柔らかな感触
私は気まずさと照れと焦りでぱたんとノートパソコンを閉じてしまった。
胸が早鐘を打ち、それを必死に落ち着かせようと呼吸を整える。
(なにこれっ!? 私、タケル君からこんな風に思われていたわけ!?)
顔が熱い。きっと今の私は本当に風邪を引いてしまったかのように赤い顔をしていることだろう。
美化しすぎだ。
見た目も性格も美化されすぎている。
私はタケル君が思ってくれているほどいい人なんかではない。ライトノベルのことだって少し下に見て意地悪に言ってしまっただけだ。こんなに好意的に捉えてもらうほどのことじゃない。
好きだと直接的に書かれていたわけじゃないけれど、告白されたみたいな気持ちになった。
(これが私に伝えたかったこと……なの?)
でも物語がここで終わっていないのだから、きっと伝えたいことはまだあるはずだ。
一度深呼吸をしてからパソコン開き、続きに進む。
タケル君が異世界に戻ると、事態はまた意外な展開を見せていた。
四天王まで倒された魔王は遂にその力を見せ始めたのだった。
これまで一度も出て来なかった魔王。その正体角が四本くらい生えた厳めしい悪魔だった。
魔王は四天王をはじめとした他の魔族とは比較にならない強さを有していた。
しかも魔王に使える近衛兵達ですら四天王を凌ぐ強さである。
一時は優勢に立った人類だったが、一気に押し戻されてしまっていた。
それでも人類は簡単には諦めない。人類には異能の救世主であるタケル君がいるからだ。
タケル君は現実世界でもそれだけ頑張ったらいいのにと呆れるほど、異世界では決して諦めず希望を捨てずにみんなを鼓舞しながら最前線で戦っていた。
それでもある程度戦うとタケル君は現実世界へと戻ってしまう。
異世界の人達に引き留められても、タケル君は決して異世界に永住しようとしなかった。
現実社会に戻ってもタケル君にはろくなことがない。
学校には友達もおらず、それどころか毎日のようにイジメられている。私でさえ異世界に残って欲しいと思うくらい、二つの世界はギャップがありすぎた。
そんな二重生活を繰り返すタケル君に、遂にシャーロットが感情を爆発させてしまう。
────
──
「どうしても帰らないと駄目なの……?」
シャーロットは僕の腕を掴んで訊いてくる。彼女は恐らく意図的に『もう一つの世界』について訊いてくることはなかった。その禁を破ってくるくらいだから、よほど切羽詰まっていたのだろう。
シャーロットの目に溜まった涙を見ると決心が鈍りそうで、僕は視線を適当に逸らした。
「ああ。ごめん」
「もう一つの世界でも、タケルはやっぱり世界を救っているの?」
「……いいや。そんなことない。ごく普通に暮らしてるよ」
僕はちょっとだけ嘘をついた。ごく普通になんて暮らしていない。最底辺の生活を送っている。でもそれくらいの嘘、これだけ頑張ってるんだから許して欲しい。
「えっ……そうなの?」
よほど意外な答えだったのだろう。シャーロットは僕の腕を掴む力を緩めるほど驚いていた。
「向こうでの僕は異能なんて使えない。なんの取り柄もないごく普通の男だよ」
「タケルがごく平凡だなんて……信じられない」
「こちらの世界でも、本当は同じなんだよ。僕はごく普通の男だ。ただ異能を持つだけで」
「そんなことないっ!」
シャーロットがまるで自分の尊厳が傷つけられたかのように怒った。
「そりゃ確かにタケルは物凄い力を持っている。けどそれだけじゃないっ……それよりもみんなを一つにする力や、折れない勇気、それに思い遣る心や的確な判断が出来るっ! それは異能なんかじゃない。タケルの本質そのものだよ!」
そんなに褒められると少し擽ったくて、正直嬉しかった。でもその言葉は素直にそのまま受け入れられない。
「それもみんな異能がもたらしたことだと僕は思うよ。人は誰でも立場によって対応が変われるものだ。立場が人を育てると言っても過言ではない」
「立場が、人を……?」
「ああ。この世界では僕は異能のスキルを持つ男だ。当然魔族との戦いで役に立つ。だからみんなが僕を頼ってくれる。頼られると、それに応えなくてはと頑張れるものなんだって、この世界に来て知ったよ」
現実世界では誰一人として僕を頼ってきたりはしない。あてにもされないし、下手したら頭数にすら入れて貰えないこともある。二人組にならなきゃいけない場面で、人数が偶数であろうが割り切れない素数のように弾かれるのが僕だ。
そんな状況で僕はどんどん腐っていった。
努力なんて無駄だ。基本スペックの段階で負けが確定している。無理ゲーだ。そう思うことで逃げていた。
でもここでは違う。僕が頑張らないと人類を救えない。それが臆病な僕を奮い立たせてくれた。
「だったらここにいてよ! そんな世界に戻っても仕方ないじゃないっ!」
「ああ。普通に考えればそうかもしれない。だけど僕が元いた世界も、僕は捨てきれない。どうせろくなことがないと知りつつ、それでも僕は生まれたあの世界を嫌いにはなれないんだ……」
シャーロットは僕の腕を掴むのをやめ、真っ直ぐに僕の目を見詰めた。
「好きな人が……いるのね?」
澄んだ美しい目に見詰められ、嘘はつけないと思った。
僕は小さく首で肯定した。
「結婚してるの?」
「まさか……」
「じゃあ婚約者?」
「違うよ……そんなのじゃない。ただ僕が一方的に好きなだけだ」
「なにそれ……そんな人のためにっ……」
「馬鹿げてるよね。そんなことのために帰るのかって……シャーロット達は命を賭けて毎日戦ってるのに」
シャーロットの蒼い瞳が滲み、ぽろぽろと涙が溢れていく。
「だったら私だってタケルが好きっ! 大好きなのっ! だからここにいてっ! 私のために、ずっとここにいてよっ!」
感極まったシャーロットが僕の胸に飛び込んで顔を埋める。
自慢じゃないが童貞の僕はこういう時どうしたらいいのかさえも分からない。
「ごめん……」
「謝らないでよっ……馬鹿……」
「その子のことが、僕はずっと好きなんだ。もう十年以上、ずっと……」
シャーロットは涙で充血した目で僕を睨む。
「知ってたっ! ヒナタっていう子でしょっ!」
「どうしてそれをっ……!?」
「タケルはたまに寝言でその子の名前を呼んでるもんっ! そのペンダントの中にそのヒナタって子の絵が入ってることも知ってるっ!」
鋭く指摘され、僕は思わずペンダントを隠すように胸元に手を当ててしまう。実際には絵じゃなくて写真なのだが、この世界には写真というものがないから分からなかったのだろう。
「そんな子のどこがいいのっ! 私の方がタケルを愛してるよ! タケルが勇敢なことも、優しいことも、仲間思いなこともみんな知ってるっ!」
「ありがとう……でも理屈じゃないんだ……僕はずっと、ヒナタの笑顔に救われて生きてきた……僕にとってヒナタはかけがえのない存在なんだ」
「なんでよ……ヒナタなんて目は大きいかもしれないけど、鼻は低いし彫りが浅くてのっぺりして子供みたいな顔だし……だいたいおっぱいも小さいしっ……」
「確かにおっぱいは小さいかもしれない……でもすごくいい子なんだ。さり気なく僕を励ましてくれたり、小さい頃から僕を支えてくれたり……かけがえのない人なんだ」
シャーロットはそれ以上聞きたくないとばかりに僕に抱き付き、唇を重ねた。
「ンンッ!?」
とても柔らかな感触だった。
接触は一瞬だったのに、僕の唇にはいつまでもその甘く柔らかな感触が残る。身体のどこが触れ合うのとも違う、特別な感じだ。
気の強いシャーロットとは思えないほど顔を真っ赤にして俯いてしまい、僕たちはしばらく動けなくなった。
「そんな未練、残したままじゃ私も困るからっ……」
少し落ち着きを取り戻したシャーロットは、上目使いで僕を睨みながら呟く。
「ちゃんと気持ちを整理してきてっ……それで、もし、私のことが気になるなら……その時は……」
潤んだ瞳はどんどん鋭さを増し、最後まで言い終わる前にぷいっとそっぽを向いてしまう。
「僕とヒナタはそういう関係じゃないんだ……僕が思いを告げるなんてことはない。そんなことをすればヒナタを苦しめるだけだから……」
シャーロットの背中にそう言い残し、僕は井戸に手をかける。シャーロットは振り返ってもくれない。
「じゃあ、また戻ってくるから」
僕はそう言い残して井戸へと落ちる。
その瞬間、シャーロットが振り返った。
一瞬のことで、彼女の表情までは見えなかった。