陸軍潜水艦異界に出撃す!
今回お題の1と2をミックスした作品です。
第二次大戦末期、日本本土と太平洋各地に点在する自陣営との補給線の寸断を危惧した大日本帝国陸軍は、独自に輸送潜水艦の建造に取り掛かった。まるゆと呼ばれる三式潜航輸送艇である。
この所謂陸軍潜水艦の建造については、戦後資源の浪費や当時対立著しかった陸海軍のセクショナリズムの極致と言う批判もなされたが、計画発案から設計、進水、そして竣工と実戦配備までを2年ほどの短期間で行ったことは称賛に値することであろう。
この陸軍潜水艦の建造経緯や戦時中の戦歴に関しては、既に多くの本に書かれているところであるが、今回の本題はそこではなく、むしろ現在ではむしろこちらの方が有名かもしれない、第二の人生に関してである。
まるゆに期待した陸軍では、大車輪で量産を進め、短期間に20隻ほどの数を揃えている。しかしながら、大東亜戦争中に実戦に投入されたのはフィリピンへの補給を試みた3隻のみで、それらはいずれも未帰還となった。
そして残るまるゆは、活躍の機会を逸してしまった。昭和20年2月に、戦争が唐突に終わってしまったからである。
誰が枢軸・連合問わず、世界中に異世界と結ぶ通路が開き、そこから異世界からの侵略者が現れるなど想像できたであろうか。
この予想外の地球外からの侵略者を前にして、地球上の国家は互いに戦闘をしている場合ではなくなってしまった。各地で休戦条約(後にほとんどが講和条約に変更)が結ばれると、共同戦線を張って異世界の軍勢に対抗した。
異世界側の奇襲もあって、民間人を含めて実に200万近い犠牲が出てしまったが、一致団結した地球側は大戦中に整備したその豊富な戦力と、戦時体制を背景として昭和20年8月に、この異世界の軍勢をようやく異世界側へと押し戻した。そして、地球側の連合軍は後顧の憂いを絶つべく、異世界側へと逆侵攻した。
地球側各国は第二次大戦の爪痕が深い状況にあったが、連合国でもワシントンやロンドンが直接侵攻を受けた現実を前に、この逆侵攻は地球の総意として行われた。
そんな急展開の国際情勢の中で、少なくとも地球上には敵がいなくなり、必要性が薄れたまるゆは着工分までで建造はストップ、竣工した艇も陸軍船舶司令部のある広島県の宇品港や、基地が設けられていた愛媛県の三島港等に集められた後、最低限の保管人員が残された状態で係留された。
このような処置となったのは、使い道がなくなったまるゆの処遇を陸軍として簡単に決められなかったからだ。半ば勢いで40隻近く造ってしまい、戦闘や事故などでの消耗分、休戦による工事中止分を除いても、昭和20年8月15日時点で、まだ38隻が実践投入可能な状態で健在であった。
使い道がないのなら解体してしまうのが普通であったが、連合国との講和の代償として異世界への出兵を求められた大日本帝国は、既に壊滅状態にあった海軍と商船団の再建に全力を傾注せねばならずなかった。そのために全国のドッグはそちらに利用されており、まるゆの解体に労力を割いている状況などではなかったのだ。
ちなみに海軍と商船の再建に力が入れられたのは、逆侵攻並び補給路として海上に現れた通路からのルートが重視されたからである。
そうして、まるゆは実に半年近くも放置されることとなった。ただし最低限の船舶兵が常駐し、メンテナンスは行ったため、稼働状態には保たれていた。
そして年を越した昭和21年2月、急遽まるゆに出撃準備命令が出されることとなった。
発端となったのは、異世界側の内陸部の巨大湖に浮かぶ、とある街を急襲することになったことだ。この街の立地が、問題であった。
と言うのもこの街、浮かぶという表現通り湖の島に築かれた街なのだが、島が一番陸地に近いところで沖合500m程の所にあり、陸地と島との間の水道には橋はなく、全て船での通行となっていた。そしてこの水道をグルッと囲むように、街と陸地双方に堅固な要塞や陣地が築かれており、水道内への艦船の侵入を阻んでいた。また陸地からの進撃も、進撃路が地形上制約を受け、攻略に時間を消費するという見込みがなされていた。
残る湖側に面した島の三方は切り立った崖のようになっており、舟艇による上陸は不向きであった。またこちら側にも要塞や陣地があり、不用意な接近は禁物であった。
もちろん、空挺による降下や重爆撃機による事前の徹底的な爆撃による破壊という手段も取れたが、この時期各国の空挺は他戦線に割かれ投入できる目途が立たず、また重爆撃機による破壊は必然的に民間人への大規模無差別爆撃となり、異世界の軍勢による民間人虐殺を非難していた地球側としては執りにくい。
そこで考えられたのが、夜間陸地との間の水道内に潜水艦を侵入させ、隠密裏に兵員ならびに資材を揚陸、敵要塞や陣地を破壊する。その後、大規模な舟艇や水上両用車両群による上陸作戦を敢行するという作戦であった。
そして先陣を切る潜水艦として、まるゆに目がつけられた。どうしてまるゆなのかと言えば、まず大きさが500tにも満たない小型艦であるため、内陸部への輸送が容易であること。
この湖への運搬では、河川を経由しての自走や艀に載せての輸送が考慮されたが、その地理的制約をクリアできる大きさが、まるゆのサイズであった。
加えて、まるゆが輸送潜水艦であることも幸いした。元々荷物を運ぶためだけの潜水艦であるのだから、今回のような輸送作戦には打ってつけと見られたわけだ。
ちなみに帝国海軍にもサイズ的には似通った波101型が存在したが、こちらは本格的な外洋運用が可能であるため、既に輸送や偵察、訓練と言った任務に充当されており、今回の作戦には投入できなかった。
こうして、まるゆは全ての艇が作戦に用いられることとなり、38隻全てが造船所に回航されて改修工事に取り掛かった。まとまった数が存在して作戦に投入できたのも、まるゆが抜擢された理由である。
まず艇体とエンジンの徹底な整備が行われた。長期間最低限の要員しか置かれていなかったことによる各部の劣化の補修とともに、戦時下ゆえの質の悪い材料や不十分な精度の工作などによる不具合がないかも念入りに調べられ、そうした箇所があれば直ちに修繕が行われた。
連合国との戦争が終了し、正式に対異世界戦争で同盟が組まれると、日本にはそれまで不足していた物資が、特に昭和20年8月以降ドッと流れ込むようになった。質の良い鉄材や豊富なゴム、銅などもその中にあった。無論そうした戦争中の日本が喉から手が出るほどに欲し、節約に節約を重ねていた資材が届いたことで、不具合箇所や不良個所の修繕が大いに進捗したのは言うまでもない。
こうした修繕とともに、改装も加えられた。特に劣悪だった居住設備の改善点として、便所の設置や蓄電池の強化による換気設備の改善も行われた。
また一部の艇では浮上後の戦闘に備えて、搭載していた37mm舟艇砲に代えて、アメリカより供与された20mmエリコン機銃に換装した。口径は小さくなるが、機銃であるため制圧射撃が出来るメリットがある。
この他に比較的軽量で反動が少ない迫撃砲や、アメリカから供与のバズーカ砲を支援火器として搭載した艇もあった。
この作戦では、まるゆは予め輸送作戦に投入したらそのまま陸地に乗り上げるなり、或いは乗員脱出後自沈するなりして、事実上の使い捨てとすることが想定されていた。
というのも、作戦の目的自体は敵地への隠密奇襲上陸であり、それを果たして橋頭保を築いてしまえば、後方から本隊が来る。つまり、上陸した部隊はいずれにしろその後続部隊と合同すればいい。
またまるゆ自体は陸軍が持て余していた艇なので、喪われてもよいというわけであった。
艇の整備が進む一方で、乗員の再教育も急速に行われた。かつてまるゆに乗り込んでいた船舶兵たちが再び召集されるとともに、今回は各艇2~3名程度の割合で海軍の乗員も加わった。
戦争中は陸軍独自での運用であり、海軍は乗員の教育に対する援助程度しか行わなかったが、今度の作戦は各国との共同作戦であり、失敗する可能性のある要素は出来る限り排除しなければならない。そのため、航行や潜水艦に対してある程度の知識を持った海軍軍人を配置し、より現実的な運用が心掛けられた。
ただし、大戦中の激しい戦闘で潜水艦乗員に多くの犠牲を出していた帝国海軍では、全艇分80名のベテランを揃えるのすら不可能であり、ほとんどの艇はベテラン1名に、新米1~2名のペアで乗り込んだ。そしてその新米と言うのは、大戦によって急速養成された海軍兵学校卒業直後の士官候補生や、心ならずも飛行機を降ろされ特攻兵器や地上勤務に回っていた元予科練兵士などであった。
なお訓練自体はまるゆがドック入りしているので、訓練用として出撃から外された艇や、いち早くドックを出た艇を使用して行われた。
こうして昭和21年5月、慌ただしく改造と乗員の再訓練を終えたまるゆ37隻(1隻は工事が間に合わず置いてきぼりとなり、後解体)は、次々と異界へ向けて出撃した。そして、途中さらに2隻がエンジンや艇体の異常により脱落(後に現地で解体)したが、一月後には作戦予定の湖に全て集結した。
そして昭和21年6月5日、各艇あたり20名、計700名の先遣奇襲部隊を載せてまるゆは出撃した。
敵から発見されぬよう、行動は夜間の闇を利用して行われた。そして、上陸地点手前10km地点において、各艇は敵からの発見を防ぐために、潜航に移った。
この出撃に際して、まるゆには聴音装置や水深探査機が装備されていた。地形把握が不十分な湖の中でも、なんとか上陸地点に達することが出来るように行われた処置である。
バッテリーを強化したとはいえ、まるゆの潜航能力はそこまで高くはない。各艇は速度5ノットの低速で、座礁に気を付けながら、潜望鏡とわずかな観測機器頼りに航行を続けた。
そして、到着予定時刻より15分ほど遅れたものの、終に最初の艇が水道内へと侵入に成功し、浮上した。
浮上した艇からは、武装した兵たちが飛び出し、艇体に括り付けられていた防水コンテナの箱を開け、ゴムボートや折り畳みボート、各種組み立て式の武器を組み立てて上陸に掛かった。
最初の艇浮上から5分間は何事もなく、次々とまゆるが浮上する中、完全奇襲成功かと思われた。しかし、敵からの反撃が始まり、その願いは潰えた。
各艇では37mm舟艇砲、20mm機銃、迫撃砲、さらには艦内に搭載してきた軽機関銃や自動小銃などで敵に対して攻撃を開始した。
そうしてまるゆが援護射撃を行っている間に、奇襲部隊は次々と上陸し、敵の砲台や陣地へと侵入する。完全な破壊ではなく、その使用を止めるために、もっぱらそこにいる兵を射殺したり、砲座に手りゅう弾を突っ込んで爆破したりという戦術であったが、短時間で敵の戦闘能力を奪うこの方法は効果的で、敵の砲座や陣地は次々と沈黙を余儀なくされた。
この間に、まるゆにも徐々に被害が出始める。軽く被弾したのはまだいい方で、艇体にもろに喰らって真っ二つになる不運な艇もあった。
本来であれば、奇襲部隊上陸完了後は乗員も艇を放棄して脱出するはずであったが、ここまで苦楽をともにした艇を捨てるのが忍びない乗員たちは、ギリギリまで粘った。
その奮闘が実ったのか、後続の本隊到着時点でもまだ30隻あまりが健在で、内28隻は後方へ離脱することができた。
作戦自体は大成功であり、奇襲部隊を輸送したまるゆの功績は大であった。一方で、予想を遥かに下回る消耗数であったため、陸軍はまるゆの扱いに困った。
結局、状態の良い1隻のみが保存用として地球へ帰還することが出来た。この1隻は21世紀を迎えた現在も、陸軍船舶司令部(のちに海軍陸戦隊と合併して海兵隊へ改組)があった広島県宇品の港を臨む海浜公園に陸揚げの上で保管されている。
対して残る27隻のほとんどは、現地で解体の運命を辿ることとなった。太平洋における陸軍の兵站を支える目的で、多くの労力と資材を投入して建造されたのに対して、寂しい最後と言えた。
ただしこれには後日談があって、解体された艇から出た鋼材の多くは異世界における地球軍の資材となってその進行を支え、また民政用に払い下げられたものは現地の復興に役立てられた。
また解体とされていた内の1隻は、その後異世界の小国に転売されて、同国の練習潜水艦としてしばらく余生を送ったとされている。
そして、上陸作戦時に沈没した内の艇のほとんどはその後引き揚げられて解体されたが、水流の強い場所に沈んだ1隻だけは断念され、現在も異界の地にその骸を横たえている。
まるゆは故郷である地球の日本と、異界の地で唯一の戦場となった場所で、かつての戦いの日の想いとともに、静かに眠っているのだ。
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