百害あって
私はいっつもガムを噛んでいる人が嫌い。特に口臭対策のメンソールの強いガムを噛んでいる人。歩きながらくちゃくちゃくちゃくちゃ、弁当食べた後にくちゃくちゃくちゃくちゃ、それで口内環境清浄化してるつもりかよ、全然きれいになってねぇよ、むしろ歯に挟まった肉片が無味無臭の変な物質になってとどまるだけなんだよ。そんなに口臭気にするんなら歯磨きしろよ。お母さんと一緒じゃねぇできねぇのかよ。あのクチャラーまじで嫌い。私マヨラーだけど。でもなんで嫌いかっていう一番の理由はあのメンソールの匂いよね。私はあれで嫌な記憶があるから。
私は今バス停にいる。実家から一番近いバス停には一時間に一本程度しかバスは来ない。大学の入学式にいきなり遅刻するのは嫌だから、絶対に遅れないように三十分も余裕を持ってやってきたら、するわするわメンソールの匂いが。歩道ぎりっぎりのバス停には、雨宿りもできるようにとの配慮から作られたであろう、木製の屋根とどっかから拝借してきたような青いプラスチックのベンチがあった。そのベンチのど真ん中の前に、灰皿が鎮座している。
「……ふぅ」
ベンチの風上側、私の右側に座った男が、メンソールが濃く香る煙草を吸っていやがった。しかも私の座っている場所は風下。両サイドは柱だけで風を防いでくれるだけの壁にはなってくれない。風が、私の方へとメンソールの爽やか~な香り付の副流煙を届けてくれているようだ。
―――不快―――
ただでさえメンソールが嫌いだっつってんのに、その挙句副流煙まで追加オプションしてくれてやがる。オプションが重すぎるわ。やめろよ、私肺がんになるわ。ただでさえ癌家庭で一生煙草は吸わないって決めてんのにその倍以上の発癌性物質を私に届けてんじゃねぇよ。折角のおニューのスーツまでヤニ臭くなったらどうしてくれんだよ。あ、それプラスメンソールの匂いも付くから……新品買わせる気かこの野郎!
「あのぉ~、すいません~」
私はいい加減しびれを切らしたわ。親友を殺されて激怒する斉天大聖と同名の人ぐらいには怒っているけれど、私はもう大学生、十八歳、世間的にはもう立派な大人よ。ここはブチ切れたりしないで、大人な対応をして見せるわ。
「他の人のご迷惑になるのでお煙草を吸うのをやめていただきたいんですけど~」
「やだ」
即答かよ。ってか子供か、この男。立派な大人だろうが。他人の迷惑を考えろよ。
「で、ですが匂いとか副流煙とかが私の方に来てるんですけどぉ」
「じゃ、場所変わる?」
私はそんな解決策を求めてんじゃねぇよ! なんだよその解決策言っとけば許してくれるみたいなゆとり世代的考え方ぁあ! こいつ、絶対謝らせてやる。
「あのぉ、私はあなたの吸う煙草ですぅっごい不快な思いをしてしまったんですよぉ、ですからぁ……」
謝罪を要求する!
「そ、じゃあお詫びに一本どう?」
そう言って男は上着の内ポケットから煙草の箱を取り出して私に向けた。
「いや、吸いません」
「すいません? なに謝ってんの?」
「テメェ! 何微妙な言葉遊びしてくれてんだコラぁああああああああ!」
私は大人であることを止めた。だって未成年だもん、まだ子供だもん。
「お前はマナーがなってなさすぎなんだよ! 一人で煙草吸うのは勝手だけど、ついさっきここに見目麗しい華の女子大生が来たのよ! 普通は煙草消すなり気を使って風下に移るなりするのがマナーでしょうが!」
「自分で見目麗しいとか言うなよ、恥ずかしい」
「上げ足を取るな!」
男は私が怒っているのに笑いもせずに、無表情のまんまで煙草の火を燻らしている。なんか冷静沈着っぽい感じがして余計にむかつく。
「っていうかあなたは小学校の総合学習の時間で習わなかったんですか? 煙草は百害あって一利なし、って。その上他人にまで迷惑かけるんですよ?」
男は根元のあたりまで灰になっている、吸っていた煙草を左手で摘まんで、灰皿に押し付けた。じゅっ、と火が消える音が私たちの間に割って入った。
「あるさ……百害あっても一利くらいは」
「はぁ? 例えば何よ?」
「モテる、とか……」
お前は、中学生か!! なんていうツッコミが喉のすぐそこまで出かかった。寸前でそれが止まったのは、濁りのないクリアな息を吐き出している、豊齢線を刻んだ明らかに年上然した男の横顔が、煙草の煙みたいに頼りなく消えて行ってしまいそうなくらいに、哀しい儚く侘しげな表情に見えたからだろうか。
男の顔に見惚れていると、遠くからバスのエンジン音が聞こえた。
「来たぞ、バス」
男は新しい煙草を咥えて、また火をつけようとしていた。
「言われなくても分かってます」
シューッ、と大げさな停止音がして、ドアが開く。私が乗り込んで座席についても男が乗車する気配はなかった。ドアが閉まり、また大きな音を鳴らして、バスは出発した。進むとすぐに緩やかなカーブに掛かった。私は窓越しに一瞬バス停の方を覗いた。黒い排気ガスの中に、紫煙が細々と混ざり、二つまとめて透明な空気の中に溶けて消えて行った。
翌日、私は家を出る際に、今日もあの男がいるのかしら、と婦人風の口調で思った。いや、まさかいる訳ないだろうと軽くタカをくくっていると、まぁ、大体はいるもんですよね。そう、いた。昨日と相変わらず、男は黒いコートとジーンズ姿で、ベンチに深く座って迷惑紫煙をまき散らしていた。ちなみに今日も私のいるほうが風下だ。
「あんた、暇人?」
「そうでもない。自称見目麗しい女子大生さんが乗るであろうバスの、次の次のバスに乗って出かけなくちゃいけない」
今の時間が大体八時半で、バスが十分後の八時四十分くらいに来る。それから二便後ということは、大体十一時前にここを出発する計算になる。
「後二時間以上もわざわざここで待つ訳?」
「そうなるな」
「まだまだ寒いってのにこんな吹きっさらしの場所にいるなんてバッカみたい」
私は、今日はベンチに座らないで風上の柱の前に立った。一台の車がこちらの車線を通った。道すれすれにあるためにサイドミラーが当たりそうになる。
「はぁ、あんたがここで煙草吸って待つせいで、当たるすれすれの場所で待つはめになってるんですけど?」
「じゃあ俺が向こうに座ればいいか?」
「いいです、結構です。まず根本的にあなたが自分の自宅なりコンビニの前なりで煙草を吸ってくれない限り、結局私はここであなたの煙草の匂いに苦しむことになるので何の解決にも至りませんから」
「じゃあ、自称見目麗しい女子大生さんがここで待たないように来ればいいのに」
「嫌です。あなたのためにわざわざ自分の時間を調整したくはありません。それなら時間に余裕のあるあなたが私に気を使ってご自宅ででも待機していてくださいよ。そうすればお煙草、吸い放題ですよ?」
「嫌だ」
「なんでよ!」
「いいだろ、どこで吸おうが俺の勝手だ。自称見目麗しい女子大生さん?」
「その呼び方止めろよ、恥ずかしくなるだろ。私には米津麻世って名前があるんですー。煙草臭男さん」
「残念。おしいな俺は田箱久寿雄だ」
「お前の親どんなネーミングセンスしてんだよ! 全然残念じゃねーし!」
「米津。お前口悪いなぁ」
「うるさいです。はぁ……。で、話し戻しますけど、ここで何時間も時間つぶすのは勝手ですけど、せめて煙草を吸うのは止めてくださいよ、私が来た時ぐらい」
「嫌だね。俺はここで煙草を吸うんだ。吸って、待ってたいんだよ」
ダメだこりゃ。暖簾に腕押し、糠に釘。もうどう言っても聞き入れそうにないよ、この男。
「妙に拘るんですね、「ここ」と「煙草」と」
「まぁな。ほら、バス来たぞ」
田箱の言うとおりバスが近づいて来た。やっと離れられると、私は少し喜んだ。バスに乗り、再びカーブに差し掛かったとき、昨日と同様にまたバス停を覗いた。相変わらずそこに居座っている田箱の吐き出す紫煙を見て、私は明日から時間ぎりぎりに出てやろう、と誓ったのだった。
次の日から、私は誓いの通りに、バスの到着ぎりぎりにバス停へ着くよう、時間を調整した。だから彼と顔を合わせることはあっても、向こうが「よう」と声を掛けてそれに答えるように会釈を返すぐらいのやり取りだけになった。おかげであのメンソール臭にやられる時間がほぼほぼ無くなった。やったね、麻世ちゃん。ただ、そんな日が一日、一日と過ぎていくほどに、なんとなく、これまでやりとりをしてきた人と急に疎遠になっていく寂しさを胸の内にじんわりと感じていた。寂しいけれど、でもメンソールの匂いを嗅ぐのはごめんだから、まぁ、仕方ないかな。
そんなことを思いながら一か月が過ぎた。ゴールデンウィークも明けてくると、人はだれる。人はだれるとつい余裕ぶってしまう。かくいう私も、もう大学の授業なんて出ても出なくても大差ないよ、大丈夫、さぼってもよし、さぼっても許される、さぼることも大事なんだ、アハハハハハハハハハハ。なんて思って、いざ絶対に休めない一限目の授業がある日に限って、間に合うだろうと朝ゆっくりめに起きて、のんびり準備をして、朝ご飯を食べるの面倒臭いからコンビニで買って行っちゃえ、とコンビニに立ち寄り、件のバス停にやってくるといやはや、ぎりっぎりでバスに間に合わなかった。バス停とバスの後姿が見えて、やばい、急がないと間に合わないゾ、と今更焦って走ってみても、私がバスの後ろに着くくらいにプーっ、と発射音を鳴らして排気ガスを吹き付けながら出ていきやがった。
ごほ、ごほ、と排気ガスをもろに浴びて私は急き込んでしまった。
「あーあ、残念。乗り遅れてやんの」
田箱は白い煙をすーっ、と吐き出しながら私に追い打ちを仕掛けやがった。人がせっかくちょっとさびしくなったな、なんて思ってやっていたのに、むかつく野郎だ。
「いいんです、いいんです、いいんです! 別に授業なんていつでも休めますしー、まぁ、人間完璧な存在じゃないんでぇ、たまには遅れますよ、たーまーにーは!」
「何キレてんの」
「キレてないですもん、私ちゃんと大人の対応してますもん、大人ですもん、ちゃんと敬語使ってあげてますもん、授業遅刻して教授になんて言い訳すればいいんだろうとか小学生みたいなこと考えないですもん!」
「ガキかよ」
「ガキじゃないですー! もういいです。折角私があなたの子供みたいな発言を気にしないように取り計らってあげたのに……。はぁ、もういいです、ここで朝ご飯食べてすっきりします。私がご飯食べてる時は煙草吸わないでくださいよ!」
「はいはい」
田箱は初めて私の言うことを聞いて灰皿に吸いかけの煙草を押し付けた。珍しいこともあるもんだな、と感心していると、これでいいだろ、と言いたげなドヤ顔をしてきたので、私はメンソールの匂いを嗅いだ時以上の不愉快に満ちた顔で返答しておいた。
「……はっ、変な顔」
と田箱は初めて笑った。なんだ、笑うんだ、とまた珍しがりつつ、コンビニの袋からパンとおにぎりとサラダを取り出した。私の大好きなツナマヨおにぎりと、コーンマヨパン。口の中に広がるあの濃厚な味を想像するだけで口の中が涎でどろっどろになる。そこにサラダを……。
「あ、いけない。ケータイ出さなくちゃ」
私は夢想にふけっていて重大なものを忘れていた。私はそれを求めて鞄の中に手を伸ばした。
「あった!」
それを掴んで鞄から取り出す。
「……なにそれ」
田箱がそれを怪訝な目で見ながら聞いてきた。
「なにって、ケータイですよ、ケータイ」
「いや、それマヨネーズじゃん、どう見ても」
「ええ、ケータイマヨネーズ。略してケータイですよ?」
「言わないから、ケータイつったら携帯電話の略でしょ」
「これだからガラケー世代は……。今時の十代は初めてから今までずっとスマホが普通ですよ。ゆえに携帯電話をケータイなんて略し方しません。今時の十代にとってはケータイ=ケータイマヨネーズが常識なんですー。これはジェネレーションギャップってやつですね」
「それ言わないから、百歩譲って俺がガラケー世代なのは認めるけど、今時の十代がマヨネーズ携帯してるなんて事実は認めねーから。それ絶対お前の脳内だけの常識だから」
この人は何を言ってるんだろう。まぁ、たわごとは無視して私はおにぎりを開封して、のりに包まれた三角形に、マヨをたっぷり三往復分かけてあげた。
「いただきまーす」
ぴり、とのりを噛みきる軽快な音がして、口の中にたーっぷりとマヨの味が広がる。
「うーん、外マヨと内マヨが織りなすマヨとマヨのハーモニー。あぁ、たまらないわぁ~」
「いや、それハーモニー奏でてないから、マヨしかないから、ハモれないから、マヨの独唱状態だから」
「……なんです、文句でもあるんですか?」
「俺からは文句はないけど、おにぎりさんからは文句殺到だと思うよそれ」
何を言っているんだろうこの人は。煙草の吸いすぎでおかしくなったのかな?
「そんなにマヨネーズが好きなんだ」
「ええ、もちろんよ。私はマヨと初めて出会った時から運命を感じていたもの。マヨよ、マヨ。私と同じ名前だもん。そして口にしたときに感じるあの濃厚でコクのある味に口中を、いや体のすべてを支配されたわ。それぐらいに魅力的だったんですよ、マヨは」
「そうですかい。でも、そんなマヨネーズ好きでよく太らなかったな」
田箱はそう言って私の体を見た。そんな見んじゃねえよ、死ね、セクハラで訴えるぞ。それはさておき、確かに、私の体は太ってはいないし、大体平均体重だ、大体。
「当然よ。小中高と運動部に所属してたし、何より大学に入るまではケータイマヨは持たせてもらっていなかったですし」
「何その小学校卒業するまで携帯電話持たせてくれなかった中学生みたいな話」
「それに、家でご飯を食べる時も、マヨネーズは一食一握り三秒分だけだったわ。もしも一握りしたときにぶほってマヨネーズが吹いたらって想像してみなさいよ。想像できる? ショートケーキの上に乗っている生クリーム程度の小さいスプーンで掬えるぐらいの量のマヨネーズしかサラダの上に乗っていない絶望を。それが一食分のすべてのマヨになるのよ?」
「うん、分からんし、想像もしたくない。っていうかその一食一握り三秒分とか妙なルールを万人が理解できるつもりで会話にぶっこまないでくれ」
うーん、本当にこの人は何を言っているのかしら。常識がちょっと通じないようね。
「まぁ、そんなケータイマヨなんか持って、マヨかけまくって飯食ってたら、そのうち本当に太るぞ?」
「いらぬお世話よ」
私はそう言って、コーンマヨパンに追いマヨを追加した。
それから二週間がたった。
数値は時に残酷だ。夜、お風呂上りにふと思い立って乗ってみた体重計が厳しい現実を突きつけた。
「うそ……八キロも太ってる」
翌朝、私は母親から、一か月のマヨ禁を宣告された。
「死ぬ、死ぬわ私……」
私はマヨを摂取できない苦しみにさいなまれながら、千鳥足になりながらもなんとかバス停にたどり着いた。
「……どうしたんだ、お前」
田箱が目を白黒させながら私に言った。うるさい、私の辛さなんてお前は知りえないんだ、同情なんてされたくない、同情するならマヨをくれ。
「マヨ……がくり」
私はそんなことを呟きながらベンチに突っ伏した。ここにいればまたヤニとメンソールのダブルパンチにやられてしまうことになるけど、もうかまうものか、マヨが、マヨが足りないんじゃあぁぁぁぁぁ……。しかし、一向に煙草の匂いがしなかった。
「なんだ、行き倒れか?」
ちらり、と見上げてみると、田箱がおにぎりを食べている。しかも、この匂いは……。
「そのおにぎりはまさか、エビマヨ!?」
私は即座に察知した。この男をどうにかすれば、マヨを奪うことができると!
「なんで分かんだよ、犬かてめーは」
「ただの犬じゃないです、マヨー犬です」
「なんだよマヨー犬って! ……ははぁ、さては、マヨネーズ摂取を禁止さたな?」
私は力なく頷いた。ここは「弱った仔犬につい優しくしちゃう的ななけなしの男気を引き出してやろう」作戦よ。私の小動物のような可愛さに、ついついマヨを差し出しなさい。
「確かに、最近太って来たもんなー、お前。大体十キロくらいか?」
「そんな太ってないわ! っつーかあんたね、華の女子大生に向かって太ったなんて言うもんじゃねぇだろ! そういうのをマヨ……、ごほん、デリカシーがないって言うのよ!」
「いま、デリカシーって言う前にマヨって言いかけたよね! 何その言い間違い!」
「うるさいまよ!」
「誤字みたいなマヨの使い方止めてそれ、なに、そんなにマヨが足りねーの?」
私は力強く首を縦に振りまくった。ここでもう件の作戦は塵と消えていた。
「しかたねーな。ほら」
田箱はそういって、コンビニの袋から新しいおにぎりを取り出した。味は、鮭マヨネーズだ。
「やるよ。俺の食いかけじゃ悪いから、せっかくだし新品の方やるよ。感謝しろよ……」
「ふん!」
私は差し出された鮭マヨおにぎりをふんだくって速攻で開封した。
「がうがうがうがうがうあうあうあう、はぐぅ、がぶぅっ!」
そして獣のように貪り食った。口の中に、マヨが広がる。私のすさんだ心と味覚が正常に戻る。ああ、生きることそれすなわちマヨネーズと見つけたり。
なんて私が夢想していると、かちっ、と小気味よい音が田箱の方から聞こえた。
「ははは。これだけのマヨネーズ中毒者だ。俺がこれを吸っていたい理由も分かるだろう?」
田箱は咥えた煙草を右手の人差し指と中指の間の付け根で挟んで持ち、口から紫煙の塊を吐き出した。
「いやぁ……それはちょっとわかんないです」
私は率直な感想を述べた。
「なんでわかんねぇんだよ! テメェだってさっき完全にマヨ中毒者になってただろ、むしろ悪質なニコ中どもよりも性質の悪そうな感じだったろ!」
「いやぁ、それはそれ、これはこれ、です。第一煙草は嗜好品で、マヨネーズは食品ですもの。それに煙草は害にしかなりませんし」
「害だったら、マヨネーズだって体にわりぃだろ」
「マヨはどっこも悪くないですー、マヨに害はないですー」
「るっせぇ! マヨネーズなんてほぼっほぼ油でしかねぇじゃねぇか! コレステロールも高いし、だからそんな太るんだよ」
「な! た、確かに私は太りました、太りましたけどぉ、マヨだけのせいじゃないです。運動部に入ってないからですー」
「はぁん? マヨのせいだからこそ、マヨ禁させられてんじゃんかよ」
「う、うぐぅ」
これ以上、反論が思いつかない。マヨ、ごめん、私じゃ力不足だったみたいだよ。
「そうだ、どう。一本吸うか? 痩せるぞ」
「痩せないです! むしろ太ります! っていうかなんですかその下手な勧誘の仕方、麻薬を勧める悪質な先輩かなんかですか!」
私と田箱はいつの間にやら二人で顔を突き合わせながら軽い言い合いをしていた。彼の顔からはあの染みついているのかメンソールの匂いが漂ってくる。でも、なんだか少しそれも気にならなくなって来た。多分、鼻がなれてしまったんだろう。だから、この言い争いがちょっと楽しかった。ただ、楽しかった。でも、そのせいで……。
プーっとバスの発射音がなった。
「あ……バス、乗り損ねちゃった……」
あるとき、私は大学でとある噂話を聞いた。我が大学の大学院に、ヘビースモーカーの先輩がいて、私の友達が彼と合コンで会って以来、狙っているもののちっとも振り向いてくれないとのこと。それを聞いて私は真っ先に田箱の顔が浮かんだ。でも、あいつは年齢的には大学院生と言われればしっくりくるけれども、さすがにそんな妙なめぐりあわせもないか、と私はまたしても軽~く考えていた。お察しの通り、大体真剣に重く考えているようなことはうまくいかない癖に、軽く考えていることはすんなりとその通りになってしまうのが人生である。
私は大学を出てすぐそばにあるコンビニに立ち寄った。六月に入ってなんとかマヨ摂取が解禁されたのだ。ケータイマヨは禁止でも、ちょっとだけでもマヨを摂取したいと、おにぎりかパンを買ってしまおう、むしろマヨの類は買い占めてやろうと自動ドアをくぐったときだった。
ちょうど入ったときにレジで会計を済ませ、私のいるドアの方を振り向いたのはほかでもない、田箱久寿雄その人だった。
「……あ」
「……よう」
驚いてあんぐりと口を開ける私と対照的に、田箱は相変わらずの無表情で、いつものように私に挨拶をした。
私と田箱は、二人並んでコンビニのガラス窓の前に立っていた。田箱が煙草を吸うから、私が待っていた。六月にしては冷たい風が、ほほを撫でる。雨が降る、と私は直観した。
「もう、同じ大学にいるんなら言ってくださいよ」
「俺はお前がこの大学に入ってるだなんて知らなかったんだよ」
「嘘。大体、この辺りにある大学なんてここだけじゃないですか。過疎ってる地方都市をなめんじゃないですよ」
「そうだな。まぁ、バスに乗る時点でも察しは付くからな」
「院生なんですね。学部は?」
「経済学部」
「バイトはしてるんですか?」
「いや、バイトはしてないけど、株はやってる。おかげで毎日午前中を暇して過ごすだけの金は稼げているよ」
「ちなみに、学年は?」
「今、二年。でも二浪して大学入ってるから歳は二十五歳だ」
「ふーん、彼女さんは?」
「今日はよく質問するな。どうした?」
「合コンであなたと知り合った私の友人があなたを狙っているらしいので、その協力を」
「へぇ、そりゃ熱心なことで。彼女はいねぇよ」
「じゃあ、なんで付き合ってあげないんですか?」
「それは俺の自由だろ。付き合わない理由もないが、付き合う理由もないのさ」
「それじゃ、女の子は納得しないですよ」
「納得させる気もねぇよ。その子には気の毒だけどよ」
「モテたくて煙草を吸ってるくせに一人前に女の子を振るんですね」
「はは、それとこれとは別さ」
田箱がコンビニ袋から煙草の箱を取り出して、ビニールを外し、一本の煙草を口にくわえる。それにライターで火をつけ、深く肺に吸い込んだ。私の視界の隅に、赤い煙草の箱が彼の上着のポケットにしまわれるのが見えた。ふぅ、と田箱の口から吐き出された煙が、冷たい風に揺られて私の方に近づいて、私の前を横切ることなく消えた。私は煙の溶け込んだ空気を吸うことになんの嫌悪も感じなかった。なぜだろう、とふと思うと、そうだ、いつもの不快極まるメンソールのすかっとした匂いが無いからだ、と気付いた。
「それ、いつもと違う煙草?」
「ん? ああ」
「へー、メンソールの入ってない煙草も吸うんですね」
「むしろ、俺は他の場所でなら、いつもはこれを吸ってる。あれを吸うのはあの場所でだけだよ」
「え? そういうの決めてるんですか? 意外ですね」
「そうか?」
「そうです。でも、なんでそんなことするんですか? 私はあのメンソールの奴よりもこっちの方が……」
彼が遠くを見ていた。そういえば、こんな顔を前に見たことがある。初めて会ったときのあの寂しそうな横顔。タバコの火なんかと違ってあっさり消えてしまいそうな、儚い、弱弱しい目の光。それが煙草の煙に遮られて陰る。それだけで、彼の目の光は消えてしまいそうだ。
「なぁ。俺は……別にいろんな人にモテたいから、煙草を吸ってるわけじゃないんだ」
落とし忘れた灰が風に流されながら、地面に落ちた。
「花みたいに蝶だの蜂だのいろんなもんを引き付けるための誘惑の匂いじゃねぇ。あの煙草の匂いはよ、たった一人のための、そいつが道に迷ったりどっか変なとこに行ったとしても、必ず帰って来れるように、帰ってくるようにする道しるべなんだ。どこでも吸ってちゃ、どこに帰ればいいか、わかんなくなるだろ?」
田箱は、私の前を横切って、咥えていた煙草を灰皿に落とした。ジュッ、と水に火が消される音がした。
「……その人のこと、好きなんですか?」
勘だけども、私はそうだと確信していた。田箱はまた煙草の箱を取り出して、新しい煙草を咥える。かちん、かちん、とライターが鳴るが、火を吐き出しはしなかった。
「……さぁな。もう昔のことなんで、わかんねぇよ。」
沈黙に耐えきれなかったのか、田箱がそう言った。ライターがやっと火を噴いて、煙草にやっと火がともった。
「じゃ、俺は先帰るよ」
田箱がそう言って、一人先に歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
せっかく一緒に帰ろうと思って待っていたのに、それはないと、私も歩き出す。すると突然、ぽつり、ぽつりと雨が降り始めた。田箱は先に歩道に出て、急な雨に踊らされるように歩みを早める人たちの中へ混ざって行った。けれども、立ち上る煙草の煙が彼の居場所を教えてくれる。
「ま、待ってって言って……きゃっ!」
私が彼の方に向かって走り出した途端、コンビニに向かって走っていた男性とぶつかった。私はしりもちをついた。雨脚が強くなる。
「ご、ごめんね、ちょっと急いでたもんで」
とぶつかった男が手を差し伸べてくれていて、私は彼の手を借りて起き上った。立ち上がると、謝る男を余所に田箱がいた方向をすぐに見た。雨が暗闇のなかで見えないカーテンとなって視界を鈍らせている。煙はもう上がっていなかった。それでも、まだ追いつくかもしれないとまた走り出すと、ぐしゃり、と何かを踏んだ。立ち止まり、足をどけてそれを見る。それは真っ赤な煙草の箱だった。踏んでしまいへこんだそれを手に取って中身を見ると、二三本程度抜かれているようだった。多分、この煙草は田箱がさっきまで吸っていた煙草で間違いないだろう。
さすがに、雨が強まる中で彼を捜すことはしなかった。帰りのバスで会うかもしれないし、どうせ明日の朝にはいつも通りバス停にいるだろう。
しかし、その日のうちに会うことはなかった。家に帰るまでのバスに彼を見ることもなかったし、バス停にも、家に帰るまでの道にもいなかった。じゃあ、明日ね、とスカートのポケットに入れておいた、縦に凹んだ赤い煙草の箱を見る。
―――これを、返すために会うのか――――
いや、ない。これを返されても多分普通は喜ばないだろう。中身もなん本か潰れているし。ふと、何のために明日田箱と会うのかという疑問がよぎった。
今日の話を聞くため? あの妙に抽象的な話をもっと具体的に聞き出してやりたい。それもある。
煙草を返すため? ないな。むしろ、煙草踏んじゃいました、ゴメンネ(はーと)だろ。この状況なら。
友達と付き合わせるため? …………これは、違う。
私は家に帰って、それについてうだうだと考え始めた。ご飯を食べながら、お風呂に入りながら、ドラマを見ながら、たまにマヨを舐めながら。私が彼と会うのに何か理由があるとして、さっきあげた三つしか、私には思いつかなかった。けれども、そのどれもとは違う理由がある気がしていた。それが、もやもやとした先にあって、そこに手を伸ばしてもぼんやりとしすぎていて、手が届かない。
「ま、いっか。どうせ明日会うでしょ。ねよーねよー」
とりあえず私はあきらめてベッドに横になった。折角だし、枕元に隠しておいた隠しマヨでも舐めて寝マヨしちゃおう。寝よう、寝よう。
翌日、台風上陸。家じゅうの窓やドアが、がたかたと揺すられる物々しい音と、切るような風の鋭い音に目を覚ました。ニュースを見て確実な事実として受け止める。そして、スマホで学校のホームページを見て、本日全日程休講を確認。やったー! 今日一日ごろごろできるー! ともう一度ベッドにダイビング。さて、もう一度寝ようと、目を閉じようとしたとき、私は思い出した。
「今日も、あいつはいるのかな?」
二階の自分の部屋から外を見た。ここから見えるだけでも山の木々や畦道の雑草、まだ若い田んぼの稲など外にあるものすべてが、突風に翻弄されている。まさか、こんな中でバス停にまで行くなんてこと……と、思えば思うほどに、あそこにいるような気がしてきた。山に隠れて見えないあのバス停に、田箱が今も煙草の火を燻らしているのが目に浮かぶように想像できた。
「ったく、あのバカ、ニコ中! 心配しちゃうじゃないの」
私は、ダサい水色のカッパを着て、傘を手にして家を飛び出した。
嵐のせいで視界がぼんやりとする。突風に吹かれる水たまりや雨粒が、目に見えないはずのそれらが、私の行く手を阻んでいる。いつもならほんの十分程度でつく距離にあるのに、なかなかたどり着けない。それは、まるで昨日の夜に考えていた、田箱と会う理由を捜しているときのようだ。近くにあるのに届きそうにない。でも、観念的な頭の中と違って、現実にあるバス停まではこの足で着々と近づくことができる。そうして近づいてはいるが、一夜明けても田箱と会う理由にはちっとも近づくことはできなかった。
そうこうしているうちに、バス停が見えてきた。ええい、ままよ! と私は思い切ってバス停へと駆け出した。もちろんこちらが風下だが、今日は煙草の匂いが全部雨の土臭い匂いにかき消されている。それでも、鼻をつーんとする、あのメンソールの匂いを私の鼻は微妙に感じ取っていた。
「こんな日でも待つんですね」
田箱はいた。煙草を咥えながら、遠い目をしてベンチに座っている。
「まぁな。俺が待つって俺が決めたんだ。待ち続けるよ」
「どのくらい待ってるんですか、その人を」
私は田箱の隣に腰掛けた。
「煙草吸い始めてからだから……五年くらいか」
「ずいぶん長いことで。あなたは忠犬かなんかですか」
「るっせぇ」
「よっぽど、その人のことが好きなんですね」
「今は昔ほど好きじゃねぇよ。でも、昔は好きだった。この煙草の匂いが好きな人でな」
「今日はよくしゃべりますね」
「せっかくこんな日にまで来たんだ。言わなくちゃお前もむくわれねぇだろ」
「そうね」
私はちょっとだけ嘘をついた。別に言わなくたっていい。聞きたいかどうかも分からない。別に聞かなくたっていい。そう、ただここにきて、目の前にいる馬鹿を見たかった。
「この煙草を吸い始めたのも、あの人に会ってからだ。良くここで会っていたよ、予備校時代に」
「それで、ずっと会っていたら惹かれあったと」
「惹かれってはいない。俺が片思いしてただけさ。向こうはここを出ていくらしくてよ、一緒にいれたのも、ほんの少しの間だった。でも、別れる前に約束したんだ。いつでも俺がここで待ってるって、俺があんたの好きな煙草の匂いをともし続けて待ってるってよ」
「……いなくなった理由は?」
「さぁな。病気か結婚か引っ越しか、俺は聞き出しはしなかったよ。怖かったからな、理由を聞くのが」
田箱はしんみりとしていた。雨でしけっているみたいに、どんよりとしている。そんな彼が、私はたまらなく嫌になって来た。こんなの違う。こんな話をする彼は嫌いだ。メンソール煙草の煙を吹き散らしていても、自分の素性を語ろうとしなくてもいい。私は、こういう彼と会いたくてここにきているんじゃない。あの、人を舐めたような態度を取ったり、私に遠慮なくツッコミを入れる、あの騒がしいアイツに会いたいんだ。
「それで待ってるの? 約束、守るために」
「約束のためなんかじゃねぇな、ここまで来ると。忘れられないから、ここでいつまでもいつもまでも燻ってんだよ。俺は、炎みたいに燃え上がることもできない、息長く燻り続ける煙草の火みたいなもんだよ。忘れることもできないし、怖くて忘れようともしないんだ」
大体は理解した。彼が待つ理由も、私が彼に会う理由も。
「その比喩とかもう止めろよ、ポエマーかよお前」
私は神経を逆なでしてやるつもりで言った。
「マヨラーには言われたくねぇよ」
それでも、覇気のない返事しか返ってこなかった。
私は激怒した。
やっと、あのもやもやした先にあるものを掴めたのに、肝心のこいつがこれじゃあ、だめだ。うん、ダメだ。
「いい加減にしろぉお! いつまでウジウジウジウジ失恋引きずってんだよ、テメェ、初恋終わった中学生か! はい、これ!」
私は昨日拾った赤い煙草の箱を思いっきり投げつけた。田箱の胸に当たって、股のあたりに落ちる。
「私はね、メンソールが大っ嫌いなの。ファーストキスの相手がキスする前に大量のガムを噛んでいやがったせいで。折角のファーストキスがガムの味よ! メンソール百パーセントよ! しかも相手は調子に乗って舌まで入れてくるわで、もうイラつきすぎてマタグラ蹴り上げてやったわ。それ以来、メンソールを嗅ぐとイライラするったらありゃしない。トラウマもんよ……。だから、明日からあんたはその煙草をここでも吸いなさい! 私はこっちのほうがよっぽど好きな匂いしてるし、何よりあんたと一緒にいてイライラしたくないもの。……それ吸ってくれたら、あんたの傍にずっと一緒にいてあげる。あんたが嫌って言っても一緒にいてやる。あんたの忘れられない相手でも、私が絶対、忘れさせてやるから……」
「……」
沈黙。
「……」
沈黙。
「……」
沈黙
「……」
沈黙。
「……じゃ!」
私は居辛くなって、全力で逃げ出した。傘をさすことも忘れて雨に頬を打たれながら全速力で家を目指した。恥ずかしい、恥ずい。あれ、一応告白っぽくなってたよね、相手がそうとは受け取ってないとかそういうパティーンになってないよね、大丈夫だよね!? 火照った顔にぶつかる雨粒は、少しひんやりとしていてクールダウンにはちょうど良かった。
翌日。台風の後は必ず、すごく晴れる。だが、この時期はそのせいで昨日降った雨が蒸発して一日中むしむしして非常にイライラしてしまう。不快さマックスで今日はバス停に向かった。バス停の方から、煙が見える。私は足を速めた。
「よぉ、この煙草、湿気ってて吸い辛いぞ」
バス停についてすぐそう言った彼の煙草からは、煙草の葉の焼ける芳醇な匂いだけが漂ってくる。私はこの匂いの方がやっぱり好きだ。
数分後にバスがやってきた。バスに乗り込んで席に座ると、すぐにバスは出発し、カーブに差し掛かった。私は癖のようにバス停の方に目をやる。黒々とした排気ガスが宙に溶けている様子しか見えなかった。そこに紫煙が混じって私の出発を見送ることは、もうないだろう。
ども、名前を変えてリニューアル、というか新人のつもりでやります。純文学でもラノベでもない、思いついた物語をとりあえず書いてみただけです。久しぶりの投稿なので、ちょい緊張してます。
これを読んでいるという方は恐らく、この作品を読んでいただいた方だと思います。本当にありがとうございます。なかなかサイトに投稿ということを最近していなかったので、ちょっと心配でしたが、読んでいただけた方がいらっしゃれば大変うれしく思います。
ちなみに、この作品に出てくる煙草は、メビウスのオプションと赤ラークのつもりです。煙草を吸う大人な方にはわかるかな(笑)
ちなみに私は赤マルが好きです。というかマルボロが好きです、大体の銘柄は吸っているはずです。でも、一番新しいマルボロはあんまりおいしくなく、煙草を吸うのがいやになるほどまずかったです。それもすっごいガムみたいな味がしたので、余計にこの主人公麻世とシンクロして、メンソールなんて糞喰らえじゃボケ!!! という気持ちになりました。この作品が生まれたのは、某○魂の鬼の副長さんを見ていたからです。田箱さんは彼をイメージしました。マヨは全部麻世に持っていかせました。
という感じでこの作品は○魂の影響をそうとう色濃く受けていると思います。言い方とかその辺で。しばらく投稿する他の作品でも言い回しとかをだいぶ真似して自分だったらどういわせるのか、どんな言葉をチョイスできるのか、ということを身につけていきたいなーと思っています。
また、何か作品を投稿しましたら、ぜひまた読んでいただきたいなと思いつつ、この言いたいことを言いまくってだらだらながくしてやったぜ☆ なあとがきをしめさせていただきます。
作品含めてここまで読んでいただいたから、ありがとうございました!