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8/13

激突

 じりじりと、日が照りつける。昨夜までの雨によって出来た日なたの水たまりは、すでに蒸発して消えている。

 地表の温度と空気の温度の総和が一日でもっとも高い時刻、目線を遠くに向ければ、陽炎が揺らいでいる。山中の盆地の夏は、暑い。

 軍鶏変化の立つ黒焦げた杉の木のそばから少し離れた家屋の影に、弥三郎はいた。右手に石礫、左手に槍を持っている。

 距離にして半町あまり。足音を殺し、気配を殺し、軍鶏変化に気取らぬぎりぎりの間合いまで近寄ったのだ。


「ううううううううううううううう」


 先ほどまでと変わらぬ唸り声を発して、軍鶏変化は立っている。


(ふッ……!)


 手首の捻りを利かせた鋭い下手投げで弥三郎は石礫を飛ばす。石礫は、地面すれすれを緩い弧を描いて飛んでいき、軍鶏変化の右前方に落ちた。

 とっ、ん。

 軍鶏変化の目が地面に落ちた石礫に引かれたのは、怪鳥の体感時間に換算すれば刹那のことだったが、隙を突かれた、という意味での精神的な時間に換算すると、那由多を超えて余りあることだった。

 どす。

 一陣の風となった弥三郎は、軍鶏変化の視界の外から一気に間合いを詰め、左手に持った槍を怪鳥の心臓に深々と突き刺し、勢いのまま馬乗りになると、ぐいと槍を捻って押し込んだ。

 槍は、携行しやすいようにあらかじめ柄を手ごろな長さに切り詰めてあり、弥三郎の力を十二分に伝えている。

 黒腕は鉈ごと怪鳥の下敷きになっており、嘴でつつこうにも後ろに回り込まれている為に首が届かない。必勝を期した弥三郎の策は、見事に仕上がった。


「ぐううううううううううううううう」


 軍鶏変化の唸り声に、苦悶の色が混じる。


「ぐぐぐうううううううううううううううううううう」


 ぐり、ぐり、ぐい、と念入りに傷口を広げる。不意打ちは見事目論見通りになされたが、弥三郎の心は休まらない。

 いつまでたっても、怪鳥の息の根が止まらないのだ。傷口を抉られて、なおも勢い衰えることなく暴れている。軍鶏変化の生命力はよくよく承知していたつもりだったが、いざ仕掛けてみると、弥三郎の予想をはるかに上回っていた。


(早く、早く絶えろ!)


 弥三郎の気は逸るばかり、焦りで軍鶏変化を抑える力が緩みはしないかと必死の思いで食らいつく。


「ぉおおおおおっ」


「うううううううううううううううううううううううううう」


 軍鶏変化の抵抗は凄まじく、歯を食いしばり全体重をかけていても、振りほどかれそうになる。元より弥三郎を上回る巨躯に加え、生きるか死ぬかの瀬戸際とあっては、それこそ死にもの狂いである。弥三郎は渾身の力で組みつき、槍をねじ込み続ける。


「むむむうう」


 弥三郎の全身から汗が吹き出し、のたうつ怪鳥を取り押さえている。


(奴の息絶えるより早く、おれが音を上げることにもなりかねんか……!)


 最悪の状況が頭の中にちらつく。


「なんの!」


 不安を頭の中から叩き出して、一意専心、覚悟を決める。


(もはや賽は投げられた。このまま押し切るより他ない)


 上下の歯をがっきと噛み合わせ、力の限り槍をねじ込む。

 やがて、少しずつ軍鶏変化の体から力が抜けていくのを、弥三郎は肌で感じた。もがく力が徐々に弱まっていく。


(……、む)


 一瞬、弥三郎の力が緩む。


(やった……か?)


 だが、拘束を解こうとしたその時、


「うううううううううううううううううっ」


「ぉ、おおおおッ!」


 怪鳥最後の命の炎か、一気に息を吹き返した軍鶏変化が、弥三郎の拘束を力任せに振りほどく。


「ずぇえいっ」


 一瞬の気の緩みを衝かれた弥三郎だったが、すぐに組みつき直し、軍鶏変化を力の限り押さえつけた。元より軍鶏変化は死に体だが、今度は気を抜くことはなかった。


「はっ、はっ、はっ」


 ふ、と急に抵抗がなくなり、全身を弥三郎に預ける。


(蝋燭は消える前一際明るく輝くというが、あれがそうか……?)


 怪鳥の心音に耳を研ぎ澄ませ、痙攣を繰り返す巨体が完全に動かなくなるまで、ひたすら組みついている。


「……、ふぅ」


 ようやくよしと思い、弥三郎は軍鶏変化から離れた。槍を抜こうとしたが、深々と突き刺さったのと軍鶏の筋肉が槍を締めつけていたのとで、抜くことは出来なかった。


「とんでもない奴だった……」


 不意を突き、反撃の隙も与えぬ速攻でなければ、こうも上手くいくことはなく、返り討ちになっていたかもしれない。いや、現に最後の最後で返り討ちになりかけたではないか。

 もし、反撃を許していたら――。

 ふと脳裏に浮かんだ想像に、弥三郎は身震いした。

 ともあれ、軍鶏変化は倒れたのだ。




 弥三郎は軍鶏変化から離れて、衣服についた土を払い落した。

すると、膝からがくりと力が抜け、その場に尻餅をついてしまった。暴れ狂う怪鳥を取り押さえるのは、容易なことではなかったのだ。


「さて、どうするか」


 首を落として持ち帰ればいいのか、首から下はどこかに埋めてしまうか、あちこちの屍体も弔わねばなるまい、などと考えてながら、ぼう、と倒れ伏したままの軍鶏変化を眺めていた。

 しゅう、しゅう。

 どこからか、何かを燻るかの如き音が聞こえてくる。弥三郎は聞き耳を立てて音の源を探る。

 じゅう、じゅうう。

 燻る音が焼ける音に変わった。何かが焼けているのだ。

 じゅじゅ、じゅうう。

 音はますます大きくなる。


(まさか……)


 死したはずの怪鳥から、黒煙が立ち上る。

 平太より聞いた話には確かにあったことだ。弓の一撃を受け流血しても、たちどころに矢を抜き、止血したという。だが、軍鶏変化は息絶えたのだ。直に組み敷き、念入りに槍を刺した弥三郎には、確信があった。

 そうはいっても、事実軍鶏変化より黒煙が立ち上っている。弥三郎は立ち上がると腰の刀に手をかけ、半身になって軍鶏変化と相対した。すり足で、じりじりと間合いを詰めていく。

 瞬転。

 弥三郎の太刀が煌めき、軍鶏変化より飛来した『何か』を迎撃する。


「むっ」


 『何か』は宙空にて切断され、弥三郎には当たらない。一瞬、弥三郎は自らが反射的に斬ったものを見た。

 槍――、であった。軍鶏変化より飛び出した槍が飛んできたのだ。

 では、軍鶏変化は?


「ぐぅ、ぬうううううううう」


 弥三郎の眼前に、詰めている。軍鶏変化は胸の筋肉によって己に突き刺さった槍を飛ばし、その隙に間合いを詰めたのだ。

 手にはあの、幾人もの血を吸った、刃の潰れた鉈が握りしめられている。槍の一撃を居合で対応した為に、軍鶏への防御がわずかに遅れてしまった。


「うううううううううううううううううううううううううううううううううう」


 刃と刃が、交錯する。

 間一髪、鉈の一撃を太刀で受けることができたが、状況は弥三郎に不利だった。軍鶏の両足はしっかと大地を踏みしめ、弥三郎よりなお大きな体躯を存分に生かして、覆いかぶさるように鉈を下ろしてくる。

 黒々とした巨腕は、先ほどまでと比して、二倍にも三倍にも膨らんでいるように見え、ぴくり、ぴくりと血管が浮き出ている。

 対して弥三郎はというと、抜き切った太刀を引き戻す動作に余計な力を割かれたせいで、背筋の膂力を十全に使えていない。峰に手を添え両腕で鉈を受けているが、両腕を交差させた体制をとっている為に、軍鶏の片腕の方が遥かに強力である。

 それにしても、怪鳥は倒れたのではなかったか。弥三郎は軍鶏変化の命尽きるのを、確かに感じたのではなかったか。

 余人には不可解な軍鶏変化の復活も、刃と刃で切り結んでいる弥三郎には、理屈を超えて理解出来た。


「お、おれは、充分に、思案を尽くしたと思っ、て、いたが、それ、でも、まだ、お前を、化け鳥と、侮って、いた、ようだ」


 刃を境に、弥三郎が語りかける。一瞬たりとも気の抜けない状態だったが、弥三郎は賞賛の声を上げずにはいられなかった。


「し、死んだふりとは、やるじゃあ、ないか」


 弥三郎とて、単に死んだふりならば、すぐに気が付いただろう。しかし驚くべきかな、軍鶏変化は弥三郎に詐術を用いたのだ。死んだふりをする前にあえて大げさに暴れたことで、死の演技に大きな説得力が生まれていた。軍鶏変化の強靭無比な生命力なしには、成し遂げられないことであった。


「ぬう、うううおおおおおおお」


「ううううううううううううううううううううううううううううううううう」


 すでに両者の態勢は、覆いかぶさる軍鶏変化と組み敷かれた弥三郎、という体になっている。先刻弥三郎が仕掛けた不意打ちを、形を変えて仕掛け返されていた。同じ仕掛けであれば、より有利なのは体格の優れた方である。軍鶏変化の鉈は、弥三郎の首元に迫っていた。


「ぐ、ぐ、ぐ」


 弥三郎には、槍が刺さってもなお暴れられるような、軍鶏変化の如き強靭な生命力はない。ましてや、首を落とされては死んだふりも何もあったものではない。


「ぬぅ、う」


「ううううううううううううううううううううううう」


 睨み合いが続く。鍔迫り合いという初めての経験に、軍鶏変化は戸惑う。ひたすらに押し切るより他に、怪鳥の手立てはない。

 膂力において軍鶏変化に遥かに劣る弥三郎が鍔迫り合いを続けていられるのは、膂力の差を技量において補っているからだった。


「う、ううううううううううううううう」


 ぐい、と軍鶏変化が力を込める。


「ぬ、う、う」


 弥三郎は、両手で七分の力を受け、残りの三分は柔の術で体の外に逃がしていた。それでも、軍鶏変化の七割の力は弥三郎の全力に勝るが故に、じりじりと、鉈を押し込まれている。

 ぴしり。

 不吉な音が、弥三郎の耳に入った。刃の軋む音。太刀が鍔迫り合いに耐え切れなくなってきたのだ。


(まずいっ)


 弥三郎の心中を警報が鳴り響く。


(折れる、ならば!)


 刀身の破断をぎりぎりまで見極めた弥三郎は、太刀の折れる際の慮外の力と、左足による膝蹴りとを巧みに組み合わせ、それによって生じた回転運動によって軍鶏変化を吹き飛ばした。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 呼吸に合わせて弥三郎の肩が上下する。心の臓は早鐘の如く拍動し、全身に血液を送っている。


「う、う、うううううううううううううう」


 軍鶏変化が立ち上がる。鉈には、無数のひび割れが見て取れる。鍔迫り合いは、怪鳥の鉈にも深刻な損傷を与えていたのだ。

 びしり。

 軍鶏変化の鉈が、粉々に砕け散った。折れた太刀と、砕けた鉈。両者の得物は失われた。


「ぜい、はぁ、はぁ」


「う、う、う、う、う、う」


 軍鶏変化が、巨腕の先の三指を折り畳み、拳を作る。そのまま大きく振りかぶり、胸を逸らして両足に力がこもる。まるで、引き絞られた強弓の如き様相であった。

 あまりにも予測できる軌道。常の弥三郎ならば、紙一重で躱すことは容易だろう。


「か、はぁ……、はぁ……」


 しかし、今の弥三郎は、暴れる怪鳥を渾身の力で取り押さえ、休む間もなく死力を尽くした鍔迫り合いを行い、青息吐息、立っているだけで精一杯だった。両足は小刻みに震えまるで意のままにならず、歩くどころか膝をつくこともできない。

 どん。

 矢は放たれた。

 巨大な質量を持った黒い稲妻が、弥三郎に迫り来る。巨腕の一撃が、弥三郎のはらわたを抉る。凄まじい衝撃が弥三郎を襲い、くの字に曲がったまま遥か後方に吹っ飛んだ。


「うううううううううううぉおおおおおおおおおおおおおおおおん」


 怪鳥の唸り声が、村中に響き渡った。




 轟音が耳に飛び込んでくる。

 周囲の景色が、凄まじい速さで前方に向かっていく。下方への重力は消え、天地が直角に傾いた。怪鳥渾身の一撃によって、後方へと殴り飛ばされたのだ。


「ふ、づぐぉおおおっ」


 胃から下の臓腑が全て喉奥からあふれ出るのを、弥三郎は必死に堪えた。

 堪える間にも、弥三郎は飛んでいく。その飛距離半町を超えるかというところで、弥三郎の背中に新たな衝撃が加わる。


「ぐっ」


 粗末な木の壁だった。薄く、朽ちかけた木の壁は、ただ屋根を支えることのみを目的に造られたようで、弥三郎は止まることなく容易く壁に穴をあけて屋内へと入っていった。

 およそ、人の住むに足らぬ木の壁は、人の住まいの為の物ではなかった。ここは牛の住まい、牛舎であった。

 繋がれた牛たちは、村の異変に逃げることも出来ず、何日も前に軍鶏変化に打ち据えられ、肉塊と化している。手入れする者なく雨が入り込んだ牛舎内は湿気が籠り、ところどころに水たまりが出来ていた。

 湿気と熱気で加速した腐敗によって、死した牛たちの肉の隙間から骨が覗いている。目玉は頭蓋からずり落ちて神経によってぶら下がり、時折風に吹かれゆらゆらと揺れている。

 腐肉から流れ出た肉汁が水たまりに流れ込み、蝿ばかりでなく藪蚊までもが大量に湧き群れていた。わんわんと羽音を立てるおびただしい藪蚊と蝿の群れが、突如飛来した異質物に驚き乱れる。


「ぶっ、げはっ」


 弥三郎が突っ込んだのは、牛舎の中にうず高く積み上げられた秣の中であった。山と積まれた秣が緩衝物となり、何とか即死は免れた。


「ごほ、がほ、っ」


 咳と共に、胃液交じりの血の玉がぼろぼろとこぼれ、赤黒い涎が口の端から糸を引いている。血の味と酸味とが口中に広がった。

 弥三郎の受けた攻撃はこれ一発だが、受けた損傷は甚大である。

 臓腑のいくつかを著しく傷め、骨が軋み、ヒビの入ったものがいくつかある。脳は揺れ、上下左右の区別がまるでつかない。ぐわんぐわんと、油風呂にてうねりに呑まれるが如き心地といえた。

 まさに一発逆転、起死回生の一撃だった。


「う、ぐぅぅ……」


 朧に揺蕩う意識を気力の限りを尽くして揺り戻すと、弥三郎は周囲の様子を探ろうと頭を振った。すると、弥三郎の鼻腔を抗いがたき退廃の香りが包んだ。

 連夜夢に見た、秣の香りである。

 死臭の中にある有場村において、まさに別世界の甘美。血と共に、口と鼻とに思い切り秣の香りを吸い込む。

 秣の香りが弥三郎の快感中枢を刺激し、一時痛みを散らす。すぐに痛みは戻ってきたが、一度味わった艶香は、頭の中に染みついて離れない。弥三郎の心中は痛みと快感とが混乱し、明確に自己の状態を俯瞰出来ずにいる。


「……………………」


 弥三郎の五感が囁く。秣を喰ろうて力を得よと。あの強力無比の怪鳥に向かうには、我らも理外の力を持つより術はない。ならば、理外の力を得よ。力はそこにある。

 目覚めよ、牛変化弥三郎!


(秣……、夢に、見た……)


 弥三郎の左手が、秣を一掴み握りしめた。腕が震える。欲望の囁きは弥三郎の意識に乗りこみ、生への回帰を促す。

 果たしてこの秣、喰うか喰わざるか。喰わねば軍鶏変化に勝てぬは、弥三郎の本能が告げる道理である。いや、勝敗以前に、弥三郎の命は風前の灯だった。


「げほ、げほっ」


 血咳が再び喉元を汚す。

 いよいよもって目は霞み、拍動も微弱になりつつある。


「が、はぁ、はぁ……」


 命の炎は揺らめき、消え去ろうとしている。今ここで秣を喰らおうとも、なんの不都合があろう。

 だが、生死の間際にあって弥三郎の胸に去来するのは、恍惚とした食への渇望ではなく、在りし日の走馬灯、遥か彼方に過ぎ去った、今は亡き主との思い出だった。


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