走馬灯
息をひそめて、茂みの中に潜む。
冬の街道。枯葉が乾いた風に舞う。広大無辺の冬空に雲は一つもなく、時折鳴き声を発しながら、悠々と鳶が飛んでいる。澄み切った空気は、身を切るような寒さと相まって、骨の芯まで染み込んでくる。
一人の男が、足元から忍び寄る冷気にじっと耐えながら、時が過ぎるのを待っていた。
まもなくここを、君津家当主の行列が通る。
「……」
柄を固く握りしめ、男はひたすら待ち続ける。
やがて、彼方から足音が聞こえてきた。行列の中ほど、警護役と思われる屈強の男たちが隊列を組んでいる。
数は、おおよそ数十人。当主の輿を中心に、ぐるりと囲んでいる。
警護役たちは皆一様に陣笠を被り、視線は絶えず動いて僅かな異変も見逃さないようにしていた。
明らかに、襲撃を警戒しての隊列である。
「……」
少しずつ、隊列が近づいてきた。男の潜む茂みは、輿に最も接近するものの一つだった。
ごくり、と唾を飲み込む。元より、生きて帰ろうとは思わない。決死の覚悟で輿に飛び込み、輿の中にいる当主を、一突きで仕留めることのみに専心している。その後のことは考えていなかった。
幾十もの草鞋が砂利を蹴る音が聞こえる。殺意の高まりは、男の聴覚を鋭敏にしていた。行列の息遣い、心拍音までもが聞こえてくる。
あるいは、聞こえてきた心拍音は己のものだったのかもしれない。彼我の境は消えて、いざ飛び出せば間違いなく男の目論見は成功するだろう。
だが、輿が茂みの傍を通り過ぎようとするまさにその時、
「……ッ!」
男は、飛び出すことができなかった。命を惜しんだのではない。男の殺気の機先を制して、何者かが剣気を発して男を止めたのだ。冬の冷気よりなお冷たい、刃の切っ先のような気配を首筋に当てられて、男の身体は己の意志に従わなかった。
(なぜだ、なぜ動かんっ)
行列が通り過ぎていく。千載一遇の好機が、塵芥と化して両手の隙間から零れ落ちていく。男は茂みの中で、黙って行列を眺めるより他に何もできなかった。
忸怩たる思いで頬が紅潮する。
隊列の中に、茂みを振り返る者が一人。輿の左後方を歩き、大柄揃いの警護役たちの中において一際大きい。
目と目があった。
男の手がじわりと熱くなる。
(あれだ、あの男だ)
男は、行列が通り過ぎて後しばらくの間、茂みの中から出ることができなかった。
夕暮れの陣屋付近には日没を前にかがり火が焚かれ、警護の士が番をしている。陣屋の奥、当主の応接間では、一日の終わりを前に、南州の幼君・君津南州守維盛による当主直々の家臣への慰労がなされていた。
「此度の巡視が滞りなく進んでいるのも、警護役をはじめとした皆のおかげじゃ、あっぱれである」
「ははぁ」
半年ほど前に跡目を継ぎ当主となり初の領国巡視とあって、維盛や近臣の意気込みは並々ならぬものがあった。
「弥三郎は、強いなぁ」
「お褒めに預かり、恐悦至極に存じ奉ります」
維盛は、当主警護役の弥三郎を殊の外気に入り、警護の必要ある時は常に側に控えさせ、決して離れなかった。
また、弥三郎も維盛の信頼を裏切らず、この半年間、幾たびもの危機を剣で切り抜けてきた。もっとも、『切り抜けた』というのは維盛の気が付いた部分のみを指しており、維盛の知る前に襲撃を防いだという部分については枚挙にいとまがなかった。
さらに、剣をとっても達人級だったので、君津家中の者たちはいつしか弥三郎を『南州一の武芸者』と呼んでいた。
「それがしには過ぎた名でござる」
己の武名を誇らず一歩引く謙譲も、多くの者に好ましく思われた。しかし、それをよく思わない者もいたのだった。
「弥三郎殿、維盛様は陣屋に入られ、お休みになられる。大儀であった、翌朝また参れ。明日も頼むぞ」
近臣にして先代以来の老臣・杉清が、維盛と弥三郎の間に割って入る。
「なんじゃ、弥三郎は夜番をせぬのか」
「この陣屋は警戒厳重の上、警護の者が多く番をしております。ご安心なされよ」
「だからというて、弥三郎が陣屋を出ることもないではないか」
「いやいや、弥三郎殿は日中の警備でお疲れでしょう。それとも、維盛様はこの陣屋の警備をお疑いか。警備の者どもがそれを聞けば大いに悲しまれましょう」
「だがな、杉清……」
「……、ははぁ」
平伏一礼し、弥三郎は退室した。
「杉清よ、そちは弥三郎を私から遠ざけたいのか」
弥三郎のいなくなった応接間に、維盛の声が響く。大きな声だが口調は静かに抑えており、それがかえって幼君の怒りを滲みだしていた。
「滅相もございません。ただ、あの者は出自定かならぬ野の者。維盛様のご叡慮によって士分に取り立てられましたが、本来維盛様に近侍できるほど身元が確かではございません。今回の巡視は危険の多い旅でございますれば、あのような者が維盛様のそばを動き回るのは、好ましいものではありますまい」
「そちは、弥三郎を士分に取り立てた私の目を疑っておるのか」
「とんでもございません。維盛様の見識の高さは民草から家臣に至るまでよくよく知っております。先代様の急死によってあわやお取り潰しかと思われた君津家が減封転封なく存続されたのも、維盛様あってのこと。しかしそうはいっても、この杉清、殿の御為に用心に用心を重ねて……」
「もうよい、下がれ。他の者も、休むがよい」
「ははっ」
杉清他近臣が辞し、維盛は一人脇息に体を預ける。
(杉清は弥三郎を好まぬのは、どういうことか……。杉清が、個人の憎悪を胸に納められぬほど分別を失っているとも思えんが)
維盛には、杉清の考えていることが分からなかった。近臣たちが辞した応接間は急に広くなったように見える。日が落ちて夜になり、障子の隙間からひんやりとした冷気が入り込んで、維盛は身震いした。




