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弥三郎の夢

 南州(なんしゅう)是守村(これもりむら)(さむらい)弥三郎(やさぶろう)は、このところ奇怪なる夢に悩まされていた。

 その夢とは、夜ごとに己が牛に変じ、近隣の牛舎へ入り込んでは、もちゃりもちゃりと(まぐさ)を喰らうというものである。

 夢の中の弥三郎は、布団の中でむくむくと大きくなり、ぐぐいぐぐいと角が伸び、あさ黒い肌の巨牛となるにつれ、空腹でいてもたってもいられなくなる。

 ぺらぺらの布団は巨牛を包むには小さすぎ、すぐに巨牛の四足が布団から顔を出す。


「おれは畜生ではない。これは夢だ、夢なのだ。」


 にょきりと生えた角を隠すように布団を被って、ひたすらにこの恐ろしい夢が終わることを祈っているが、腹中のおぞましき蠕動(ぜんどう)は弥三郎をかの衝動へと突き動かす。

 秣を口一杯に頬張り、思うさま喰らいたくなるのだ。

 気がつくと、どこからか秣の匂いが漂ってくる。近くにある牛舎からか、それとも弥三郎の秘めたる願望が目の前にありもしない秣を思い描いているのか。

 ネズミムギやシロツメクサの匂いが鼻腔をくすぐり、味蕾を刺激する。腸がうねり、涎が溢れてくる。

 ほどよく湿気を帯びた干し草を、すりつぶすように噛みしめ、ごくりと呑み込む様を想像するだけで、弥三郎は狂おしいほどにもだえ苦しみ、干し草の山へ顔を突っ込みたくてたまらなくなる。

 おぞましく卑しき衝動に、弥三郎は戦慄する。


「おれは畜生ではない。おれは畜生ではない……」


 衝動を封じんと、まるで念仏を唱えるかのように、繰り返し自らに戒めの言葉を言い聞かせる。言葉は鎖となり、黒き巨牛を床に縛る。

 しかし、その声はやがて聞こえなくなる。

 代わりに聞こえてくるのは、飢えた牛の嘶きである。牛の口からは絶えることなく涎があふれ、目を見開いて喚きだす。


「ううううううううううううううう」


 牛は伏して蠢いている。言の葉の鎖によって身を床に繋がれた牛は、立ち上がることができないのだ。牛の腹中が唸るたびに、ぎちり、ぎしちと鎖も唸る。

 きゅうきゅうとうねる胃腸の叫びに応じるように、身をよじること四半刻、ついに牛は鎖を引きちぎり、角を振りかざして跳ね起きると、闇の中を、秣の匂いを頼りに突進する。

 もはや、巨牛を止めるものは何もない。

 向かう先は、牛舎の奥の、秣の山である。

 ばくり、ばくりと秣を喰らい、もちゃり、もちゃりと噛みしめて、ごくりと飲み下すと、巨牛は何とも言えぬ幸福の中に浮かび漂う。目の前の秣は尽きることのないように見え、時を忘れて貪り喰らう。

 もう、どれぐらいの時が過ぎ去っただろう、巨牛はふと、足元に水桶があることに気付いた。

 そして、己がぼうとして幸せそうに秣を喰らう姿を水面に映してはじめて、弥三郎は己が牛に変じたことと、ただ本能に任せるままに秣を喰らっていたことを思い出し、恥ずかしさと悔しさで絶叫する。

 叫び声が、巨牛を人に立ち戻らせる。

 全ては夢だったのだ。

 絶叫に目を覚まして布団を跳ね除けると、人の姿の自分がいる。十本の指をわきわきと動かし、両手で幾度も顔をまさぐり、額に角のないことを確認して、それでようやく弥三郎は、己が夢を見ていたと確信するのであった。


「夢だ、夢だ」


 全身が、汗でびっしょりと濡れている。

 自分は、夢を見ていたのだ。何度も何度も、繰り返し呟く。

汗が引く頃にはもう、己が牛に変じていたということが、夢に思えてくる。秣を喰らいたいなどという衝動も、どこか遠いところにある。


「だがしかし、おれは本当に牛になっていたのではないか」


 疑いは消えない。牛であったことを夢だと思えば思うほど、やはり牛になっていたのではという思いが強くなる。


「夢から覚めた今は、秣など喰いたいとも思わぬ。だが、喰う気が失せたのは、思うさま秣を喰った後だからではないのか。おれは、牛になっていたのではないか」


 所詮、夢である、と切り捨てられぬ生々しさがあった。

 汗を拭い、呼吸を整えて布団の中に潜り込むが、眠った途端に本当に牛になってしまう気がする。汗は引いたが心臓は早鐘の如く脈を打っている。

牛になる恐ろしさで熟睡できぬ、目を閉じてまた飛び起きる、というのが、ここ数日ずっと続いていた。

 東の空が白み始め、長い夜が終わったことを知ると、弥三郎はようやく一安心して、雀や鶏の鳴き出すまでの間の、束の間の安息を愉しむのであった。


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