タケル君の日常
翌朝、私は頭が痛いと嘘をつき学校を休んだ。
仕事で忙しい両親は申し訳程度に風邪薬を置いて、いそいそと出勤していく。私が風邪を引いたら一生懸命看病してくれたのは何歳の時までだったのか思い出そうとしたが思い出せなかった。
「さて、と……」
私はパジャマのままパソコンの前に座る。学校を休んだのはもちろん『異世界を救った男』の続きを読むためだ。
どうしても早くこの先を読まなくてはいけない。
そんな思いに駈られていた。
(タケル君もとんでもないものを残してくれたもんだよねー……)
昨日の体験はまだ生々しく私の中に残っている。出来ればあんな物騒な世界には二度と行きたくなかった。
パソコンの電源を入れると立ち上げ画面が映し出される。
テレビでもドライヤーでも電源をつければすぐ使えるというのに、パソコンというのはいつになれば電源をつけた瞬間に使えるように進化するのだろう。色んな機能をつける前にそれを何とかして欲しい。
ようやく立ち上がったパソコンで『異世界を救った男』のファイルを開く。
昨日読んだところまでスクロールさせ、続きを読み始めた。
あのあと異世界では何が起こったのだろう?
私はいったいタケル君に何をしたのだろう?
タケル君はいったいなぜ行方不明になってしまったのだろう?
その答えが知りたかった。
しかし物語は驚くべき展開を迎える。
異世界から戻ったタケル君は翌日、異世界ではなく普通に学校に登校していた。
「えっ……!? すぐに異世界に行くんじゃないんだ?」
確かに現実世界に戻ってきたら学校にも行かなきゃいけないだろうが、そこは別に作中では飛ばしてくれてもよかった。どうやらこの物語は異世界の出来事だけを綴っている訳ではないようだ。
朝の駅で私を見掛けた描写が出て来るのを見て、胸の鼓動が速くなる。隠し撮りされた自分の動画を観るような緊張と気まずさを感じた。しかしタケル君は私に声を掛けずに違う車両から電車に乗る。
『僕のようなキモオタに声を掛けられると陽向は迷惑なのだろう。明言はしてこないが、それは彼女の行動を見ていれば鈍感な僕でも気付く』
その一文を読み、胸が締め付けられた。別にそんなことまで思っていないが、幼なじみの事実を周りに隠していたのは事実だ。見透かされたような気まずさも、弁解すべき相手がいないのではどうすることも出来なかった。
更に衝撃的な内容は続く。
タケル君は毎朝シューズボックスではなくゴミ箱から上履きを拾い上げていること、朝一番は机の中に入れられたゴミを取り出すことなどが淡々と記されていた。
更に放課後、タケル君は不良グループにトイレに連れて行かれ、理由もなくお腹を殴られる。痛さで屈んだところを蹴られ、殴られ、タケル君は頭を守るように蹲り、トイレの床を這いずり回っていた。
「ひどい……」
正視に堪えがたい内容に思わず目を逸らした。読まずにスクロールして飛ばしてしまおうかと思ったが、何とか堪えて続きを読む。
恐らくタケル君は読み飛ばされることを望んでいないと思ったからだ。
悪ふざけと呼ぶにはあまりに悪質過ぎるイジメは更にエスカレートしていく。
不良グループはホースでタケル君をずぶ濡れにさせ、更にはその服を無理矢理脱がせる。
裸にさせられたタケル君はなぜか最後に土下座をさせられて、ようやくイジメから解放された。
赦しがたい行為を見せられ、私は怒りで肩が震えていた。
この事実は必ず白日の下に曝し、然るべき罰を受けさせなくてはならない。そう誓った。
それに幼なじみがこんな目に遭わされているのに気付いてやれなかった自分も悔しかった。
イジメといってもからかわれるだけとか、無視されるだけとか、その程度のことを想像していた。
タケル君がこんな壮絶な日々を送っているなんて全然知らなかった。
タケル君はこの暴力に堪えてる最中の感情描写を一切綴っていない。ただひたすら、淡々と行われていた暴力行為だけを描写していた。それがかえって痛々しくて生々しいものとして伝わってくる。
もし昨日、私が木の股から異世界に転移する経験をしていなければ、このイジメの描写もフィクションだと思っていたかも知れない。いや、正確には誇張した作り話だと思い込もうとしていたかもしれない。
しかしあの体験を経た今となっては、ここに書かれていることは全て事実だと認めざるをえなかった。
制服を濡らされたタケル君はジャージに着替えて帰宅する。
そういえば私はタケル君がジャージで下校する姿を何度か見たことがあった。
そこにこのような出来事があったなんて、思いもしなかった。
ディスプレイの文字が滲み、私はパジャマの袖で目を拭う。嗚咽が漏れ、身体が熱くなり、まともに画面をスクロールさせることさえ出来なくなった。
今すぐ立ち上がり、この事実を学校に訴えようと思ったが思い留まった。証拠不十分とか、頼まれてもいないのにイジメの不名誉を白日の下に晒したくないとか、そういう理由ではなかった。
タケル君はイジメの実態を私に伝えたかったわけではない。そう思ったからだ。
それにタケル君はイジメを苦に失踪したわけではない。何故かそういう確信があった。
とにかく最後まで読まなくてはいけない。その義務が、私にはある。イジメの事実を訴えるのはそのあとでもいい。
タケル君はこの物語を私に預けたのだから。
一度異世界に転移した者は新月の夜でなくても異世界に行くことが出来るらしい。
学校から戻るとタケル君はすぐに神社の裏へと行き、異世界へと旅立った。異世界に転移すると必ず例の村に辿り着くらしい。そのためタケル君はその村を「はじまりの村」と呼んでいた。
異世界ではタケル君の帰還を待ちわびたていた。数日が数十分だった異世界だから一日経つと随分時間が経っているのかと思ったが、実際はそんなことはなく二日くらいしか経過していなかった。その辺りの時間の進み方についてはどんなルールなのかよく分からなかった。
学校では『陰キャ』と蔑まれ、理不尽に殴る蹴るの暴行を加えられるタケル君も、この世界では救世主として多くの仲間達に囲まれていた。
昨日読んだときはタケル君の歪んだ願望にしか見えなかったその世界が、今は痛快な冒険活劇と感じてしまう。
この世界では確かに私の幼なじみは『異能の救世主』であり、『異世界を救った男』であった。
それがなんだか嬉しかった。