異世界へのゲート
お風呂上がりにスマホを弄くってだらだらしたあと、少しは勉強でもするかと机に向かう。しかしそんな時に限ってシャーペンの芯が切れていた。
こういうことっていうのは意外とよくある。頑張ろうとしたときにその気概を奪うような些細なトラブルに見舞われるパターンだ。
今日から軽くジョギングしようと思ったら雨だったとか、ダイエットしようと思ったらお父さんがケーキを買ってくるとか。
でもそれを理由に勉強を諦めるほど意志は弱くない。むしろさっさとシャー芯を買ってきて勉強してやろうという気にさせられるのが私だ。
時計を見ると既に夜中の十一時を回っていた。
「あーあ……めんどくさ……」
一度着たパジャマを脱ぎ、ジーンズとTシャツに着替え直す。近所のコンビニに行くだけだから軽装で充分だ。
夜の住宅街は静まり返っており、すれ違う人はいない。
夏の夜風が気持ちよくて、大きく伸びをしながら空を仰いだ。
それほど空気が綺麗じゃないし、灯りの少ない田舎という訳でもないから沢山星が見えるわけでもない。
それでも星が煌めく夜空は綺麗に感じた。
地図アプリはおろか紙の地図すらなかった時代、人は星を頼りに目的地に向かったらしい。タケル君も星を頼りに帰ってこられたらいいのに、と思った。
「あ……」
ぼんやりと星を見詰めているうちに気がついた。今日の夜空には月がないことに。
(新月の夜十二時、神社のご神木に異世界へと繋がるゲートが現れる……)
不意にタケル君の小説の冒頭の場面が頭に浮かぶ。
あんなことが事実なわけがない。それは分かっていた。
それなのに神社に向かったのはタケル君を見つける糸口があるかもしれないと思ったからだ。異世界に繋がるゲートを求めている訳ではない。
そもそも異世界にとやらに行けるとしても行きたいとは思わないし、むしろ本当に異世界に行っちゃうんだったらきっと神社の周辺には近寄らないだろう。
神社には当然誰もおらず、私は足早にご神木に向かう。タケル君が言っていた通り、この神社は昔となにも変わっていない。狛犬の位置も、鳥居の高さも、お社に施された彫刻も、みんな薄れていた記憶を濃く塗り直してくれた。
ただ久し振りに見るご神木は昔見たときより少し小さく感じられた。そしてもちろん木の股に異世界に繋がる穴などない。
「そりゃそうだよね……」
初夏とはいえTシャツ一枚で長時間うろつくのは肌寒い時間帯だ。
ポケットからスマホを取り出し、時間を確認した。
午後十一時五十八分。
午前零時までにはあと二分あった。
馬鹿馬鹿しいと思いつつ私はすぐには立ち去れず、スマホを片手に約二分間、そこに立ち尽くしていた。
そして、十二時になった瞬間──
「えっ……!?」
木の根元の股の部分が光り、ふわぁーっと穴が開いた。
「嘘でしょ……異世界へのゲートって本当にあるんだ……!?」
私は魅入られたようにその穴に近付く。その瞬間、光が伸びて私を包み、強い力で引っ張られた。
「きゃああああっ!?」
光に包まれながらどこまでも墜落していく。
手を伸ばしても捕まるものはなく、ただひたすら墜ちていく。
いや、落ちているようで浮いているのかもしれない。
全身の感覚が麻痺しはじめたとき、急に現実的な重力に引っ張られる感覚が襲った。
「きゃっ!?」
お尻から落ちると目の前には見たことのない風景が広がっていた。
古びた石造りのこじんまりとした教会。椅子や机などは年月を感じさせるように黒光っている。全体が落ち着いた色合いだけど、ステンドグラスだけは色鮮やかで聖人らしき人物が描かれた立派なものだ。
私はちょうど祭壇の真ん中に落下したようだった。
椅子に座り、祈りを捧げていた少女が驚いた顔をして私を見詰めている。
仄暗い教会内で発光するかのように白い肌、碧眼金髪と綺麗に通った鼻梁。タケル君が好んで読むライトノベルの表紙に描かれているような美少女だ。
(あっ……この子ってもしかして小説に出て来ていた回復魔法の美少女、シャーロットじゃ!?)
小説に描かれていたとおりの容姿をした美少女と数秒間見詰めあう。
「こ、こんばんはぁ……ここは異世界ですか?」
信じられないし信じたくもないが、私は本当に異世界に転移してしまったのかもしれない。
タケル君が私に託したあの文章は空想の産物ではなく、実際に彼が体験したことだった。
「あっ!? あなたはもしかしてっ!」
シャーロットは立ち上がって私を指差す。はじめ唖然とした表情はどんどんと険しく歪んでいく。驚いた顔も怪訝な顔も綺麗に見えてしまうほど美少女だ。
「あなた、ヒナタね! そうなんでしょっ!!」
「えっ……なんで私の名前をっ……」
シャーロットはなぜか私を知っていた。しかもどう見ても好印象を持っている様子はない。
何が何だかさっぱり理解できなかった。しかしそれらについて質問をする暇は与えて貰えなかった。
「あなたのせいでタケルはっ!!」
シャーロットはふくよかな胸元を揺らすほど勢いよく立ち上がり、短刀を抜くと間髪入れず斬りかかってきた。
「赦さないっ!」
「きゃっ!? ちょっ!? な、なにっ!?」
反射的に飛んで逃げた私は、軽々とシャーロットの頭上を飛び越えて教会の端から端までをジャンプしていた。
「へ? なんで……?」
打ち損じたシャーロットは唇を噛み、「逃げるなっ! 覚悟っ!!」と叫びながら再び短刀を構えて突進してくる。
「ちょっ……ちょっと待ってよっ!!」
私の叫び声が空気を振るわせ、波動となってシャーロットを吹き飛ばしていた。
「きゃあっ!!」
シャーロットはそのまま吹っ飛んで壁に激突し、手にしていた短刀は甲高い音を立てて石畳の床を転がった。
「大丈夫っ!?」
よく分からないが私がやってしまったらしい。
慌てて駆け寄ると野犬のような鋭い眼光で睨まれ、咄嗟に距離を取り直す。
「な、なんであなたが私のことを知ってるわけ?」
ここがどこかなんてことは訊くだけ野暮だった。間違いなく私は異世界に飛ばされているし、物凄い跳躍力や声で相手を吹き飛ばせるところを見ると『チート』というやつも身に付いているようだ。
それより気になるのはなぜシャーロットが私のことを知っているのかということだった。
私はタケル君が残してくれた小説だか伝記を読んで彼女のことを知っている。しかしシャーロットが私を知っているのはおかしい。
もしタケル君から話を聞いて私の存在を知っていたとしても、見た目まで知っているはずがない。
「うるさい。私があなたの質問に答える義理はない」
シャーロットは吐き捨てるようにそう言って立ち上がる。
「あなたのせいでタケルはっ……あんなことになっちゃったのよっ……!!」
「……え? タケル君がどうなったの!?」
訊いたところで答えるわけもなく、シャーロットはただ私を睨む。いったいタケル君はどうなってしまったのか?
憎悪に満ちたその目付きからは不吉な予感しかしなかった。