有場村の弓之助
南州の山の中、有場村というところに、弓之助なる男がいた。
幼少より大柄で、膂力に優れていたが、性根に著しい問題があった。
「うううううううううううううううう」
生来気性が激しく、かっとなるとまるで分別がつかない。ふとしたことで人を殴り、どうでもよいことで喧嘩をし、つまらないことで叱られた。
「手の付けられぬ悪童よ。困ったものじゃ。大きくなれば落ち着くようになるかのう」
村人たちは暴れる弓之助を見かけるたびに、親の如く諭したり、獄吏の如く折檻したりして、何とかこの小さな暴れ者を人並みにしようとしたが、弓之助の気性はちっとも変わらない。暴れるたびにより暴れ、説教のたびにさらに気性が激しくなっているようにも思われた。
「あれは、ああいうものじゃ」
説教をする者も、折檻をする者も、少しずつ減っていき、有場村において弓之助は当たれば不運というような災害の如き扱いをされるようになった。
長じるにつれて、元より大きな弓之助の背丈はぐんぐんと伸びていく。背丈に比するように気性はますます激しくなっていき、一度暴れると、もはや村の誰も手を付けられない。
「ご内儀さんよ。弓之助はどうにかならんかね」
「へい申し訳ございません。よくよく言って聞かせます。ご勘弁ください、どうか、ご勘弁ください」
病弱な母は、健やかな弓之助が荒事を起こすたびに村人たちから弓之助をかばったが、気性の激しさだけはどうにも抑えられなかった。
「せめて人並みの分別をつけておくれ」
骨に皮が貼りついたような容貌で、母は病床より繰り返し弓之助を諭すものの、当の弓之助には煩わしいばかりである。
「ううううううううううううううううう」
病床で弱々しく弓之助を見つめる母の目が、弓之助には忌々しく思えてくる。
一方で村人たちは、そんな病弱な母に同情し、なにかれと世話をする。病み衰えた容姿と相反する剛健な弓之助との対比が、あの暴れ者の母という、一番の被害者として、村人たちに憐憫の情を感じさせたのである。
はてさて、弓之助を止める者は有場村にいないのか。
村人たちが弓之助との関わりを避けていった中で、ただ一人、弓之助の父だけは、己よりも大きくなった我が子に説教をした。
薬売りとして遠くの町まで行商に出る父は、二~三週間に一度、有場村へ帰ってくる。そしてその度に村人から弓之助の行状を聞く。
その日の夜は、説教となる。酒の入った父の声は昼よりも大きく野太く、説教は家の外まで響いた。
「母の言うことが聞けんのかっ」
しかし、弓之助には父の説教も苛立たしいだけで、まさに糠に釘を打つが如し。
「その目はなんだ!」
説教の甲斐なく、弓之助の気性はますます荒くなっていき、あわせて父の怒りは増すばかりである。
「ええい、弓之助ぇ!」
「お止めくださいませ、お止めくださいませ」
猛る父の足元に、病める母がとりすがり、説教は終わる。
説教の間、弓之助は何も言わない。押し黙って父の説教を受けている。反論は、ない。
暴れているときも、弓之助は何も言わない。唸り声、叫び声は何かを発していたが、意味を持つ言語の体をとっていなかった。
弓之助自身が、荒れる気性の根源がどこにあるか自覚できなかったのだ。
当人の知らぬ当人のことを他人が知るには、触れ合う年月と分かりあう努力が必要だが、有場村の誰も、弓之助の心中を知ることはなかった。
あるいは、知ろうとはしなかった。
父も、母も、村人たちも、内心では弓之助を恐れているのだ。
内心の恐れを打ち消したいがために、父は殊更に強く説教をした。母は息子をかばった。村人たちは母の世話を焼いた。
誰も、弓之助を見ることはなく、弓之助もまた、誰も見てはいなかった。そしてそのまま時が過ぎ、運命の夏がやってきた。
周囲の山から熱気が沈み込み、うだるような暑さが有場村にやってきた。昨晩の雨は熱気を流し去るどころか、じめりとした湿気だけを運び込み、拭っても拭ってもべたべたとした汗がまとわりつく。
そんな夏のある日のこと、ついに弓之助の父の怒りが爆発した。土間に弓之助を正座させ、仁王立ちで見下ろしながら、がみがみとした怒声が響く。あまりの剣幕に、母は近づくこともできず遠くの布団でおろおろとしているのみである。
さんさんと照る太陽の光が、小窓から入ってきた。どこかで蝉が鳴きだす。
じーくじーくと蝉が鳴く。
瞬転。
かっとなった弓之助は父の頭をしたたかに殴り倒し、三和土に倒れ込んだ父を、声の出なくなるまで踏み潰した。
父の説教の、何が弓之助を駆り立てたのか。ある一言がきっかけか、はたまた今までの説教の積み重ねたか。もしくは、そういった理屈の外にあることか。
「ううううううう」
弓之助の父は、土間となった。
「ひぃ、ひいいい、弓之助、弓之助!」
母は悲鳴を上げて弓之助に這いより、がりがりの腕を弓之助の足に巻きつける。五月蠅かったので、静かになるまで首を絞めた。
全ての声が聞こえなくなると、静寂だけが弓之助を包みこむ。
ほう、と一息ついていると、どれだけ時間が経ったのか、なにやら再び騒がしくなってくる。
「弓之助、これはどういうことじゃ」
村長がやってきた。周りには若い衆が幾人か付き添っている。
なんだ、どういうこととはどういうことだ。
弓之助の頭に血が上ってきた。
五月蠅い五月蠅い五月蠅い。
「うううううううううううううううううううううううううううう」
雑音が、ぐわぐわと弓之助の周りを飛び回る。雑音は虻か蝿の羽音にも似た喧騒となり、弓之助を狂騒に駆り立てる。
弓之助は、ばぁ、と跳ね飛び村長の額に頭突きをした。ぐらり、と村長が揺れると、がしりと両手で両肩ごと村長を押さえつけ、幾度も、幾度も頭突きを喰らわせる。
幾度も、幾度も、幾度も。
若い衆が二人を引き剥がそうと割って入るが、弓之助の巨躯を押し留めることはできない。逆に、振り飛ばされて壁に腰を打ちつける始末である。
ばだん、だばん、と壁が鳴る。がぎり、ごづりと骨が割れる。
村長がすっかり静かになると、弓之助は血まみれの額をぬぐいもせず、倒れ込んでいる若い衆に近づいていく。
「た、助けてくれ!」
「やめて、ころさないで!」
「死にたくない。ひい、きいぃい」
若い衆の目には、弓之助の背丈が一回りも二回りも大きく見えている。彼らには、それが弓之助に起きた異変なのか、己の脳が見せた幻覚なのか分からない。どちらにせよ、まともに動けないのだ。哀れ床を蛆虫の如く這いずるばかりである。
彼らの悲鳴が、弓之助の狂騒を助長させていく。
五月蠅い五月蠅い五月蠅い。
弓之助の眼前で、蛆虫たちが弾けてぶわぶわぶわと幾百もの蝿に変わっていく。
蝿は弓之助にまとわりつき、べやんべやんと羽音を唸らせる。
刹那。
弓之助の怒髪は天を衝き、蝿の群れを振りほどかんと腕を振り回し、足を踏み鳴らした。
だん、だん、だんと足で床を踏み鳴らすたびに、徐々に蝿は数を減らしていく。蝿の死骸が、ぶちゅりと手足に染みついていく。
逆立った頭髪は血のりで赤黒く固まり、鶏冠の如き異様な形態となっている。血の染みた衣服の黒さは言うまでもない。
目は血管の網が縦横に走り、白い部分の方が少なかった。
異様な風体と成り果てた弓之助は、一足飛びに駆け寄っては、手当たり次第に砕き、踏み潰し、血の雨を降らす。
一羽の巨大な軍鶏が、そこにいた。
軍鶏は音を潰す。潰れた音は消える。
潰して潰して潰し尽くすと、やがて静寂が訪れる。
そして、静寂は破られる。
鍬や鉈を手に、村人が次々と集まってきた。弓之助の家を囲み、少しずつ、輪を縮めてくる。静かに、静かに近寄る。足音を立てないよう、息をひそめて近寄っていく。
だが、偽物の静けさに気付かない弓之助ではない。
じゃりじゃりと、砂が擦れる音がする。
空気が揺れている。
ふゆりふゆりと、布が触れ合っている。
にやけ面をこらえながら綿毛で耳をくすぐるかのような気配を感じて、弓之助は頭を掻きむしって歯ぎしりした。
「ううううううううううううううううううううううううううううううううううううう」
ちろり、と村人の一人が小窓から中を覗く。
「あっ」
惨劇を垣間見た村人は、あまりの惨たらしさに思わず声を上げた。
引き金は、引かれた。
発条で弾かれたように家から飛び出した弓之助は、手当たり次第に殴りかかり、倒れた村人を踏み潰まくった。
「べじゃ」
「がぎゃ」
そうと気が付く前に、弓之助の手には、村人の誰かから奪った鉈が握られていた。
がずむ、ごずむと音がする。熟したざくろの実のように、頭蓋が割れていく。でろり、と脳みそがこぼれ出る。
「ひええ」
我先にと逃げ出す村人たち。追いかける弓之助。
命の光が次々と消えていく。
そうだ。これでいいんだ。
女子供の泣き声が聞こえる。
だめ。
滅茶苦茶に振り回した為にとうに刃の潰れた鉈を手に、弓之助は駆け回る。ぴちり、ぴちりと光を消していく。星が回る。ぐるぐる回る。
「ううううううううううううううう」
唸り声を発し、弓之助は走った。
星が光る、次はここか。
月が笑う、弓之助が駆ける。
「グキェエエエエエエエエエエエエエ」
あちらで星が瞬くと、こちらで音が消える。
すっかり夜が更けると、村は完全に眠りについた。
「グケ、グキキイキイイイイイウウウウウ」
有場村には、目を血走らせて鳴き続ける、一羽の軍鶏が残るのみであった。