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代官の由吾郎

 ぴより、ぴよりと小鳥がさえずっている。昨日に続いて、今日も暑い。

 南州有場村から山ひとつ越えたところに、小楠村(おぐすむら)がある。

 小楠村の百姓、弁座(べんざ)衛門(えもん)は、有場村からの油売りが来ていないことに気が付いた。


「あんれぇ、おかしいなぁ」


 毎日、背中に油樽を背負い、山を越えてやってくる。つるりと光る頭頂部をぺしりと叩きながら、遠くまで響く売り文句で村を歩き回る。


「あぁぶらぁ、あぶぅらぁ」


 そんな油売りの元気な顔を見るのが、弁座衛門の楽しみであった。


「なぁ、お前さん。有場村からの油売りはまだかねぇ」


 家内に尋ねても、知らん、知らんと言うばかり。


「そんなことより、はやいとこ麦畑に行きなさいな」


 何とも素っ気ない。


「こいつは当てにならん」


 仕方なしに、外に出る。道行く村人に、片っ端から声をかけていく。


「なぁ、彦さんよ。油売りは来とるかね」


「いやあ、知らんね」


「波さん」


「見とらんなぁ」


「米さん」


「わからん、わからん」


 村人に聞いても、知らん、見とらん、わからん。


「なぁ弁座衛門さんよ。毎日来る油売りといっても、たまには来ない日もあるさ」


 何しろ山奥から来るのだから、たまには休みたいこともあるだろう――、言外にそう匂わせていた。


「なんじゃなんじゃ、くそう」


 鬱憤晴らしと道端の石を蹴ってみるが、弁座衛門の心は晴れない。

 要するに、小楠村における四十五年の生活で得た弁座衛門の評価とは、この程度なのだ。『盆暗亭主』、『かかぁ天下の弁座衛門』と、小楠村では知られていた。


「くそう、くそう、くそう。なんぞあったにちがいねぇ」


 弁座衛門は、山を越えて有場村へ行くことにした。

 山の麓まで一里ばかり、山越えは面倒だが、昼過ぎには有場村に着くだろう。


「なにもそんな……」


 弁座衛門の家内が引き留めようとしたが、それがかえって弁座衛門を依怙地にした。


「おれぁ、有場村いくだ」


「お止めなさいって」


「行くったら、行くだ!」


 頑強に主張して譲らない。


「ならもう勝手にしなさい。はよう帰ってくるんですよ」


 終いには家内も折れて、外出を認めた。亭主に向かっての、子供に対するような口ぶりが気に障ったが、弁座衛門は有場村へと向かっていった。

 そして弁座衛門が有場村に向かって、夜になり、朝になった。

 いつまでたっても、弁座衛門は帰ってこなかった。


「あの人はいつまでかかっているんだい。全くもう……」


 弁座衛門の家内が、いつまでも帰ってこない弁座衛門に呆れながらも、迎えに行くことになった。


「あんた一人で大丈夫かい」


 村人たちは、家内が一人で行くというので、弁座衛門の時とは打って変わって、麓まで見送りにやってきた。


「平気、平気。どうせ向こうで酒でも相伴して、酔いつぶれているのだろうよ。まったく、あのぐうたらめ。情けないったらありゃあしないよ」


 家内はぶつくさ言いながらも、早朝から有場村へと歩いて行った。

 そして夜になり、朝になった。

 いつまでたっても、家内は帰ってこなかった。

 このあたりになると、さすがに村人たちも不審に思い始める。


「こりゃあ、弁座衛門の言ってたことも、間違いじゃなかったかもしれん」


 村長が有志を募り、有場村の様子を見に行くことになった。


 村長以下五名ばかり、いずれも屈強な男たちである。


「翌日になっても帰らん時は、代官様のところまで知らせに行ってくれ」


「そんな、まさか」


「まさか、ということもある。よいな」


 村長は女房にそう言い残して、有志と共に山を越えていった。

 ごろごろと、遠くで雷が鳴りだした。

 山のあたりから、むくむくと入道雲が現れる。


「大丈夫、かねぇ」


 村長の女房は、有場村の方を、いつまでも見つめていた。




 翌日。


「では、村長はまだ戻らんというのか」


 有場村近隣一体の代官・由吾郎(よしごろう)は、村人たちから事のあらましを聞いていた。


「代官様、有場村で何があったのでしょう」


 村長の女房は、せわしなく両手を絡め合わせ、由吾郎に尋ねた。


「うむ……、賊が村を襲ったやもしれん」


「賊……!」


 幾人も有場村へ向かい、誰ひとり戻ってこないとなると、賊が有場村を根城にしているとしか考えられないが、由吾郎は、何かいいようのない胸騒ぎを覚えた。


(ここのところ、賊の類は聞いておらん。村ひとつ攻め落とすような賊が、山奥にぽっと出てくるものなのか……?)


 賊を見た、という報告は受けていない。仮に賊だとして、村人たちは生きているのか。賊の目的は何か。有場村から一歩も出てこないのは、どういうことか。


「とにもかくにも、行ってみぬことには分からんな」


 そういうことになった。

 槍を携えた者が五人、弓を携えた者が三人、その他斧持ち松明持ちなどが四人。皆由吾郎より長身壮健、腕力自慢を選りすぐった。

これら十二人を由吾郎が率いて、昼過ぎには出発した。


「けして、賊と侮るなかれ」


 出発に際して、由吾郎は部下たちに何度も念を押した。

あまりにも繰り返し念押しをするので、最後の方では部下の中に笑いを堪える者が出てきてしまった。


(あぁ、ここに弥三郎がいれば……)


 声には出さなかったが、由吾郎はそう思わずにはいられなかった。


(弥三郎よ、お前は今どこにいる)


 由吾郎は、かつての同僚の武名を思うにつけ、部下たちに蔓延る楽観主義と、それを拭えない己の不甲斐なさに臍を噛んだ。


(『南州一の武芸者』と名高い弥三郎ならば、大喝一つで場を締め、整然と隊列を組むに違いない)


 弥三郎との別れから三年余り、由吾郎の弥三郎に対する一種の憧れにも似た感情は増すばかりであった。由吾郎の中で『南州一の武芸者』は日増しに大きくなり、今では、内政・外交・軍略・貿易、ありとあらゆる才覚を発揮する存在となっている。

 背が低く腕力に欠け、武功なくして内政のみで代官となった由吾郎にとって、弥三郎は手の届かない高みにあった。友情は別として、憧れがあった。翻って、己が体躯への劣等感の裏返しでもあった。


(弥三郎ならば、弥三郎ならば)


 山道を進んでいる間も、由吾郎の頭の中ではぐるぐると弥三郎のことばかり思い浮かんでは消え、また浮かんだ。

 ついつい、手が腰の大太刀『岡本(おかもと)大慈(だいじ)』に触れる。

 弥三郎から贈られたこの太刀は、由吾郎自慢の逸品である。

 並みの剣士より大柄な弥三郎が差して丁度良いぐらいの大太刀で、矮躯の由吾郎の身に余るものではあったが、この太刀を差していると、弥三郎から勇気を貰ったような心持ちになれるのだった。


「……、むむぅ?」


 尾根を越え、有場村が見えてきた頃になると、なんともなしに異様な雰囲気が漂い始めた。由吾郎は腰のものに手をかけ、肩に力が入る。


「……、そこの松明持ち」


「はっ」


 一旦隊列を止めた由吾郎は、くるりと後ろを振り返り、最後列の松明持ちを呼び寄せた。


「ここから、村が見えるか」


「はっ。点のようですが、ところどころで黒い粒が見えます」


「うむ、動く物は見えるか」


「はっ。動きはないように見えます」


「わたしもだ。ここからなら、たとえ点とはいえ、人や馬程度の動く物が見えるはずなのにな」


「……」


「全く、動きがない。皆の者、気を引き締めよ。尋常ならざる事態である」


 各々、得物を持つ手にじわりと汗をかいた。


「行くぞ」


 再び、隊列は進む。

 有場村に近づくにつれて、異様な雰囲気はますます濃くなる。そして、雰囲気の正体は空気にある『臭い』がついていることだと思い至る。


 死臭である。


「う……」


「ぐ……」


 由吾郎たちは鼻を布で覆っても耐え切れぬ腐敗臭の中にあった。

季節は夏の暑い盛り、盆地に沈み込んだ熱気が、死体を腐らせ瓦斯を撒き散らしている。

 しかも死体は、一人や二人ではない。


「うむぅ」


 あまりの腐臭に折れかける心を奮い立たせ、やっとのことで有場村に入ると、そこには、蕩けた脂肪と腐った肉がそこらに広がり、蛆と蝿とが群がり蠢く地獄絵図が広がっている。


「げぇ、げぇ」


 槍持ちの一人が、膝をつき嘔吐した。由吾郎も、代官でなければ同じことをしていただろう。


「烏が、おらんな」


 喉の奥から絞り出すような声で、由吾郎は呟いた。飛散しようとする理性を押し留めるために、気力を奮い立たせて疑問を口にしたのだ。


「なぜ、烏がおらんのだ。腐肉を漁る、のが蛆虫のみと、は、おかしい……」


 由吾郎たちが村に入るまで異変に確たる自信を持てなかったのは、動きがなかったためであった。烏が群がり飛び回っていれば、物見の為に立ち止まった時点で、この事態に気が付けたのではないか。

 隊列を方陣に変え、一軒一軒、様子を見て回る。どこもかしこも、死体、死体、死体。

 頭が割れているだけの死体は状態がいい方で、完全に息の根が止まるまで執拗に叩き潰され、打ち据えられているものが大半であった。

 ごぎ。


「べぎゃ」


 不意に由吾郎の後方から鈍い音が聞こえ、斧持ちの一人が倒れ込んだ。


「ひ」


 がづり。

 ごががががががががががが。

 松明持ちが、鉈のようなもので打ち据えられ、滅茶苦茶に踏み潰されて、穴の開いた皮袋と成り果てた。


「うううううううううううううう」


 黒き衣を纏い赤き鶏冠を戴く人よりもなお大きな軍鶏が、唸り声を発しながら血走った赤い瞳で由吾郎たちを睨む。

 軍鶏の手羽元から、ずるりと一本、黒々とした腕が伸び、三本の指で刃の潰れた鉈を掴んでいる。

 由吾郎たちは脳が理解するよりも先に全身で理解した。

 有場村から人が来ないのは何故か。

 有場村に向かった者が戻らないのは何故か。

 鳥の近づかぬ村に広がる死体を作り出したのは『何』か。

 あの怪鳥が、引き起こしたのだ。

 ついに由吾郎たちは遭遇した。あれこそが、『怪鳥軍鶏変化』である。


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