念だけどもう別の魔法薬に加工しちゃったから残ってないの」
「……そうか。無理を言ってすまなかった」
「こっちこそ、叶えられなくてごめんなさいね」
部屋に、僅かな沈黙が満ちる。お互いに口を開かない時間がいくらか続く。その沈黙を、カウルが破った。
「……悪りぃな、仲間を待たせてるから、一旦そっちに戻るよ。夜は、いつもの……あの場所で待ってたらいいか?」
カウルがメタルジアを訪れた時に、彼女と会うために使っていた秘密の待ち合わせ場所。そんなものもあったなと、カウルは言ってしまってから思い出した。
「今はお仲間さんがいるのね。同業者?」
少し驚いたように、シルヴィアが言う。カウルはそれに首肯した。ヴィスベル達が冒険者なのは事実だし、否定する理由が無い。
「まぁ、そんなところだ」
「なんなら、うちに泊めても構わないわよ?部屋も余ってるし、何より最近来客が少ないってメイドが拗ねてるの」
「それは……そこまで世話になるのは、悪いだろう」
「私自身、貴方の仲間に興味があるもの。それに、人の好意には甘えるものよ」
そう言って、シルヴィアはその形の良い唇を僅かに吊り上げてその白い頬に手を当てた。カウルが最後に見かけた時よりも随分大人びたその仕草に、カウルは小さく頷いた。
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