エピソード10:結果、杜の都で縁故採用。③
政宗とユカ以外のメンバーが去った『仙台支局』は、水を打ったような静けさに包まれていた。
時間は20時半になろうとしている。オフィスが並んでいるこの階では、残業をしている人はいるかもしれないが、基本的には店じまいをしている時間だ。日中ならば廊下を歩く人の足音やエレベーターが止まる音が扉の向こうから聞こえるが……今は特に何も聞こえない。
体にまとわりつく気だるさから抜け出せず、ソファに横になっている政宗は、机を挟んだ向こうに座っているユカに視線を移し、言葉を掛ける。
「ケッカも帰っていいんだぞ。俺ももう少し休んだから帰るから」
ユカはスマホをいじりながら、顔をあげずに返答した。
「別にいいやん。明日は休みやし、ここで不安定な政宗を1人にして何かあったら……後味悪かよ」
「あぁそうかよ、じゃあ……」
政宗は寝転がったまま自分のズボンのポケットをまさぐり、財布を取り出した。
「悪いが、下のコンビニで軽食と飲み物を調達してきてくれないか? 小腹がすいたんだ」
言いながら財布を渡そうとするが、ユカはその手を振り払って立ち上がり、足早に扉の向こうへ消えていった。
そして10分後、コンビニ袋を持ったユカが戻ってくる。机上におにぎりやサンドイッチ、お茶等を並べていると……政宗がムクリと起き上がった。
「助かるよ……と、俺が大好きな肉の匂いがするぞ、ケッカ」
「そりゃあ、あたしはファミチキ食べるけんね」
政宗と同じく小腹の空いていたユカも、自分の分の軽食を調達していた。
政宗のために買ってきたものは、梅干しのおむすびにシーチキンサンドイッチ、飲み物は烏龍茶というあっさりした味のものばかりだが、ユカはファミチキにパスタサラダと納豆巻き、コンビニの100円ホットコーヒーという異色の組み合わせ。彼女の周辺には、香ばしいお肉の匂いが漂い始めている。
空腹が刺激された政宗は、弱々しい指で自分を指差した。
「俺の分は?」
「は? あるわけないやん。さっきまで気持ち悪いとか二日酔いの気分とか言ってた人間に、こげん脂っこいものを買ってくるわけがなかろうもん」
冷たい視線で政宗を見やるユカは、そのまま彼の正面に座り、これ見よがしにファミチキの入った袋の上半分を破いた。
一口頬張ると、湯気と肉汁が口内で幸せなハーモニーを奏でる。そんな彼女の様子を恨めしそうに見つめながら、おにぎりの袋を破る政宗。その視線があまりにも、あんまりにも恨めしそうだったので……ユカはため息を付き、半分食べたそれを差し出した。
「……もう1つ買ってくるのは面倒やけん、これでよければ食べる?」
刹那、政宗の目がキラリと輝く。
「いやー、催促したみたいで悪いなー。あ、俺は一口でいいぞ」
「白々しい……」
諦め顔でファミチキを渡したユカは、笑顔で一口頬張る彼を見つめ……ほっと、肩をなでおろした。
彼が、いつも通りの彼にに戻っているから。
「良かった、回復は早いみたいやね」
正直、『因縁』を切った状態でどうなるのか……電話で聖人へ確認したが、「統治君の例もあるし、一般人でも数時間程度なら大丈夫だと思うけど、責任は持てないよ」という返答だったのだ。
「ああ。2人が短時間で終わらせてくれたからな。俺への負担も最低限だったらしい。と、いうわけで現状を把握しておきたい、簡単に報告を受けてもいいか?」
一口かじったファミチキを返却した政宗は、お茶を流し込みつつ……ユカを見据える。
彼女もまた一度頷き、先ほどの顛末を更に説明した。
蓮のこと、桂樹のこと、華のこと、そして……心愛が無事、初めて『痕』の『縁』を『切れた』ことを。
「そうか、心愛ちゃん……良かったな」
「華さんのおかげやね。本当、ここの『親痕』として残って欲しかったなぁ……」
「それに関しては俺も同感だが、本人がそれを望まなかったのだからしょうがない。後は……生きている俺達で何とかするしかないな」
「分かっとるよ」
残ったファミチキを食べ終えたユカは、納豆巻きを手にとった。
袋をピリピリと開けながら……無意識のうちに言葉を紡ぐ。
「来週中に報告書は提出するし、蓮君や桂樹さんの処分は決まっとらんけど……とりあえず、今回のあたしの仕事は終わりかなー……」
自分で言った瞬間に後悔してしまった。まだ、何も決めることが出来ていないのだから。
統治の『因縁』も戻ってきたし、心愛も『縁故』としての第一歩を踏み出した。
今回の主犯である桂樹や蓮の処分は名杙家が決めることなので……ユカが仙台で任された仕事は、一段落したことになる。
現在は出向という扱いなので、ユカの所属は西日本のままだ。もしも、聖人の提案を受け入れてこれからも仙台で過ごす場合は、新たに手続きをしなければならない。
それには勿論政宗や麻里子の一筆も必要になるが、最も尊重されるのはユカの意思だ。
仙台に残るのか、それとも……福岡に戻るのか。
どうしようか……いずれ尋ねられる自分の意思を、ユカはまだ、決められずにいた。
最初はただ、昔からの縁でサクッと手を貸して終わりだと思っていた。確かにココに居た時間は決して長くないけれど……でも、大人になった政宗や統治、これからが楽しみな心愛、人懐っこいくて話しやすい里穂と仁義、良き相談相手にもなってくれる分町ママ、そして、ユカの全てを変えるかもしれない聖人と彩衣、歪んだ正義を内包している蓮と桂樹、未だ肉体が行方知れずの華……短期間で個性が強すぎる面々と出会い、彼らともっと、一緒に過ごしたくなってしまったのも事実だ。
でも、仙台と同じくらい、もしかしたらそれ以上の時間と信頼を重ねてきた福岡の仲間もいる。彼らが待っているあの空の下で、今までどおりの日々を過ごすことも、決して、悪いことではない。
いつもならばすぐに見つかるはずの答えが、見えない。
刹那、政宗が手を止めた。そして、迷ったまま口ごもるユカを見つめ……普段通りの口調で問いかける。
「ケッカは……これから、どうするつもりだ?」
「え?」
「伊達先生からの提案だよ。あの人なら麻里子様にも話を付けられるし、俺も協力出来るならば協力していきたいと思っている。ただ……迷ってるんだろ?」
「それは……まぁ……」
政宗に迷っていることを見透かされたユカは、納豆巻きを半分口に突っ込んで、無理やり口をつぐんだ。
無言で咀嚼するユカに、政宗はあくまでも事務的な口調を心がけて話を進める。
「確かにじっくり考えて欲しいけれど、正直、このままズルズルとケッカを引き止めることは出来ないんだ。だから、現時点である程度の道筋を決めておきたいと思っているんだが……俺達は最終的に、ケッカの判断を尊重するつもりだ。現状維持を望むケッカの気持ちも当然だし、わざわざ慣れない土地で仕事を続けなくても、今までどおり、伊達先生にデータを渡して研究を進めてもらうことも出来るんだから――」
「――まふっ、政宗はげふっ……」
ユカがお米を喉につまらせ、慌ててコーヒーを流し込む。その様子を見つめる政宗は、思わず苦笑いを浮かべてしまった。
「落ち着けー。あと、その食合せはどうかと思うぞ……」
「んぐ……政宗は、どげんしたらいいと思う?」
ユカが仕事以外のこと、自分に関することを他人に聞くのは珍しいことだ。政宗はおにぎりの残りを飲み込みつつ、彼女を見つめる。
「珍しいな、ケッカが俺に意見を求めるなんて」
素直な彼の言葉に、ユカはサンドイッチの残りを飲み込むと……大きなため息をついた。
「いつもなら、スパッと決めてきたっちゃけどね……考えれば考えるほど、訳が分からんくなって……」
自分がどうしたいのか答えが見えない、霧の中をずっと歩き回っている感覚に、全てが混乱してしまう。
一体、どこに向かって歩いて行けばいい?
自分は――どうしたい?
弱気になって肩をすくめるユカに、政宗はお茶を飲み、息をつく。
「俺の意見というか……俺の希望を言ってもいいか?」
「うん、教えて」
希望、と前置きした政宗は、少し躊躇いながらも……ポツポツと言葉を紡いだ。
「俺は……ケッカに、ここに居て欲しいと思ってる。現状を打開できる可能性が出てきたなら、それに賭けて欲しいし、俺は……本当のユカに会いたい」
「政宗……」
あだ名から名前で呼ぶことには、彼なりの気持ちが込められているのだろう。「何だ、ちゃんと呼べるやん」という無粋なツッコミをコーヒーと一緒に飲み込んだユカは、頑張って伝えようとしてくれる彼の声に、もっと、耳を傾ける。
「俺も、統治も……ずっと、ユカのことが気がかりだった。ユカの成長が遅いこと、不安定な『生命縁』を抱えて人並み以上の仕事をしていることに、どうしても罪悪感を感じてしまう。あの時、俺があんなことをしなければ、って……どうしても、考えてしまうんだ」
「……」
それは、後悔するなという方が無理な昔話。政宗の中にずっと残っている棘。
その棘の痛みを忘れないように、政宗は仕事に邁進してきた。
全ては、この時のために。
聖人がユカに興味を持っていることは知っていた。彼がユカを預かりたいと言った時、福岡の『彼女』を納得させられるだけの……ユカが働く上で満足する環境を整えることが、彼の目標だった。
その目標は達成された。さあ、次の段階は――
「だから、ユカの現状を変えられるかもしれないって分かった時は……凄く嬉しかった。もしかしたら、俺が楽になりたいから、ユカの現状を変えることを望んでいるのかもしれないけど……でも、俺は、19歳のユカに会ってみたい。そして、これから一緒に大人になりたいんだ」
本当の君に逢う、それが、彼の最終目標。
それを叶えるためならば、何だってやってみせる。
刹那、ユカがジト目で政宗を見つめる。これはどうしても、言っておかなければならないと思ったから。
「政宗、もうオッサンに片足突っ込んどるやん……」
「そういうこと言うなよ! と、とにかく、俺はそう思ってるんだ! 参考にしろ!!」
そう言ってお茶を飲み干した政宗は……無視できない、自分の頭上で笑いを堪えきれない分町ママにジト目を向けた。
「……分町ママ、浮き聞きとは失礼じゃないですか?」
「あっ、あらー、ゴメンなさいねーウフフフフ……フフッ……!」
既にほろ酔い気分の分町ママは、フラフラと政宗の隣に下りてきて、笑いを噛み殺……せない。
「笑いすぎですよ!? っていうか、統治達と一緒に名杙家に行ったはずですよね!?」
先ほど別れたばかりではないか、と、詰め寄る政宗に、分町ママは笑いながら言い訳を始める。
「だっ、だって、政宗君が、カッコ付けて何言うかと思ったら……違うよ君、そうじゃないでしょー!?」
「放っておいてください!! 今の俺はこれが精一杯なんです!!」
赤面して反論する政宗の意味がわからず、ユカは別に買っておいた紙パックのコーヒー牛乳を飲みながら首を傾げた。
「政宗に分町ママ、話が見えんっちゃけど……どういうこと?」
そんなユカに、分町ママは手をヒラヒラふりながら答えてくれる。
「あのねーケッカちゃん、要するに政宗君はケッカちゃんのこと、大好きなのよ」
「へ?」
「ぶっ、ぶぶぶ分町ママ!?」
刹那、政宗が分町ママに目を見開いた。しかし彼女はいつの間にか取り出したビールジョッキ(半分ほど中身入り)をユカの方へ傾け、ウィンク1つ。
「そして私は、政宗君より好きだって言える自信があるわ。ケッカちゃん、今までの仙台にいなかった貴重なツッコミ担当だもの。そのハキハキした物の言い方、ちっちゃいのに中身がしっかりしてる安心感、おばちゃんの大好物なのよねー」
そう言ってジョッキの中身で喉を潤した分町ママは、やっぱり事態について行けずキョトンとしているユカに、優しい眼差しを向ける。
「ケッカちゃんがイヤじゃなければ、とりあえずこのまま、仙台で頑張ってみてくれないかしら? 私も歳相応の貴女を見てみたいし……何よりも、そんな不安定な状態をいつまでも良しとしてはいけないと思うの。貴女はまだ、『コチラ側』に来ちゃいけないわ」
「分町ママ……」
ユカが分町ママを見つめた瞬間――この部屋の扉が豪快に開いた。そして。
「ケッカさん、帰っちゃダメっすよ!!」
勢いよく部屋に侵入してきた里穂が、そのままユカの隣に座って彼女を真っ直ぐに見据える。
続く意外な来訪者にユカの目は丸くなったままなのだが……里穂は居住まいを正し、素直な思いをユカにぶつけた。
「あ、あの、つい勢いでダメとは言ったのですが……でも、それくらい帰ってほしくないっす! 私、もっとケッカさんとお話やお仕事をご一緒させていただきたいっす!」
「っていうか里穂ちゃん……帰ったんじゃなかったと?」
「帰るつもりでしたが一旦やめました! うち兄から、ケッカさんが今日中に結論を出すかもって聞いて、その……一言モノ申したいと思ったっす!!」
その言葉通り、先ほど退出したメンバーが再び部屋に入ってくる。里穂の後ろに立った仁義が、苦笑いを浮かべてユカに会釈をした。
「里穂が毎度お騒がせしてます……ちなみに僕も、もう少しケッカさんとご一緒させていただければと思っています」
「仁義君まで……どうしてそげん思ってくれると?」
ユカが里穂や仁義と過ごした時間は、決して多いとはいえない。むしろ、一緒に仕事をしてはいないし……雑談程度の交流でここまで引き止められる理由が理解出来ずに尋ねると、仁義が一度里穂と視線を交錯させてから……改めて、ユカを見つめる。
「そうですね、2人して上手く説明出来ないのですが……何というか、ケッカさんと一緒だと、退屈しない気がしまして。あと、統治さんと政宗さんを顎で使えるのはケッカさんだけですから、そのやり取りを見ているだけも面白いんですよ」
ニコニコと笑顔で言ってのけた仁義に、政宗と統治は顔を見合わせて苦笑い。
と、統治の背中に隠れていた心愛も顔を出し、視線を逸らしながら……言葉を紡いだ。
「けっ、ケッカは心愛の指導担当でしょ? まだ何も始まっていないのにいなくなられちゃ……困るんですけど!? そういう無責任なことしないでよね!!」
語気を強めて「フンッ!」とそっぽを向く心愛をたしなめつつ、統治が政宗とユカを交互に見やり、肩をすくめた。
「俺は正直、山本が1人で考えて決めるべきだと思っていた。俺達が余計な事を言えば、いくら山本でも揺らいでしまい、自分で答えを見つけられないと」
「統治……」
「……だがしかし、たまには周囲の意見に流されるのも悪くないんじゃないかと思う。だから言わせてくれ。俺も……」
続く言葉を言いかけた統治がフフッと笑みをこぼす。何事かと構えるユカに、統治イタズラっぽい表情で、至極楽しそうにこう言った。
「俺も……19歳のユカに会ってみたい、かな」
刹那、自分の言葉が分町ママだけでなく全員に聞かれていたことを悟った政宗が、座ったままでガックリ肩を落としたのだった。
政宗は「ユカ」と「ケッカ」を自分の意思で使い分けています。しかしやっぱり、ユカに思いが届くことはなく……分町ママと里穂の楽しいお茶うけになってしまうのでした。