エピソード7:その男、伊達男につき。①
おはよう靴下の衝撃から一夜明けた翌日、水曜日の午前8時55分。
ユカは1人で『仙台支局』を開き、簡単な掃除を終わらせたところだった。
今日の政宗は、朝一番で得意先への営業が入っているため、顧客の元へ直接向かうことになっている。その後、『仙台支局』に戻ってきてからユカと合流し、社用車で移動。途中で統治を拾ってから、例の『伊達先生』のところへ訪問することになっている。
あれだけ好き勝手に飲んでおいて、二日酔いにならない体質なのが羨ましい限りだ。だからこそ、本人も調子に乗ってしまうのかもしれないけど。
「……何だかんだで、楽しかったしね」
思い出すと自然と笑みを浮かべてしまう。分町ママや統治ともゆっくり過ごすことが出来たし、政宗とも帰り道で色々と話すことが出来た。
仙台に来て、止まる間もなく走り続けて……初めて一息つけた、そんな時間。
そして今日からまた、走り続ける日々が始まる。
午前中最初の1時間程度は1人きり。来客の予定も聞いていないので、事務作業を進めながら電話番である。
「さて、と……」
室内のゴミを1つにまとめ、入り口の側に置いたユカは……踵を返して自席に戻り、ノートパソコンを開いて電源ボタンを押した。
パソコンが起動する間に、リモコンでテレビの電源をオンにする。ユカの視線の先にある画面に色がつき、朝の情報番組が映し出された。
いつもと変わらない朝、いつもと変わらない風景。
でも、そろそろ悠長に仙台ライフを満喫している余裕がなくなってきているのも事実だ。統治の『因縁』が消えたことが分かってから1週間、それよりも前に――敵と会った直後に切られているのだとすれば半月以上が経過している。いくら名杙の『因縁』が特殊なものであっても、最初からそれを狙って動いている相手方は、その特殊に対する手段も心得ていることに違いない。
実際、ユカも政宗も、時間を見つけては統治がいなくなった場所を訪れたり、周辺を歩いて何か手がかりはないかと動きまわっていた。でも、その全てが空振りで……そろそろ、心が折れそうになる。
統治も特に体の不調を訴えてはいないものの、『因縁』がない状態で長期間過ごすことに、今後、何の不都合も生じないとは考えにくい。
頼みの綱は、今日会いに行く『伊達先生』なのだが……名杙でも『縁故』でもない彼を頼ってどれほどの収穫があるのか、正直、ユカはあまり期待していなかった。
「……まぁ、行くだけ行って、挨拶くらいしとかんとね……」
芸能人が離婚しそうだ、というニュースを聞き流しつつ……ユカはパソコンを操作して、手始めにメールを開く。
「ん……?」
業務用のアドレスに、登録外、見慣れないアドレスからメールが届いていた。このアドレスは仕事用の特殊なものなので、今まで迷惑メールが届いたことはない。
「誰、これ……」
件名のみ表示が出ており、「山本結果様へ」となっている。しかし、クリックして変なウィルスにでも感染したら1人で対処出来ないし……とりあえず政宗の指示を仰いでからにしようと結論づけたユカは、他にメールが届いていないことを確認して、とりあえず楽しい動画でも見ようかと、インターネットのブラウザを起動した。
刹那、強烈な違和感を感じて、手を止める。
何か……この近くで、良くないモノが無理やり干渉しようとしている、強烈な違和感。
初めて仙台に降り立った時、仙台空港で感じたものに似ていた。でも、あの時よりも感じる、明確な悪意。何かが……強引に干渉しようとしている。
1人きりの室内で、感覚を研ぎ澄ませる。違和感の状態は窓の外、駅の方から感じ取れた。
先ほど、通勤する際に駅を使った時には気が付かなかったのに、今は、嫌な汗が出るくらいはっきり感じ取れる。
「この辺に『縁』を『切る』ような『遺痕』がいるって情報……聞いとらんっちゃけどね……」
ユカは一旦パソコンを閉じて、政宗の机に向かった。そして、彼の机上にある透明のクリアファイルの束を引っ張りだし、広げる。
各クリアファイルの中には、それぞれの『生前調書』が入っていた。近いうちに『縁』を『切る』ことが『許可』された『痕』の情報、その数は7つほど。生前の顔写真から、亡くなった場所、現在確認されている場所等、細かく記載されている。
ファイル越しにそれらを確認しながら……ユカはここで、致命的な事に気がついてしまった。
「っていうか……ここの住所って何!? 仙台市……あ、青葉? いや、仙台市、みや、みやしろ……? ふと、しろ? あぁもう分からん!!」
仙台市は、更に5つに区分けされている。青葉区、太白区、宮城野区、若林区、泉区であり、JR仙台駅の住所は青葉区になるのだが、ホームの一部が宮城野区にかかっていたりするし、若林区とも隣接していたりする。どのみち、土地勘のないユカは、住所を見ただけではどこがどこなのか分からなかった。
違和感は消えない。むしろ、強くなっている気がしてくる。
「どげんしよ……」
首からぶら下げたスマートフォンを握った。政宗に電話をして指示を仰ごうか? でも、既に彼の仕事が始まっている可能性が高い。それに、ユカの階級である『特級縁故』ならば、自分の処理で『遺痕』と判断して『縁』を『切る』ことも可能だった。ただし、後処理が地味に面倒なので、この権限を行使したくはなかったのだが……そうも言っていられない現状。
「……行くしかなかね」
帽子をかぶり直したユカは、政宗に短くLINEでメッセージだけ送信してから、『仙台支局』を後にした。
仙台駅東口は、現在、再開発が進められている場所が多い。
ホテルや商業施設の建設だけでなく、道路や線路の拡張工事や整備もいたるところで行われていた。
そんな、一角。上を新幹線が通る、古い高架橋の下。
この橋も改修工事が行われており、橋の周囲に足場が組まれ、その影響で車線も少なくなっている。
車がひっきりなしに行き交い、信号が赤になれば渋滞が出来る、常に交通量の多い道路の脇にある歩道で……『彼』はぼんやり、通り過ぎていく車を眺めていた。
高架橋の下まで、太陽の光は届かない。ひんやりと肌寒い抜け道で佇む『彼』を見つけたユカは、静かに近づいていく。
年齢は、高校を卒業したくらいだろうか。若者向けブランドの黒いジャージで全身を包み、耳で揺れるリングのピアスが、金髪の隙間から見える。
先ほど感じた違和感は、『彼』が発したものだったのだろうか? 確かに彼がまとう空気は禍々しく、『遺痕』として処理しても問題ないレベルだとは思う、けれど……何かが足りない気もしてしまう。とりあえず瞬きで見方を切り替えて、繋がっている『縁』の本数を確認した。1本、これなら、すぐに終わらせられる……そう判断したユカは、更に距離を縮める。
『彼』が、ユカに気づいた。
「……あ? 何だ、ガキかよ」
鋭い目で睨みつける彼は――口元に醜悪な笑みを浮かべ、ユカの方を向いた。
車の走行音が反射する橋の下で、5メートルほど距離をあけて向かい合う。
この瞬間、2人の間に『関係縁』が成立した。普段のユカならば相手の名前を呼び、自分のペースで物事を進めていくのだが……今回は相手の名前も、素性も、何も分からないため、どうしても慎重になってしまう。
「そこのガキ、俺が見えるんだよな?」
「見えとるけど……それが、なんね」
「見えとる……?」
ユカの言葉を聞いた『彼』は、一瞬、眉をひそめた。
しかし、何かに納得した様子で……口元に笑みを戻し、右手を顔の横に持ち上げる。
「ああ、もしかして――お前なの?」
『彼』がパチンと右手の指を鳴らした。それは、自分のテリトリーに囮が入ってきたことを知らせる合図。
次の瞬間、ユカの背後にもう1人、別の『痕』が姿を現した。そして、ユカの被った帽子を剥ぎ取ろうと手を伸ばす!
「なっ!?」
咄嗟に身をひねったユカは、高架橋を背にして体勢を整えた。次の瞬間、別の『痕』が伸ばした手が空を切り、風となってユカの目の前をすり抜けていく。
背中を、嫌な汗が流れる感覚。
ユカは視界にもう1人、髪の長い女性の『痕』を確認する。
紺色のセーラー服を着ている彼女は、長い前髪の隙間から、ユカを真っ直ぐに見据えていた。その瞳は混濁して、深い闇を感じ取れる。
これぞ分かりやすい『遺痕』のサンプルとして心愛にも見せたいけれど、彼女が見ると卒倒しそうな風貌だ。
「『遺痕』が2人同時……厄介やね」
恐らく、ユカが感じた違和感は、『彼女』が発していたものだろう。要するに、この場で一番厄介なのは最も強い恨みを抱いている『遺痕』である『彼女』だ。
そして、問題は……『彼女』がここまで近づいているのに、ユカが気がつけなかったこと。
「いつの間に……」
「気が付かなかったのか? 聞いたほど、大したガキじゃねぇな」
『彼』がニヤニヤした表情で、ユカを見つめる。
「聞いたほど……?」
目の前は車が行き交う道路、後ろは壁、左右は2人に塞がれているため逃げ場がない。どうしたものかと思案しつつ……ユカは、先ほど引っかかった『彼』の言葉の真意を問いかけた。
「さっきの言葉はどういうこと? 誰に何を聞いたっていうと?」
余裕のないユカに気を良くした『彼』は、自分の頭を指さして饒舌に答えてくれる。
「俺達が見える、帽子をかぶった九州弁のガキの持ってる薄汚ねぇ命綱はボロボロだから、それを隠してるっつー帽子さえ奪っちまえば、俺達が生き返れるって話だよ。そうなんだろ?」
「命綱……」
無意識のうちに、帽子のつばを触っていた。
帽子はユカの頭にある。これさえ被っていれば彼らにユカの『生命縁』は見えないし、干渉することも出来ない。
ただ、これがなくなったら……考えるだけで嫌な気分になった。
彼らの肉体は既にないため、直接、ユカに触ることは出来ない。しかし、先ほどのように攻撃的な風を起こされて、帽子が飛んでしまうかもしれない。相手が自分に触れないことを絶対的なアドバンテージだと思わない方がいい。
何が起こるか、分からないのだから。
ユカが言い返さないことを肯定だととらえた『彼』が、ユカの帽子を指さして、嘲笑う。
「それを奪っちまえば、俺達も生き返れるんだろう? 随分簡単なゲームだぜ」
『それ』とは恐らくユカの『生命縁』のことだろう。でも、そんな情報、どこから……?
そもそも、『縁』が見えるのはしょうがないにしても、その『縁』がどういう役割なのかを見分けられる『痕』は、生前『縁故』だったという特殊な事情がないかぎり現れない。もしくは、誰かが懇切丁寧な入れ知恵をしていれば、ユカの『生命縁』は非常に分かりやすいので、すぐにバレてしまうだろう。それを隠してる帽子の情報まで添えているあたり、その情報を流した人物に悪意しか感じられない。
情報源に心当たりがないわけでもないが、さすがに、そこまで教えてもらえるとは思っていない。とりあえずはこの窮地を脱するのが先決だ。まずは、厄介な『彼女』から――
「え……!?」
そう思ったユカは、自分の視線の先に、『彼女』がいないことに気がついた。
いつからいなかった? どうして、気付かなかった?
どうして――見失った?
冷や汗が流れる。
普段よりも大きな動きで首を動かし、周囲を確認した。
いない。
どうして――消えた?
刹那、高架橋の高さスレスレの大型トラックが猛スピードで駆け抜けていった。
突如吹き抜けた突風が、ユカの頭から帽子を奪い取ってしまう。
普段なら風が吹いても飛ばないように片手で抑えるし、今だってヘアピンである程度固定していたのだが……動揺したユカに為す術はなく、髪の毛が、久しぶりに風に巻き上げられた。
「やばっ……!?」
数メートル先の歩道に落ちたそれを拾おうとユカが左を向くと……真顔でユカの頭上に手を伸ばす『彼女』と、目があった。
「――っ!?」
冷や汗が、流れる。
――『縁』が、『切れる』。
仙台市は、5つの区に分かれています。
中心部から青葉城址、郊外の作並温泉までカバーしている広大な青葉区、同じく中心部から楽天の本拠地であるコボスタ、その先にあるアウトレットやうみの杜水族館を要する宮城野区、同じく中心部から沿岸の方へ広がる若林区、地下鉄が伸びているベッドタウンからスキー場まである泉区、絶賛開発中の長町から秋保温泉まで幅広い太白区、という5つです。
とにかく、面積的には青葉区が広い。まさか山形県の県境まで青葉区が続いているとは思いませんでしたよ……。
JR仙台駅は3つの区の境目となっている場所なので、ユカが住所だけ見て「ここはこの辺だ」と分かるようになるまでは、少し時間がかかりそうですね……頑張れ。