27.前夜祭
前回までのあらすじ
フラグニスの火をドレークから取り返したミカエラ達。一足先に原初の火種を授かったミカエラに続き、ヴィスベルも原初の火種を得るための儀式に臨もうとする。しかしその儀式を行うには少し準備が必要で……
空中で光が爆ぜる。小さな真紅の光が火の粉のように散らばって、それはさらに一点に集まり、大きな炎へと変わる。原初の火種と呼ばれる、神秘の火。それは一度大きく膨れ上がり、ぱん、と合わせられた手の中で容易く消え去った。
火の余韻が消える僅かな間隙。その静寂を破って、割れんばかりの歓声が上がった。
「いいぞー!」
「綺麗ー!」
「ねーちゃん、もっかい!もっかいやって!」
「んんっ!ではアンコールに応えまして……《明るい導の光》!」
赤く染め上げた導の光を打ち上げて、俺は本日何度目かになる演目を開始する。何度も何度も繰り返してきたからか、もうすっかり手慣れたものである。手際よく宙に浮かせた導の光を貫く弾丸で破壊してやれば、パラパラと光の粉が舞い、歓声が上がる。
もう何回も同じものばかりやっているというのに、里の人たちはまったく変わらない歓声を上げてくれる。そんな里の人々の姿に、俺も嬉しくなって、思わず笑顔が溢れた。
「もう一回ー!」
元気よく、俺よりも小さい男の子が言う。俺は頷いてそのアンコールに応えようとしたが、それはガンガンガン、という大きな音で中断された。
「ん、休憩時間が終わるみたいですね。続きはまた今度、ということで」
俺はアンコールをくれた男の子の頭をぽんと撫でた。男の子は不服そうな顔をしていたが、また今度ね、というと渋々ながら作業場の方に歩き出す。辺りを見回せば、一頻り笑っていたおじさんおばさん達や、ほかの子供達も作業場の方に歩き出していた。彼らの表情は概ね明るい。
ひとまず芸は成功だったかなと、俺は小さく息を吐き出して、近くに用意された椅子に腰掛けた。魔力的な消耗は皆無とはいえ、大勢の前でこういうことをするのは流石に疲れる。
「見事なもんだなぁ」
少し離れた場所から、手を叩いてカウルが言った。俺は水筒の水を口に含んで身体の疲れを癒すと、恨みがましい想いを込めてカウルを見やる。
「カウルさんもやってくださいよー。私ばっかり疲れるんですが」
「んなこと言われたってなぁ。俺の演武とかはあんま受け良くなかったし。お前も楽しそうにやってるしいいだろ?それに、人が喜んでるのを見ると嬉しいって言ってたじゃないか」
「それはそうですけど……うぅ、酷いやりがい搾取だ……」
ティンデル火山、フラグニスの竃からドレークが逃げ去って五日。俺達は、未だ神火の里に居た。ヴィスベルが大神から加護を授かるために必要な「祀り火の儀」という儀式を執り行うためである。この儀式の準備に少しかかるらしく、今は里を上げて儀式の準備が行われている。
本当ならば俺たちも労働力として手伝いたい所なのだが、どうも里の人間でないとわからない符号が多いらしく却って邪魔になるとのことで、こうして作業場近くの広場で旅芸人の真似事をしているという訳だ。
……本当は別のことで貢献したかったんだが、どんな手伝いが欲しいかと担い手達に意見を募った結果、休憩時間に芸を見せて欲しいとせがまれたのである。まぁ、神火の里も神樹様も娯楽は少なそうだから仕方ないのは理解できるんだけどさ。
少なくなった水を雨露の水差しで補充しながらぼんやり空を見上げていると、里の入り口の方が賑やかになる。そちらに目を向けると、ヴィスベルを含めた猟師達が数人、ぞろぞろと獲物を担いで帰ってくるのが見えた。祀り火の儀で使う供物や食糧を得るために狩りに出ていた者達である。
「あー、休憩時間は終わってたかー!」
なんて心底残念そうにしているのは、サフィーの父親であるジン氏。何でも里で一番腕が良い猟師だそうで、今回も猟師たちのリーダーを任されていた。ヴィスベルは多少弓が扱えるということで、猟師達に合流していたのである。俺は椅子から多々上がり、猟師達に近付いた。
「おかえりなさい、ジンさん。芸が見たいなら言ってくだされば今からでもやりますよ」
「や、いいさ。ああいうのは大勢で見るのが一番だからな!それに、今見せてもらったらサフに拗ねられっちまうよ!」
と、笑いながら言うジンに、俺もつられて笑う。
「ふふ、確かにサフィーなら言いそうですね。……それで、目的の獲物はいましたか?」
目的の獲物。祀り火の儀で捧げる獲物は、実は厳密に決められている。タルボから聞いた話では、確か齢14を超えた「大火の使い」なる魔物が必要なんだと言っていた。
ジンは、おう、といって背後の荷台を指差す。そちらを見ると、全身を燃える火のような何かに覆われたトカゲのような魔物が転がされている。火のような、というのは、乗せられている荷台が木製なのにもかかわらず燃え移っていないことからの判断だ。
煌々と燃える火の中にいるトカゲはまだ生きているのか、身体をピクピクと痙攣させている。
「……あの、これってもしかしなくてもサラマンダーっていう魔物では……?」
「んん?おぅ、里の外ではそんな風に言われてたかな。なに、炎を纏っている以外は多少気が荒いトカゲだよ。この辺だと小さいのを地酒に突っ込む事が多いが、大きいのの肉も大層美味なんだそうだ!こりゃあ期待できらぁ」
なんて、目を輝かせているジン。酒、と聞いてうしろの方のカウルが腰を上げた気配がする。俺は頭痛を感じ、じとりとした目をジンに向けた。
「それ、祀り火の儀で捧げる供物なんですから我慢してくださいよ?」
「……まぁ、ちょっとくらいなら、な?」
「ダメです。……ていうか、今日は随分沢山狩ってきましたね。サラマンダー……んん、大火の使いを除いても昨日の倍はありませんか?」
ジンとその周りで目を輝かせていた猟師数人に釘を刺しながら、俺は彼らの後方に並ぶ荷台を見た。
成人男性が3人は寝転がれそうな大きな荷台が3台、うち一台は大火の使いもといサラマンダーが一匹で占領しているとはいえ、残りの2台にも獲物らしい魔物がうず高く積まれている。しかも、それだけには収まらず、猟師達もそれぞれ紐だかなんだかで括った獲物を担いでいるので、本当に相当な量である。
「なに、今日は特別よ、なんせ……っと、あんまり口を滑らせるとタルボ様にどやされちまうあとは内緒だ、楽しみにしてな」
「……まぁ、無駄にしないというなら何でもいいですけど。全ての命は命の女神様のものなんですから、無駄に多くは……」
言ってしまって、俺はいけないと口を噤んだ。「全ての命はアニマ・アンフィナのものだから必要最低限だけ貰い受けるように」。神樹様で日に二つ以上の恵みを食べようとした子供がよく言われる言葉だったが、これはあくまで俺の地元の道徳観である。郷に入っては、という言葉もあるし、押し付けっぽくなるのは良くない。
「……腐らせたりしたら勿体ないですからね」
「ハッハッハ!気を遣わなくてもいいぜ、嬢ちゃん。信心深いってのはいいことさ!なに、今は育ち盛りのガキどもも多いからな、無駄にはしないさ。俺たちの母、アニマ・フラムに誓ってな」
そう言ったジンに、俺はありがとうございますと礼を言う。ほかの猟師達もあまり気にしていないのか、何やら微笑ましいという目で俺を見ている。少し、気恥ずかしい。俺は猟師達から目を逸らして、その視線の先で一人気落ちした様子のロンを見つけた。
今朝、猟師の一員として意気揚々と出発するのを見送ったところだったので、その態度には疑問符が浮かぶ。はて、体調でも悪いんだろうか?
「ロン、どうかしたんですか?」
気になったので寄って聞いてみる。よく見ると、ロンは少し赤い顔をしていた。熱中症だろうか。
「水でも飲みます?」
とりあえず手に持っていた水筒を差し出してみると、ロンは「い、いらねぇよ!」と言ってぷいとそっぽを向いてしまった。解せぬ。まぁいいけど。何があったんだろうと取り敢えず一番近くにいたヴィスベルの顔を見上げてみる。
「ちょっと調子が悪かったみたいでね」
「なっ、ヴィスベルさん!それは言わないって!」
「調子が。やはり熱中症ですか?
ロン、無理は体を壊すだけですよ?」
ほら水を飲め、と再度水筒を差し出す。が、ロンはますます顔を赤くするばかりで水を飲もうとはしない。本気で解せない。雨露の水差しで直接ぶっかけてやろうか。そう思って魔力を回し始めていると、ヴィスベルがぽん、と俺の頭に手を置いた。ひとまず魔力を回すのをやめ、ヴィスベルの顔を見上げる。
「そっちの調子じゃないからあんまり心配しないで」
「え?……あぁ」
ヴィスベルに言われ、俺はようやく言葉の意味を悟った。
よく見れば、ほかの人たちがウサギだの鳥だのを担いでいる中、ロンだけが手ぶらだった。ヴィスベルも素材袋を持っているはずだが、今は周りに合わせてか兎を二匹ほどロープでくくって背中に担いでいる。要は、自分だけボウズで凹んでいたというわけか。可愛い奴め。
「大丈夫ですよ、別に誰も気にしませんて。ロンは狩人の中では最年少なんですから。そこら辺の人は経験が違うんですよー」
「っ!そんな言い方ないだろ!」
慰めるつもりの言葉だったのだが、何故だかロンには気に障ってしまったらしい。ロンは突然大声を上げると、何処かへ走り去ってしまう。しばらく呆然としてしまって走っていったロンの背中を眺めていたが、彼の背中が視界から消えたところで、俺はようやく我に返った。
「……私、何かおかしなこと言いましたかね」
「ハッハッハ!今のはひでぇなぁ、嬢ちゃん」
「えぇ……?」
愉快そうに笑うジンに、俺は困惑を隠せない。他の人はと周りを見回すと、皆ジンの言葉に賛同しているようだった。
「今のは、いくらなんでも同年代の男ゴコロってのが分かってねーぜ、嬢ちゃん」
一頻り笑った後、ジンが言う。
いや、待って。男ゴコロだったら俺は間違いなくプロフェッショナルクラスだと思うんだが?だって20年近く男性やってたんだぜ?
俺が首を傾げたのが余計に面白いのか、再度ジンが小さく笑った。
「ロンが最年少で狩猟に参加することを許されたのは、アイツが力を示したからだ。アイツはまだ12だが、火移しの儀を終えた立派な神火の担い手なんだよ」
火移しの儀。この里に生まれた人が14の誕生日を迎えた、もしくは迎える年に参加するとされる儀式で、親が持つ原初の火種の一部を子が受け継ぐ儀式だと聞いている。
俺も原初の火種を得た身であるから、誰が火種を持っているかは何となく分かるし、ロンが火種を持っていることもまぁ、知っていた。しかし、それがどう関係するんだろうか。疑問符を浮かべていると、ジンの言葉を引き継いだのはまた別の担い手だった。
「アイツも若い身で火種を手に入れちまったもんだから、俺達の中でも特に「何かしなきゃ」って気持ちが強いんだよ。実際、いつも俺達に追いつこうとして成果も上げてる。……今日は、本当にツイてなかったんだ、アイツ」
その言葉に、別の担い手が更に言葉を重ねる。
「それが、悔しい思いをして帰ってきたら同年代の女子にしかたねぇ、なんて言われちゃあな。そうやって受け入れるんも女の度量っちゃあ思うが、その辺はロンみてぇのにはまだわっかんねぇよ」
そこまで言われて、俺はロンが走り去った理由に思い当たった。
「えぇっと……つまり、ロンのプライドをこう、曲げちゃいけない方向に曲げちゃった……て感じですかね?」
「ガッハッハ!まぁそんな感じだろうなぁ!」
言われ、俺は自身の幼少期にもあった負けず嫌いを思い出した。
今の今まで忘れていたが、そういや、そんな頃もあったっけか。
とにかく負けず嫌いで、できなかった事を慰められるのも他の奴が成功しているのを見るのも死ぬほど嫌だった時期。できない自分が嫌で、できる奴が羨ましかった。
——できないことはできなくていいって思うようになったのはいつからだったろうか。
そんな感傷に浸ってしまったのは、何故だろう。俺はロンが走っていった方に目をやって、結局何かすることも思い付かず、小さなため息を吐き出した。
結局、何もしないまま時刻は夕刻になった。作業所に詰めていた人達が出てきて、辺りが活気に満ち溢れる。
暗くなると作業効率に影響が出るということで日が暮れると作業を終えるのだが、今日はいつもより少し早い。適当な人を捕まえて何事かと聞いてみると、どうやら作業が終了したらしい。
「皆さんのお陰ですな。明日には儀式が行えるということで、今夜は里を挙げての祭りですぞ!」
そう宣言したタルボの周りで、側近らしい担い手達がおおお!と歓声を上げる。
根回しはしっかりなされていたようで、タルボが号令をかけるとほんの数分で里一番の大広場が宴会場に早変わりだ。沢山の料理が引っ張り出された机の上に並べられ、ドナールの宴会が思い出される。まぁこれも宴会だよな。ジン達があれだけの獲物を狩っていたのはそういうことか、と納得する。
皆が幸せそうに机の上の料理に群がるのを、俺は何故か特設されていたステージの上から見下ろした。俺もね、気楽にあの辺のお肉とか食べたかったよ。恨めしい気持ちをなんとか押し込めて、俺はステージの周りにずらりと並んだ里の人達を見下ろした。嗚呼、みんなの期待の目が重い。
「えーっと。それじゃあまずはいつものからでいいですかー!」
呼びかけると、ステージの下からは既に割れんばかりの歓声。その歓声に対して、俺はいぇー!と負けじと声を張り上げる。
完全にお祭りを楽しむつもりでいた所をタルボに捕まり、なにやら専用に設えたというフリルのきいたなんちゃって和装風の衣装に身を着せられて、気が付けば今はこんなノリだ。どうしてこうなった。
この着せられた衣装というのがなかなかのキワモノで、基本的なフォルム自体は神火の担い手の女性服と変わらないのだが、色々な所がもう色々と違う。
まず膝下まであった丈が太腿くらいまでしかないとか、妙にひらひらしてるとか、何故か脇から横腹、背中にかけて肌が露出してるとか、もうシルエット以外別物である。どこのアイドルだと問い詰めたいレベルだ。あまりにも股のあたりがスースーするのでせめてもの抵抗にと魔導書とナイフが装着されたベルトを着けては見たものの、重量が増えたばかりで何ら効果は見られない。……実感できないだけで意味はあるものと信じたい。
いや、本当はこんな恥ずかしい衣装着たくなかったんだけどね? なんかこの衣装仕立てるのに徹夜してた職人がいるとかなんとか言われたらほら。断り辛いっていうかさ?
その職人さんもなんで頑張っちゃったかな。無駄にクオリティ高いから断るに断れなかったよ。
幸い、ミカエラが着ていると思い込めば抵抗感もなく着れたので深くは考えないことにする。視界の隅で鼻血を吹いているおば様は見なかったことにしておこう。
まぁたしかに可愛らしい服だとは思うけどさぁ。メジャーとかなしでここまで完璧に体型合わせてきたのとかなんか恐怖を感じるよ。
とりあえず神火の担い手の皆様にご好評の導の光を用いた芸から入っていく。もはや導の光を掲げただけで大歓声だ。んー、辺りも暗いし、開幕は花火でも打ち上げておくか。花火は昼間だと全く映えないのでこれまでは封印していたが、こうも暗くなってくると丁度いい。俺はお手玉にしていた導の光をドッジボール大の大きさにして、浮揚の輪とセットでポイと宙に放り投げる。絵柄はとりあえずタルボの家に飾ってあったタペストリーの一番単純な図形。図形の形に破裂させるのは初めての試みだったが、どうやらうまくいったらしい。空を見上げて、皆が一様に歓声を上げた。うん、今日は花火のネタを中心にするのがいいかもしれない。流石にいつものネタはもう目新しさもないだろうし。
次々花火を打ち上げ、導の光でのお手玉やら何やらを披露していると、ふと、視界の端に映った何かに目が止まる。何だろうか、とそちらに意識をやって、俺は思わず固まった。
そこにいたのは、本来ならここには居るはずのない人物だった。古臭い旅装を纏った、若い東洋人。もっとよく彼の姿を見ようと目を凝らした時には、その姿は掻き消えていた。
俺は眼前に灯していた原初の火種を一際大きく燃え上がらせて、それを掻き消す。
俺は歓声が上がると同時に一礼、演目の終了を宣言する。里の人たちは少し名残惜しそうな様子だったが、皆すぐに拍手で迎えてくれた。俺はステージから降段して、すぐさま男の姿を探した。
彼の姿は、霞のようにどこかへ掻き消えてしまっている。胸を掻き毟られるような感覚を覚え、俺は居ても立っても居られず駆け出した。
必死で里の中を走り回る。そして気が付いた時、俺は里の外れにいた。
「はぁ、はぁ……ここは……?」
そこにあったのは、崩れかけの小さな家屋。長年手入れがなされていないのか、どこもかしこも荒れ放題だ。しかし、そのただの廃屋からは、何故だか心を掻き乱されるような気配があった。
俺は、半分夢見心地で廃屋の扉を開ける。目の前に、眩い光が飛び込んでくる。
『……やぁ、〇〇〇〇。どうだった?』
スピーカーから聞こえてくるような、不思議な声が聞こえた。真新しい家屋の中には複雑な式が描かれた紙が壁という壁に貼り付けられていて、その他には小さな机があるばかりの窮屈な部屋。机の上には書きかけの紙片とインク瓶が乗っていて、その隣には既にびっしりと文字の描かれた紙の束が積まれている。そして、扉を開けた俺を出迎えるように、黒いローブの何かが立っていた。顔は見えず、肌はその一切が隠されている、不気味な人影。
『あぁ、レクター。今日は原初の種火の現物を見てきた。素晴らしいものだったよ、魔力的に何のほつれもない純粋な現象だった。まさに奇跡としか言いようがない』
俺の身体をすり抜けるようにして、誰かが部屋の中に入室した。黒い髪の男だが、背中からでは顔が見えない。彼の顔を見ようと彼の正面に回ろうとしたが、体は動かない。動けない俺の事など存在しないかのように、二人の会話は続く。
『そうか、やはり、神火の民が引き継いできた原初の火種は火の大神の奇跡だったか……。それで、新式魔法での再現はできそうかね?』
『あぁ、魔法式自体は大まかに考えてきた。大体はあんたの予想した通りの式にはなったが、修正点も多かったよ』
そう言った男が、壁に貼り付けられた白紙に手早く文字列を書き込んでいく。それを見て、黒いローブの人影も興味深げな声を上げた。
『ほぅ、こういう記述の仕方があったか』
『完全な火を定義するにはまず全ての要素を記述していくしかない。そこで、既存の極力記述量を減らして簡略化していく方略ではなくて、むしろ古式魔法や錬金術における儀式魔法の方式を応用した陣形記述の方略を用いることで——』
声が途切れる。気が付けば、俺は真っ暗な廃屋の中に居た。腰のケースに収まった魔導書が薄っすらと光を放っていて、それが唯一の光源だった。
「《明るい導の光》」
導の光で部屋の中を照らす。しかし、そこにはローブの男も、黒髪の男もいない。内装は先程見た時よりも寂れた雰囲気に変わっており、壁一面に貼り付けられた奇怪な魔法陣や魔法式が書き殴られた紙は、雨風に晒された所為かわずかに黄ばんだり、破れたりしている。
そして、その部屋の中心には立派な装丁の本が一冊、魔法陣の上に安置されていた。
「これは……?」
その本には埃や劣化のような時間の経過を思わせるようなものはなく、完成したばかりのような真新しさでそこにあった。ずきり、僅かにコメカミが痛む。
上になっている表紙には、未だ読めないこの世界の文字が刻まれていた。俺はポーチから理解の指輪を取り出し、嵌める。
「『フラグニスの火』……?」
本を持ち上げる。ズシリとした重さが手に伝わってくる。その表紙は、どこか触り慣れた魔導書と似た感触のように感じられた。
表紙を捲る。表紙の次には目次があって、更にその次のページに『本書の概要』の文字を見つけた。
そこに書かれていたのは、見覚えのある癖の文字。
「原初の大神、火を司る二柱の神々の奇跡を模倣する新式魔法の提案と理論の構築……?」
何となく、これを書いたのが先程見かけたローブの男と黒髪の男なのだろうと悟る。そしておそらくは、そのどちらかがビアンカ婆さんの師匠なのだろうと。指で書かれた文字をなぞる。それは、この短い時間で俺が最も長く触れ、慣れ親しんだ癖のある文字だった。
遠くの方で、祭りの喧騒が聞こえる。既に胸を掻き毟られるような感覚は消え去っていて、先程までの焦燥が嘘のように、俺の胸中は凪いでいた。
「夢、なはず無いよね」
それがどの事柄を指しての言葉か、自分でも分からない。ともかく、手元に残された『フラグニスの火』の、触り慣れたものと似た感触の装丁をなぞり、俺はしばらくその場に佇んでいた。
ミカエラは魔導書『フラグニスの火』を手に入れた!
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