怪鳥のうなり声
「かっ、かかれ、かかれ!」
由吾郎が号令をかける。
(うぅ、弥三郎がいれば、弥三郎がいれば……!)
声を張り上げながらも、由吾郎の胸中にはあの完全無欠の武芸の達人、雲の上の偶像ばかりが占めている。
とはいえ、いない者は、いない。由吾郎は、弥三郎ならばどうするか、どのように差配するかを考えている。
自らを状況の外に置かなければ、たちまちに士気が萎えてしまいそうだった。
(せめて道場にでも通っておくのだった……!)
文官一筋に生きてきた己を、呪わずにはいられなかった。
「えい、槍持ち、早う突けい!」
己を奮い立たせ、声を張り上げる。一瞬遅れて、槍持ちが真槍を構え、
「えいッ」
と扱き出す。
しかし、槍は軍鶏変化の黒翼に叩き落とされてしまった。
瞬息、跳ね寄った軍鶏変化は固く尖った嘴で、執拗に槍持ちを突く。突く、突く、突きまくる。
「た、田吾作ぅ……っ」
後方から悲痛な響きが聞こえる。今まさに肉袋と成り果てつつある槍持ちの知り合いだろうか。
「矢、射れ、射れ!」
その場に崩れて泣き叫ぶことができたらどんなにいいか。由吾郎は代官としての義務感責任感を芯にして、号令を下す。
数瞬遅れて、弓使い三人が、矢をつがえる。
(早く、動け……!)
切歯扼腕、由吾郎は気が逸るばかりであった。
ひゅん、ひゅん、と矢が曲線を描く。
「ぐぇええ!」
放たれた矢の一本が怪鳥の胸元に突き刺さり、軍鶏変化は苦悶の声を上げた。
「おぉ!」
軍鶏変化にも痛みはあるのだ。このまま攻めれば、眼前の化け物を仕留められるのではないか。
この事実は由吾郎たちに、万の味方にも勝る勇気を与えた。
「ぐぎぎぎぎぎ」
手羽をばたつかせ、首を捻じらせて矢を咥えると、軍鶏変化は血が流れ出すのも構わず一気に胸元の矢を引き抜く。
ぶしゃぶしゃと飛沫を上げて、怪鳥の矢傷からどす黒い血が流れ出た。
「効いておる、二の矢、続けい、槍持ち、進めい!」
声を枯らして指示を飛ばす。
「うううううううううううううううううううううううう」
怪鳥が唸る。じうじうと、軍鶏変化の傷口から黒煙が上がる。するとどうだろうか、流れ出ていた血にどろりととろみがつき、煙が消えると共に血も止まった。
仕留められるのではなかったか、という希望が幻想に変わった瞬間であった。
「ひぇい!」
「わぁっ」
弓使い、槍持ちの幾人から、怯懦の声が聞こえる。
「お、臆するな、放て、放て!」
由吾郎は激を飛ばすが、その声も腰が浮いている。
二の矢が空を切り裂いた。
「ううううううううううううううううう」
軍鶏変化は左右に振り動きながら矢を避け、最も近い弓使いに一足飛びに近づくと、鉈で腕ごと弓を断ち、息つく間もなく飛躍、その強靭な足で以て頭蓋を蹴り潰した。
「うううううう……うううう」
ぎらぎらとした眼が、残された弓使いを睨んでいる。
己に傷を負わせた得物を、じいと睨んでいる。
「ええい、やぁあああ」
鬨の声を上げ、軍鶏変化に突撃する影が一つ。由吾郎である。
(弥三郎ならば、弥三郎ならば!)
士気を保つ為に、指揮官は先頭を行かねばならぬ時がある。今がその時であった。
(弥三郎ならばそうする、そうに決まっている!)
由吾郎は、弥三郎が乗り移ったかのような感覚を得た。
しかし、由吾郎は弥三郎ではなく、由吾郎であった。
気合一閃、名刀『岡本大慈』を振るって斬り込むも、剣は宙を斬り、軍鶏変化に傷一つつかない。反撃の鉈の一撃で、由吾郎の首はぼろりと地に落ちた。
由吾郎は、由吾郎の思い描くような弥三郎になれなかった。
さて、残された部下たちはどうなる。
指揮官という支えは失われた。軍鶏に挑む者は一人もいなかった。
もはやそのような段階ではないのだ。
「うううううううううう」
怪鳥は首を刎ねる。
怪鳥は頭蓋を潰す。
蹴り砕き、踏み潰し、人が肉になる。怪鳥の前から生ける者は消え去った。
残るは、追われる者である。
ごろり、ごろりと遠雷が聞こえる。
遠雷は夕立の兆しであり、やがてざあざあと盥をひっくり返したかのような雨が降り始めた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
斧持ちの治郎兵衛と平太、槍持ちの与作の三人は、小楠村に戻る山道を、一心不乱に走っていた。
由吾郎が軍鶏変化に殺されてから、残った他の者がどうなったか三人は知らない。
後ろを振り返ることなく真っ先に逃げたのだ。逃げる途中、重いのと雨で滑るのとで、斧も槍も捨ててしまった。
卑怯だとか卑劣だとか意気地なしだとか、そういったあれこれは恐怖の前に消し飛んでいた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
とにもかくにも、逃げることしか頭に浮かばなかった。
「べっ」
ぬかるみに足を取られ、平太が転んだ。
「ぐぇ」
平太を踏み越え、与作は走る。治郎兵衛は、与作の遥か先にいる。
「ひぃ、ひぃ、ひぃ」
指を強張らせ、もがくように足をばたつかせながら、なんとか立ち上がった平太は、猿の如き動きで逃走を再開した。
平太は二人を罵るだろうか。
二人は平太を嘲るだろうか。
誰も、何も言わない。
ただただ、一心不乱に走るのみである。
雨の音も、雷の音も、三人の耳には入らない。
「うううううううううううううううううううううううう」
彼らの耳の奥底に響き渡るのは、大怪鳥の唸り声だった。
一体いかなる人体の神秘か、遠く離れた有場村で殺戮に狂う軍鶏変化の声が、彼らの耳にははっきりと聞こえるのだ。
平太は振り返る。最後尾を走る平太が、この中の誰よりも死の恐怖と相対していた。
息を継ぐごとにちらり、ちらりと振り返り、軍鶏変化がいないという事実を確認する。
ぴかり。
雷光が山道を照らす。
ごろり。
雷鳴が轟く。
「はぁ、ひひぃ」
治郎兵衛が、与作が、平太が走る。横殴りの雨が、三人の全身を叩く。
「へひぃ、はひぃ」
前を行く二人に大きく遅れていた平太は、遅れを取り戻さんと、いや、二人よりも先を行こうと、渾身の力を振り絞り山道を駆け上る。
しかし、我先にと走りたいのは他の二人も同様である。中々に差は縮まらない。また、一度転んだ分だけ、平太の疲労は激しかった。
「ううううううううううううううう」
怪鳥の唸り声が、平太の耳にこびり付いている。
ちらり、後ろを振り向く、そこに軍鶏変化は、いない。
前を向くと治郎兵衛と与作、さらに先には峠が見える。
見えた、峠が見えた!
雷光が三人を照らし出す。
「ううううううう」
再び、軍鶏変化の唸り声。
待て、これは幻聴か、反響か。
ごろぉん。
雷鳴が響く。
「うううううううううううううううううううううううう」
ちろり、と後ろを見た平太の目に映るのは、
「ううううううううううう」
――、猛然と迫りくる軍鶏変化の姿であった。
「ぎぇ」
馬鹿な、軍鶏変化は村で暴れていたのでなかったのか。平太は先ほどまで、確かに村から聞こえる怪鳥の唸り声を聞いていたのだ。
果たして、平太の耳は本当に、遥か遠くの怪鳥の声を聞いていたのだろうか。そうあれかし、という願望だったのではないか。
「ううううううううう」
平太は、もはや振り返らない。馬力千倍、びゅうと二人を追い抜かし、あっという間に峠の彼方へ消えていった。
「ひぃ、ひぃ」
二人は見た。彼らを追い抜かした時の平太の顔を。
「うううううううううううううううう」
二人は聞いた。怪鳥の唸り声を。
「ちぇい!」
治郎兵衛は反転し、膝で与作の腹を蹴る。
与作の死ぬ間に距離を稼ごう、という姑息な思いつきだった。
「ぐぇ、けへ、けへ」
不意の出来事、前方からの慮外の攻撃に、与作は対応できない。膝蹴りで肺腑に残る酸素を一滴残らず絞り出された与作は、酸欠にのたうちながら倒れ伏した。
「うううううううううううううううううううううううううううう」
軍鶏変化が迫る。
ぴか。
雷光が、鉈を振り上げる怪鳥の姿を克明に照らし出し、与作の瞳に焼き付けた。
それは、与作が最後に見た怪鳥の姿であった。
ぴかり。
ごうん。
有場村に、雷が落ちた。
「うううううううううううううう」
唸り声が、山道に響く。
ごうん、ごうん、ごうん。
三度、雷鳴が轟く。
軍鶏変化は踵を返し、有場村へと戻っていった。
「ひぃ、ひぃ、ひぃ」
闇の中を、治郎兵衛は駆ける。
峠を越え、山道を下る頃には、治郎兵衛の耳に怪鳥の唸り声は聞こえなくなっていた。
「ひ、ひひひひ」
脇目も振らず、ひたすらに駆け抜ける。軍鶏変化が有場村に戻っていったことを、治郎兵衛は知る由もない。
力の限り、治郎兵衛は走り続ける。またあの唸り声が聞こえてきたらと思うと、走るのを止めたりだとか休憩をしようだとかは、とても考えられなかった。
日没の時刻はとうに過ぎ、雨は止むことなく夜空には星も月もない。時折光る稲妻だけが、唯一の光だった。必死の治郎兵衛の目は梟の如くかっと見開き、僅かな光も見逃すまいとしている。
風の生温さも、雨のべとつきも、治郎兵衛は感じなかった。一意専心、小楠村まで生き延びることだけを考えて、闇夜の山道を突き進む。木々の枝の数、ざわめく木の葉の数まで、治郎兵衛には感じられるような気がしていた。
ずる、り。
地面に露出した木の根を、極限状態の治郎兵衛は見逃していなかった。一足飛びに、ひゅ、と飛び越える。
そう、確かに、避けて通ったのだ。
「わ!」
木の根の先には一枚の柏の葉。足を取られた治郎兵衛は、滑った勢いで態勢を崩し、山道を外れて脇の斜面を転がり続ける。
「ぎゃ、ば、が」
大石、小石が治郎兵衛の体を打ち、擦り傷・切り傷をこさえていく。藪の小枝が治郎兵衛の目を突く。
与作を蹴り倒した因果が廻ったのか否か。それは誰にも分からない。治郎兵衛自身にも己の行いを悔悟する暇を与えられなかった。
ふわ。
治郎兵衛が宙に浮き、崖から飛び出した。
「は、へ、え?」
こんなことがあるのか。死の直前まで、治郎兵衛は己に降りかかった災厄を受け止めることはできなかった。
「べ」
崖の底には大きな大きな岩石があり、治郎兵衛は全身をしたたかに打ち付けて絶息した。




