決着
どれほど時間が経ったろうか。一瞬のことのようにも思えるし、長い夢のようにも思える。忘れかけていた思い出。忘れようとした思い出。
折に触れ、蘇ることはあった。まるで関係ないことが頭の中で結びつき、虚像と実像を重ね合わせたことが。しかし、今までそれらの幻と弥三郎の間には、悠久の距離があったのだ。
死を隣に感じたことで、弥三郎は思い出に近づいた。思い出が近づいたのか、弥三郎が近づいたのか、あるいは両者が歩み寄ったのか。
秣に囲まれた闇の中で、弥三郎は思う。
「これを喰らえば、恐らく痛みは消え、傷も癒えるだろう」
本能の声が誘う。
(そうだ、そうだ、そうだ)
「これを喰らえば、千倍万倍の力を得るだろう」
(そうだ、そうだ、そうだ)
「こいつを喰いたい、気持ちはある。幾度も夢に見たのだ。こうして秣に埋もれていると、実感する。これは、夢よりもなお、素晴らしいものに違いあるまい」
(ならば立ち止まるな。喰え、喰ろうてしまえ。力を得て、村人の無念に報いるのだ)
「否……」
死の淵に立って、弥三郎は思う。
何故、ここに来たのか。
「そもそもだな、村人がどうとか無念がどうとか、そんなものの為に来たんじゃない」
(なんだと)
「おれは、牛になりたくないから、ここに来たんじゃあないのか?このままでは牛になりますよ、なんていう訳の分からん因縁で、あのよく分からん鳥を討ち取りに来たんだ。ここでおれがこいつを喰うのは、ないだろうが……」
(ならば、どう勝つ。お前はお前の身勝手な願いで、軍鶏変化の被害を止めないつもりか?)
「身勝手、か」
(そうだ)
「ふざけるなよ。これが身勝手な願いであってたまるか」
弥三郎の血がたぎる。心の奥底から、気力が湧き上がる。
「おれが身勝手を通す機会は、もっと前にもあったはずだ。維盛様の切腹なぞ、是が非でも、それこそ攫ってでも止めればよかったのだ。……、なぜそうしなかった。たかだか半年前に士分になったおれが。皆から『南州一の武芸者』などと呼ばれ、天狗となったか」
(……)
「おれは、維盛様から賜った士分と維盛様とを天秤にかけ、士分を選んだのだ。ふざけた話じゃないか。そう、その時から、おれには軍鶏変化に勝つ道は、一つしかなかったということだ」
(道、とは)
「士分として、力の限り戦い、勝利する。牛変化となっては、それは果たされない」
(士分として、か。貴様の士分とは?)
「維盛様は言った。多くの者の助けとなれと」
(負ければ、全てが無に帰すぞ)
「勝っても牛になったら意味ないんだよ。おれが士分足り得るには、なによりもまず人でなくてはならん」
(言っていることが滅茶苦茶だな)
「おれはだな、ここに来る前に『待っていてくれ』と言った相手がいるんだ。牛になったら、宮司や権兵衛どんに会わせる顔がないだろう。消えろ。畜生になぞなってたまるか……!」
(その痛みを抱えて、どう勝つというのだ。立てるのか?歩けるのか?下らん意地を張るな……)
「無理は、承知。痛いなんて言っていられるか」
(ならば行け、行って死ね。後悔の中で死ねっ)
本能の声は霧散して消え去った。弥三郎に道が開かれた。
秣の山から這い出し、気力を込めて立ち上がる。頭に回る血が足りなかったのか、弥三郎はふらりとよろめいた。
「げっへ、がはっ……、あ~」
喉に溜まった血を吐き出して、片鼻を押さえて鼻血を飛ばす。ずるずると足を擦りながら、牛舎の入り口を目指す。蛆蝿藪蚊が、弥三郎の気迫を前に動きを止める。
「うううううううううううううううううううううううう」
怪鳥の呻き声が聞こえる。
「今、行くぞ」
弥三郎の歩みは鈍かった。満身創痍で、絶えず左右に揺れている。足は満足に上がらず、ぬかるみも水たまりも構わず進むので、あっという間に膝ぐらいまで泥だらけとなった。
体力の低下は著しい。村中に槍や弓が落ちているが、武器を取りに行っているうちに倒れて、そのまま起き上がれなくなる可能性があった。
こつん、と足に何かが当たる。
「ん?」
泥にまみれた脇差。村人の誰かのものか、あるいは代官たちのものか。
「こんなんでも、無いよりは、ましか」
弥三郎は脇差を拾い上げて、右手で軽く握った。
「ううううううううううううううううううううう」
軍鶏変化が弥三郎に気が付き、一際大きな唸り声を上げる。巨体を怒張させ、力に満ちた威容を誇る軍鶏変化に対して、弥三郎の様子はといえば、風に揺れる柳のように頼りなかった。
「力比べは、さっきやったろう」
ふらりふらりと近づく弥三郎、鼻息荒く待ち構える軍鶏変化。
「ううううううううう」
剛腕の一撃が、弥三郎を襲う。怪鳥の攻撃は弥三郎の左肩をかすめ、弥三郎は鋭く回転した。回転の勢いのまま、脇差で軍鶏変化を斬りつける。
軍鶏変化の攻撃を紙一重で躱し、その勢いを殺しつつ、自身の攻撃に上乗せしたのだ。
怪鳥の右腕は続けて連撃を繰り出すが、悉く躱され、反撃を受ける。
「うううううううううううううううううっ」
無論、小刀による斬撃に過ぎず、どれも致命傷には至らない。また、軍鶏変化には、胸を槍で刺し貫かれても蘇る、恐るべき再生能力がある。黒煙が切り傷を次々に塞いでいく。
しかし、積み重ねていくうちに、怪鳥の切り傷は増えていった。増えるごとに、軍鶏変化の傷口から昇る黒煙は、濃さを増していく。増え続ける傷口に、再生が追いつかないのだ。黒煙の中で、剛腕が空を切る音が聞こえる。
死に体の弥三郎と、再生を繰り返す軍鶏変化。軍鶏変化の絶対的優位はいささかも崩れていないが、風に舞う木の葉の如き対手を前に、軍鶏変化はいら立ちを隠せなかった。
「人間らしくいらいらしてんじゃないよ」
弥三郎の脇差が、軍鶏変化の首筋を斬る。太い血管を斬ったのか、噴水のようにどす黒い血が噴き出した。
「うううう、ううううう」
すぐに軍鶏変化の首から黒煙が出て、傷口を塞いでいく。噴き上がる血流と昇り立つ黒煙で、軍鶏変化の視界が遮られた。軍鶏変化は首を振り、弥三郎と距離を取ろうとする。
「お辞儀が上手いな」
頭の上の、さらに上にあった怪鳥の頭が肩の下まで降りてきたのを見計らって、弥三郎の脇差は電光石火の早業で、軍鶏変化の左目をくり抜いた。
「う、う、うううう、ううううううううううううううう、ううううッ」
軍鶏変化が唸る。途切れがちな唸り声は、明らかに怪鳥の混乱を示していた。
泥の中に、軍鶏変化の左目が転がっている。軍鶏変化の眼窩から黒々とした血が、涙の如く流れ始めた。
「あるものは治せるだろうが、ないものはどうだろうな」
両足を踏ん張り、かろうじて立っている弥三郎は、軍鶏変化の混乱に乗じて三連の斬撃を放つ。神速の妙技は一瞬にして三角形に怪鳥の表皮を斬りつけた。すかさず、切れ目に左手を突っ込み、羽毛ごと薄皮を剥ぐ。
「うううううううううううううううううう」
がむしゃらに腕を振り回すものの、僅かな動きで全て避けられる。
「いままであったのが、ないと、慣れるまで大変だろう」
軍鶏変化には、今まで左目で見えていた部分が全く見えていない。左目がくり抜かれた眼窩はものの役に立たず、ただ血を垂れ流すのみ。攻撃は粗雑になり、弥三郎にも容易に軌道が見えた。
見えるばかりでは避けることはできない。弥三郎の回避運動は、重心の移動によるよろめきを巧みに利用し、最小の力で最大の効果を発揮している。
極限状態における究極の脱力――。天空に架けられたか細い板の上を渡るが如き行いであり、五体満足であればまずやろうとは思わなかっただろう。
怪鳥が当たらぬ攻撃を繰り返しているうちに、弥三郎の皮剥ぎは新たに三度も行われていた。黒々とした体躯のところどころに、赤い肉が見え隠れしている。
黒煙は消え去っており、いくら弥三郎が皮を剥いでも、新たな発生はなかった。
「こっちも必死なんだ。そっちも必死になってくれよ」
「ううううううううううううううううううううううううううううううううう」
流れ出た血が地面に溜まり、軍鶏変化の姿を黒い水面に映す。怪鳥は右足で土を蹴りつけ、血と泥とを撥ね飛ばし攪乱を試みるが、その程度では弥三郎は狼狽えなかった。逆に、高々と蹴り上げた足に狙いを定め、爪を指の根本で一本斬り落とす。
「ぎ、ぎぎいいいい」
欠損に動揺したのか、たまらず怪鳥は転倒した。軍鶏変化は怪異なる黒腕を足代わりに立ち上がろうとするも、今度は黒腕の指に脇差が突き立てられる。ぶつり、と指が飛んだ。
「ぐげぎ、ぐぎっ、ぐぎっ」
軍鶏変化の唸り声は、叫び声に変わっていた。軍鶏変化は皮を四箇所剥がされ、左目はくり抜かれ、右腕と右足の指は一指ずつ斬り落とされている。
だが、怪鳥はやられっぱなしではなかった。突き立てられた脇差を握りしめ、
「ぎぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」
怪力を以て粉砕してしまった。
「ッ」
横転して避難した弥三郎だったが、再び得物を失ってしまった形である。無手同士の戦いとなると、弥三郎の不利は歴然。あの一撃を再度喰らうことは、死と同義だった。
怪鳥は弥三郎を見据え、拳を構える。弥三郎を牛舎まで吹き飛ばし戦況をひっくり返した、あの場面の再現である。
とはいえ、状況は先ほどと全て同じというわけではない。
「ぎ、ぎぃ、ぐぎ」
「どうした、息が上がっているぞ」
軍鶏変化からは多量の血が流れ出ており、足元のぬかるみ著しい。一指足りない右足は地を掴むに十分ではなかった。片目のみの視点は立体感に欠け、目測を見誤る可能性がある。なにより、怪鳥の右腕は満足に拳を握れていないのだ。
恐るべき威力を誇る剛腕がその力を減じていることは明白だった。
依然として弥三郎に反撃の手段は無いが、かといって軍鶏変化にも一撃で勝負を決するには足りない。
両者の間に緊張が走り、膠着状態が生まれた。
先に仕掛けたのは、軍鶏変化であった。強弓と見間違う必殺の一撃を、弥三郎に見舞う。しかし、いかに満身創痍といえど、先ほどの弥三郎とは違い、僅かながらも動くことが出来た。
結果、怪鳥の一撃は空を切り、空振りの隙をついた弥三郎は無防備の右足を踏みつけて傷口を潰した。
「ぎぎぃいい」
軍鶏が叫ぶ。一旦距離を取り、再度の睨み合い。
「…………」
「うううううううううううううううううう」
軍鶏変化が唸る。
「うううううううううううううううううううううううううううううう」
唸り続ける。
「うううううううううぎうぎぐぐううううううぎぎぎいぎううう」
唸り声は呻き声に変わり、
「ギェエエエエエエエエエイイイイイイイイイイイイイィイウウウウウウウウウウ」
鳴き声へと変わった。耳をつんざく高音が響き渡る。とっさに耳を塞いだものの、鳴き声は鳴りやまない。
すると、どうしたことか。弥三郎は足元から崩れ落ち、まともに立っていることが出来なくなった。
「な、なんだ。これは……!」
思いもよらぬことだった。
弥三郎の視界が歪み天地が鳴動している。弥三郎が初めて聞く怪鳥の鳴き声は、聞く者の平衡感覚を狂わせ、その場に釘づけにするという、魔性の怪音波だったのだ。
「そりゃあ、そうだよな」
不思議なことだが、弥三郎は平太から聞いたことのない、全く初めての攻撃を受けたというのに、その攻撃の『必然性』に妙に納得がいった。
有場村の人口は、十人やそこらではない。村に残されたおびただしい腐肉がそれを物語っている。では、なぜ彼らは逃げもせず、襲われるままに死んでいったのか。
人の味を覚えた羆や虎が集落を襲い、集落に被害が出た時でさえ、犠牲者よりも生存者の方が多いのが常である。逃げる者を追いかけるにしても、限度があるのだ。全滅というのは、いかにも現実味のない話だった。
そう、全滅――。
命からがら逃げ延びた平太を除き、有場村に来た者は老若男女問わず皆殺しである。軍鶏変化という理外の怪物をしかとこの目で見るまでの、弥三郎の抱いた現実感の無さは、この『全滅』という結果によるところが大きい。
無論、軍鶏変化自身の強大な力は、並の者に太刀打ちできるものではない。羆や虎とは違う。しかし、それにしても――。
「全滅は、おかしいんだよ、どう考えても……。お前は一匹しかいないんだ。ばらばらに逃げれば、もう少し生き延びた者が増えててもいいだろうに。……、これか。この鳴き声か。これを使って、皆殺しにしたんだな……」
天地の区別がつかず、弥三郎は己が伏しているのか仰向けになっているのか全く分からない。もがいて地面を確認しようとするが、触っているのが地面なのか宙空なのか、判然としない。
ぐにょぐにょに歪んだ景色の中を、黒い塊が大きくなったり小さくなったりしている。
「これ、多分お前なんだろうな」
軍鶏変化が近づいてきていることは、想像がついた。このような状況下に弥三郎を叩き落としたのは、軍鶏変化である。ここでとどめを刺しに来ないはずがない。
元より満身創痍の弥三郎は、もがく体力も惜しい。早々に身動きを止めて対策を練る。
「ううううううううううううううううううううう」
怪鳥の右足が、弥三郎を襲う。玉蹴りの鞠の如く、弥三郎の身体が転がっていく。
「ぐぁあああッ」
腹部に衝撃を受け、弥三郎が呻く。
だが、ただ蹴られたのではない。衝撃の瞬間、歪んだ景色の中で蹴られる部位を読んだ弥三郎は素早く反対方向へと転がった。ほんの僅かな先読みとはいえ、それによって衝撃の緩和を成し、間合いをとったのだ。
未だ怪鳥の鳴き声は耳の奥底にこびり付き、平衡感覚を狂わせている。故に、今弥三郎が出来ることは一つだけ。蹴られた痛みを中心に軸を定め、平衡感覚が戻るまでひたすら転がり続けるしかない。
(間が抜けているが、恰好つけられる状況じゃあないからな)
軍鶏変化はというと、絶対の自信を持つ奥の手を前に奇天烈な行動をとられたが為に、追い打ちの機会を逸して立ちすくみ、何も出来ずにいる。
転がり終わって、どうするかは、転がり終わってから考えることにした。
それに、弥三郎には予感があった。軍鶏変化との戦いが始まって何度目の絶体絶命を迎えたのかしれないが、命の危機を迎えるたびに、弥三郎は何かに呼ばれているような気がした。最大の危機にあって、ますます予感は強くなっている。
「最初は、牛になれっていうあれかと思っていたが、どうも違うらしい」
刀は折れ、脇差は砕かれ、弥三郎は武器らしい武器を持っていない。
「ぐ、うう」
じくじくと腹部が痛む。
導かれるようにして転がり続けると、一つの腐肉にぶつかった。
「うっ、と」
充分に転がり、ようやく平衡感覚が戻った弥三郎は、ふらつきながらも立ち上がり、ぶつかった腐肉を見た。その腐肉には首がなかった。
腐肉は骨が覗いており、衣服の外観から、地位の高い者らしい。背は低く、右腕に持ったままの太刀がひどく大きく見える。
「いや、これは……、太刀自体がでかいんだな」
折角だ、この太刀を使おう――。弥三郎が太刀に手をかけた時、どこからか声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。
(君も、またこの太刀を見ることがあったら、ちゃんと受け取れよ――)
風が吹く。あの日の風が。
弥三郎は太刀を持ち、構える。手に馴染むこの感覚、もはや間違いはない。
「そりゃあ、ないよ」
この太刀こそは、かつての弥三郎の愛刀、無双の大太刀『岡本大慈』であった。
ずしりと、重い。
弥三郎の背丈でやっと釣り合いがとれる無双の大太刀も、満身創痍の弥三郎には重く感じられた。
「その辺に置いといてと、言ったのにな。こんなとこまで持ってくるとは」
変わり果てた姿の友に語りかける。
「粗末にしないだろうと思ったのに、雨ざらしか」
夕暮れ時が近づき、にわかに黒雲が有場村の空を覆った。
「もう、君にはこいつは任せられんな」
ぽつり、ぽつりと雨が降り出した。
「もう見ることはないと思っていたのに、な」
瞬く間に、村のあちこちに水たまりが出来始める。
「君も随分と出世したみたいだが、こりゃないよ」
首を無くして倒れ伏す友は、何も答えなかった。
「まぁ、約束したものな」
大太刀を手に、弥三郎は振り返る。
「うううううううううううううううううううううううううううううううううう」
軍鶏変化が近づいてきた。唸り声を上げ、片足を引きずっている。幾度となく聞いた怪鳥の唸り声が、弥三郎にはひどく耳障りなものに聞こえた。
「よう、決着つけようか」
剣をゆるりと太刀を両手で持ち、だらりと剣先を下に向けて、弥三郎は軍鶏変化に相対する。
「うううううううううううううう」
「その唸り声も、聞き飽きた」
弥三郎の声に殺気が籠る。両者の距離が、縮まっていく。
「来いよ。のろま」
切っ先が揺れる。
「ぐぎぇえええええええいいッ」
怪鳥が嘴を開く。再びあの怪音波を発しようとしている。
「やらせんよ」
倒れ込むように前方に進み、低い位置から斬り上げる。大太刀は容易に嘴まで届き、軍鶏変化の嘴を輪切りにした。
「べぎゃぶいぐあいあう!」
「もう、鳴けんだろう」
「あぐえやいうえうぐい」
「うるさい」
横薙ぎの斬撃。怪鳥の両足は吹き飛び、水面に浮かぶ鴨の如き恰好となる。
「ううううううううううううううううううううう」
闘志衰えぬ軍鶏変化は、首を鞭のようにしならせて頭突きを仕掛ける。雨に濡れた刃が弧を描き、怪鳥の鶏冠を斬り飛ばした。
「首を飛ばそうと思ったのに、よく避ける……ッ」
「ウウウウウウッ」
怪鳥の両翼が大きく広がり、旋風を巻き起こして羽ばたいた。束の間宙に浮いた軍鶏変化は、必殺の剛腕を振りかぶる。
「……」
苦し紛れの一撃は、大きく逸れて空を切る。ふらふらと揺れ動く弥三郎は、その場から一歩も動いていなかった。両足を失い、不安定に宙に浮かんだ状態での即興の攻撃とて、先ほどまでの弥三郎ならばあるいは怪鳥の執念は実ったかもしれない。だが、太刀を構えた弥三郎には通用しないのだ。
弥三郎は逆袈裟斬りを狙う。軍鶏変化は滞空しながらも右腕を俊敏に動かし、己を狙う刃を掴み取った。神速の斬撃を掴み得たのは、ひとえに理外の怪物の人智を超えた本能の成せる業だった。
「う、うううぐうううううううううううう」
「……」
脇差を粉砕した剛腕から、指がぽろぽろと落ちる。長さと重さを兼ね揃えた無双の大太刀は、達人の剣速を以て、理外の本能を打ち破ったのだ。
「ふッ」
弥三郎は手首で剣を回す。ざんばらりと、羊羹を切るが如く、黒々と怒張した軍鶏変化の腕が輪切りになって落ちていく。
「ううううううううううううううううううううううううううう」
怪鳥に、打つ手は無い。
「……ッ」
一閃。
『岡本大慈』が真一文字に光り輝く。
軍鶏変化の周囲から、音が消えた。雨の音、風の音、己の心拍音。
音が消えた世界にあるのは、光だった。夕立の雨粒、風のうねり、木々や屍肉までが、怪鳥には光って見えた。もはや軍鶏変化は唸らない。全ての音は消えたのだ。
物言わぬ軍鶏変化の右目に映るのは、首を失った己の姿だった。