エピソード4:乗り越えられない過去、残されたのは理不尽な『ケッカ』。③
4人が移動して次に訪れたのは、先の災害で全てが流された土地だった。
元々は田んぼが多く、家が点在していた地域だったらしい。だからこそ、何の障害もなく水は侵入し、予想以上の被害をもたらしてしまった。
だだっぴろく、ただ、遠くまで見渡せる見通しの良い場所になってしまっているが、現在は道路の嵩上げや宅地整備が行われており、問題の場所へは工事関係者しか近づくことが出来ない。政宗が事情を説明し、工事車両の出入口に立っていた警備員が、進入禁止のコーンを脇に移動させた。
海は見えない。見えるのは重機と土の山。磯の香りもなく、舞い上がる砂煙でたまにむせそうになる。
砂利道を進むこと数分、建物の基礎が残っている場所に突き当たる。
ここにはかつて、公民館が建っていたらしい。もしもの際の避難場所にも指定されていたらしいが、水に押し流され、避難場所としては全く役に立たなかった。
基礎の手前で車を停めた政宗は、後部座席から神妙な面持ちで降りてきた心愛に、心配そうな口調で声をかけた。
「心愛ちゃん、本当に大丈夫? ケッカはあんなことを言っているけど、君が無理なら俺が説得して……」
彼の言葉に、心愛は竹刀袋を握りしめ、何度も首を横に振った。
「……大丈夫です! 心愛は、1人でも出来る……名杙家に生まれたんだから!!」
まるで自分に言い聞かせるように言葉を叫ぶと、そのまま、現場と思われる場所へ向けて歩き始めた。
そんな心愛に続いて車から降りてきた華蓮が、呼吸を整えながら、政宗に懇願するようにすがりつく。
「あ、あの、佐藤さん、名杙さんをあのままにして本当に大丈夫なんですか? どう見ても無理をしているし……」
2人の隣を、ユカが無言ですり抜けていった。
心愛の後を追うユカの背中を見つめながら……政宗は、本日何度目なのか分からないため息をついて。
「まぁ、人としてはここで止めるのがいいんだろうけど、心愛ちゃんも名杙家の娘だ。今までに何の『縁』も切ったことがないっていう現状は、本人としても何か思うことがあるんだろう。本当に無理だと思ったら、俺が力づくで止めるよ。ただ……」
ただ、そう言って言葉を濁す政宗には、ユカが何を考えているか分からない不安があった。
今までのユカならば、事前に方針を相談してくれていたはずだ。確かに、『仙台支局』に呼んでからというものの、ユカの自発的な行動に助けられたり、叱咤激励されたりしてきた。でもそれは、2人の間に共通認識があったから受け入れることが出来たのだ。今のユカの行動は、政宗が全く与り知らない範囲になっている。彼女がどんなつもりで心愛にこんなことをさせようとしているのか、彼には全く分からないし。
「……あんな言い方をされるとは、思っていなかったな」
ポツリと呟いた独白は、周囲を走り回るトラックの音と、砂利を持ち上げる重機の音でかき消される。
聞き取れなかった華蓮が政宗に尋ねるより早く、彼が華蓮を促し、先に行った2人の後を追いかけた。
既に『縁』や『痕』が見える状態になっている心愛とユカの前には、初老の男性が1人、かつて建物があった方を見つめたまま――2人に横顔を向けた状態で――立ち尽くしていた。
心愛は震える手で竹刀袋から竹刀を取り出しながら、『彼』に残っている『縁』の本数を確認する。
背中を丸め、どこか遠くを見つめている『彼』の左手、小指から伸びている『関係縁』は1本。このまま近づいて、無言で竹刀を振るえば切れてしまうような、そんな儚いものだ。
そんな、細い細い繋がりのみでこの場にいる『彼』の胸中など、今の心愛に尋ねる余裕はない。
切るんだ、目の前に漂う一本の『縁』を。
ただ、それだけでいい。
お願い、こちらを向かないで。目があったら、きっと、決意が揺らいでしまうから。
刹那――『彼』が首を動かし、心愛に視線を向けた。
心愛の体が、固まる。
「……潮時か」
かすれた声が、ため息混じりに呟いた。
心愛は両手で竹刀を握りしめ、『彼』から視線をそらす。呼吸が荒くなっている自分の弱さに、泣きそうなくらい苛立っていた。
「やらなきゃ、心愛が……心愛が、やらなきゃ……!」
「ほう……お嬢さんが儂に引導を渡してくれる死神さんかい?」
「しっ、死神じゃないもん! 心愛は『縁故』だもん!!」
「『縁故』? 難しいことはよく分からないが……お嬢さんは何の権利があって、儂を消そうとするのかね?」
「け、権利……?」
物理的に優位なのは心愛だけれど、精神的に優位なのは『彼』の方だ。無意識のうちに後ずさりした心愛へ、『彼』は年季の入った鋭い視線を向けたまま、言葉を続ける。
「確かに儂は死んでおる。先の災害で、避難場所だった公民館もろとも流されたんだよ。しかしまぁ……難しいことはよく分からないが、儂の意識はまだ、この世界に留まっている。これは、理不尽な死を迎えた儂に与えられた、生きる権利じゃないのかね?」
「え? 生きる? え……?」
混乱した心愛に、『彼』は畳み掛けるように言葉を続ける。
「お嬢さんの年齢ならば覚えておるじゃろう? 先の災害は……この周辺に存在したものを皆流してしまった。直後には、儂のような存在も多くいたものだが……いつの間にか、儂だけになってしまった。今でも思う、あの時別の場所へ逃げていれば、反対の中学校へ逃げていれば、と。逃げたはずの場所で流された時の恐怖と絶望感は……忘れたくて忘れられることじゃない。儂はただ、そっとしておいて欲しいだけなんじゃよ」
津波が来る、ラジオやテレビ、防災無線が避難を呼びかけた。
だから、避難場所に逃げただけだ。
ここは安全だから、行政が指定したはず。本当は避難なんて大げさで家に留まるつもりだったけれど、念のため、避難訓練だと思って逃げてみただけだった。ここにいれば大丈夫、早く警報が解除されればいいのに……見知った顔同士で喋っていた時、誰かが絶望的な声で駆け込んできた。
――逃げろ!! この場所はもう駄目だ!!
次の瞬間、その誰かがいた場所に車が突き刺さる。間髪入れず黒い水が押し寄せ、瓦礫が押し寄せ、そして……全てが、壊れた。
「しかし、この場所を面白がって見学にくる連中も多い。儂は……そんな下賎な奴らから、この場所を守らなければならない。それが、儂に残された役割だと思っておる」
「役割……で、でも……!!」
「いずれ、儂は消えてしまうだろうが、他人であるお嬢さんにそのタイミングを決められたくはないんだ。老人のワガママだとは思うが、それくらいならば許されても構わないのではないかな? 現に、儂がここにいることで、誰も困ることはないだろうし」
「それ、は……でも、ダメなの! おじいちゃんの『縁』を切ることが心愛の役割で……!!」
「なにがダメなのか、儂にはさっぱり分からないな。もっと具体的に説明してくれ」
「具体的、に……? えぇっと、それは……」
すっかり狼狽えている心愛にユカは大きなため息をついてから、彼女の隣に並び、『彼』を睨みつけた。
「ハイハイそこまで。心愛ちゃん、相手に話を合わせんでよか。あと……相手の名前を呼ばんねって言ったやろ? さて、早坂雄吉さん、いくら年長者でもそういうワガママは許されんとよー」
『彼』がユカを見つめ、目を細める。体こそ小さいが、心愛と違って言動に余裕が感じられるユカに、どんな言い訳をして困らせてやろうかと思案していると……ユカは再度、大きなため息をつくと、胸の前で腕を組み、諭すように言葉を続ける。
「しかし……避難所指定された場所が流されるげな、災難やったとしか言いようがなかね」
「まさかお嬢さん、その一言で儂の死を片付けるつもりかな?」
「残念だけど、そうとしか言いようがなかとよ。今のおじいちゃんは死んどると。生きる権利なんてものがあったとしても、とっくに剥奪されとる状態なんよ。おじいちゃんの今の状態は極めて不自然で、不合理。しかも、ここに長く居着いたことで……周辺の土地までマイナスの影響が広がろうとしとる。『遺痕』と呼ぶには少し弱いけど……でも、放っておくと危ないっちゃんね」
そこまで言って息をついてから、ユカは腕をほどき、言葉を続けた。
「あたし達はそんな不自然を自然に戻す役割を担っとる。だから、不自然なおじいちゃんを消す権利がある、と……これで納得してもらえる?」
ユカの言葉を受けた『彼』は、2人から視線を逸らして軽く目を閉じてから……ゆっくり開いて、長いため息をひとつ。
「……小さいお嬢さんは、それで、儂が、納得すると思っておるのかな?」
どこか遠くを見つめて呟いた『彼』の言葉に、ユカは笑顔で首を横に振った。
「いいやちっとも。だから、消えてもらう。もう、4年も経過しとるんやから、いい加減、踏ん切りをつけてもらわんと困るっちゃんね。だから、おじいちゃんの希望とか一切関係なく、消えてもらうけん」
そう言ったユカは、自分の隣で呼吸を整える心愛を横目で見ると、改めて確認する。
「んで、心愛ちゃん……やれるの? それとも、あたし?」
ユカの言葉を受けた心愛は、唇を噛み締め、首を大きく横にふった。
「や……やる!! 心愛が、やるっ……!!」
口を大きく開いて息を吐いた心愛は、両手で握りしめていた竹刀を正面に構える。
竹刀の向こうに、『彼』の横顔と、空間に漂う細い『縁』が見えた。
そうだ、自分はやれる。
これを切れば――終わる。
ただ、上から下へ竹刀を振り下ろせばいいんだから。誰も邪魔なんて出来ない、雄吉に心愛の名前を告げた時から、彼を支配しているのは心愛のはずだ。だから、大丈夫、以前のような『ケッカ』にはならない。
振りおろせばいい、ただ、それだけのことなのに。
体が、硬直する。
心がキュッと、縮み上がる。
――締め付けられた時の苦しさ、絶望感……全て、忘れられるはずもないのに。
「あ……あぁっ……!!」
心愛はその場から一歩も前に進むことが出来ず、ただ、震える両足で倒れないように体を支え、震える両手で取り落とさないように竹刀を握りしめることしか出来なかった。
水分が一滴、彼女の頬を伝う。それが汗なのか涙なのか……ユカはあえて確認しないまま、心愛よりも前に踏み出して、『彼』に近づいた。
そして、つきだした左手の人差し指と中指で彼の『関係縁』を挟むと、ため息1つ。
「心愛ちゃん、やっぱり、今の君には無理やね。いい加減……才能以前の問題を何とかすべきだってことに気づいて欲しいかな」
「心愛は……心愛は……っ!!」
「心愛ちゃんの過去に何があったのか、申し訳ないけど統治からある程度のことは聞いとる。あんな経験をしたっちゃけんが、『痕』に恐怖心を抱くのは当然だと思うけど……『縁故』になりたいと思うんやったら、まずは、その恐怖心を自分で克服してからにせんね。でないと、心愛ちゃん自身が可哀想だよ」
それは先日、ユカが統治から聞いた、心愛の過去に関する重要なエピソード。
統治はノートパソコンをパタンと閉じてから、一口コーヒーを飲んで……ポツポツと語り始める。
「俺も実は、しばらくしてから両親や周囲から聞いた話なんだ。心愛が『痕』を怖がることになった事件が発生したのは、俺が、西日本で研修を受けている間で……あの研修が終わってから、しばらくは……その、俺自身も『縁故』として生きていけるのか、自問自答を繰り返していたから、心愛の変化に気付くのが遅くなってしまった」
「なるほど……まぁ、しょうがなかね。んで、心愛ちゃんに何があったと?」
「俺があの研修に行っている間の話だから、もう、10年前の話になるんだな。心愛が幼稚園に通っていた夏に、幼稚園でのお泊り会があった。心愛の潜在的な能力は随一で、俺より上だと思っている。だから当時から『痕』が見えていたらしいんだが、名杙の後ろ盾もあり、本人も……見分けがついていなかったからなのかもしれないが、怖がらずに愛嬌を振りまいたことで、心愛に好意的な『痕』ばかりだったんだ」
「ふぅん……」
「そのお泊り会の夜、幼稚園から実家に電話がかかってきたそうだ。心愛が痙攣を起こして意識が戻らないから、病院へ連れて行く、と」
「意識が戻らない……?」
「父さんと母さんはすぐに病院へ駆けつけて、絶句したそうだ。凶悪な『遺痕』が、心愛の『生命縁』に絡みついて切ろうとしていたらしい。『絶縁体』は幼稚園の名札に縫い付けていたそうだが、パジャマに着替えてしまって身につけていなかったんだそうだ。その場ですぐに父さんが『縁切り』を行って、心愛は回復したんだが……しばらくは、両親以外の人間を全員怖がっていた。そして結局、幼稚園には通えないまま、小学生になったんだ」
「……なるほど」
「幼稚園は行かなくても大きな問題はないが、さすがに小学校は通わせなければいけない。両親は心愛に、『人間』と『痕』についてはっきりと説明をした。心愛を襲ったのは『痕』というお化けであり、心愛自身が自分の身を守っていかなければならないこと。まずは、名札に縫い付けた『絶縁体』を、絶対に手放さないこと。そして……いずれは『縁故』として、俺と2人で名杙家の名前を背負って生きて欲しいことを」
「……」
心愛の生い立ちを、ユカは複雑な思いで聞いていた。
助からなかった自分と、助かった心愛。
そんな2人が今、何の因果なのか出会い、心愛はユカに(嫌々ながらも)師事している。
あの時――ユカの『生命縁』が傷ついていることを知った心愛は、『もしかしたらこうなっていたかもしれない未来の自分』を見せつけられ、更に恐怖を覚えたのではないだろうか。
それでも……彼女は、逃げずに『縁故』として生きることを望んでいる。
自分の心に鞭打って、崩れ落ちないように歯を食いしばって。
統治は薄目で天井を見上げると、肩をすくめてため息を付いた。
「『絶縁体』さえ持っていれば、『縁』を狙われることはない。ただ、『痕』が見えなくなるわけじゃないから、心愛は小学生になると同時に、自分の能力をコントロールする修行を始めた。元々才能はあるから、滞り無く基礎的な修行は終了したんだが……心愛自身が『痕』に抱いた恐怖心を拭い去れないでいた。ただ、俺は、心愛が無理をしてまで早急に『縁故』になる必要はないと考えていたんだ。俺も腹をくくって、『縁故』として、名杙家の時期当主として生きていくことを決め、しばらくは俺が最前線に立てばいいから、心愛は自分の気持ちが固まってから、『縁故』の修行を始めればいい……そう思っていた。だから、今回、心愛の中で何か整理がついたから、修行を始めるなんて言い出したのかと思ったんだが……多分、違うだろうな」
「やろうね。多分、心愛ちゃん……統治がいなくなったことで、自分に余計なプレッシャーをかけちゃってるんだと思う。名杙家の中にも、心愛ちゃんにプレッシャーをかけるような連中がおると?」
「俺に心当たりはないが……今回、俺が一時的にいなくなったことで、そういう声が高まったのかもしれない。そう考えると……全部、俺のせいなんだろうな」
自嘲気味にそう呟いた統治は、冷めたコーヒーに口をつけて、苦笑いを浮かべた。
――そして、今。
『彼』の『関係縁』を指の間に挟んでいるユカは、海の方を見つめ続けている彼の背中に、言葉を投げた。
「さて、おじいちゃん……そろそろ引導を渡そうと思うんやけど、最期に何か、言っておきたいことはある?」
『彼』は振り向かず、ただ、ボソリと吐き捨てる。
「そうじゃな……あのお嬢さんに伝えてくれ。君は悪くない、信じてここに留まった儂の責任だった、とな」
「あのお嬢さん?」
心愛のことだろうか? でも、信じてここに留まったとは、どういう意味なのか。
言葉の真意が掴めないユカが尋ねるが、『彼』はそれ以上言葉を続けず、海の方を見つめ続ける。
……まぁ、いいか。これ以上は深く考えずに、ユカは左手に作ったピースサインの指同士をピタリと合わせて――『縁』を、『切った』。
「さて、今日はよく働いたなー。ケッカちゃん大活躍!」
『彼』の気配が消えたことを確認したユカは、わざと明るい声を出して、その場で背伸びをした。
そして、肩越しに後ろを見やると……両手で竹刀を握りしめたまま、悔しそうな表情で立ち尽くす心愛と目が合う。
刹那、心愛が顔を逸らした。まだ、両肩が小刻みに震えているのが分かる。ヤレヤレ、そんな状態でもここから逃げないなんて、どれだけ強情な娘さんなんだと嘆息しつつ、回れ右をしたユカが心愛に声をかけようとした、次の瞬間。
「……片倉さん!?」
2人の少し後方から、政宗の慌てた声が響いて。
彼の声に導かれて、心愛の先にいる華蓮を見つめたユカは……彼女が泣きながら、自分をしっかり睨んでいることの理由が分からず、首を傾げるしかなかった。
避難していた避難所ごと流された……ということに関しては、実際に似たようなことがあったなぁという私の印象から(石巻の大川小学校が津波に襲われた、など)生まれたエピソードです。
大川小学校の問題は今でも解決していませんし、まだ行方不明の方も多くいらっしゃいます。事の詳細は「大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻」(http://memory.ever.jp/tsunami/higeki_okawa.html)等をご覧ください。
私自身は津波に流されたわけでも、子どもや家族、知人を亡くしたわけではありませんが……バイト先の近くに体育館があり、いざというときの避難所という看板も立っていたのですが、そこが見事に津波に沈んだので、あそこに逃げなくて良かったなぁと感じました。おそらくそこに逃げた方はいなかったのではないかと思いますが……でも、信頼していた避難所が流されるなんて、そこにいた人にとってはどれだけ絶望的なことなのか、彼を通じて私が想像したことを書かせてもらいました。