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悪女の娘

作者: 若松だんご
掲載日:2026/08/29

――は? 今、なんつった?


ルルリアは、その大きなハシバミ色の瞳を、パチクリパチクリと何度もまばたきさせた。

若干15歳のルルリア・ルーゼンベルグ。

先月、唯一の家族だった母、アデリシアが闘病の末に亡くなり、遺された屋敷には、若い執事とルルリアだけ。

そんな家に、母と国王陛下に深い交流があったからと、陛下の御子である王太子殿下がいらっしゃった。

我が家に王太子殿下が?

驚くルルリアだけれど、陛下の名代として弔問にいらしたのだとすれば、最大の敬意を持って出迎えなくてはいけない。

母を亡くすのも、そんな身分ある方と接するのも初めて。だけど、精一杯もてなせば、それで問題ないだろう。そう思っていたのに。


          *


「で、殿下。あの、もう一度仰っていただけますか?」


殿下をお通しした応接室。

向かい合ったソファに腰かけて、王太子殿下の発した内容に、腰が浮いてしまった。

わたしの聞き間違い? それとも?


「だから。お前の母親が奪った金を返せ。それだけだ」


わたしと違って、尊大に、まるでこの屋敷の主のようにソファにふんぞり返って座る王太子。背もたれに身を預け、ルルリアのような下々の者にも分かりやすく、下々の言葉で説明してやったぞ――な態度を取り続ける。


「お前の母親が手帳を元に、回顧録を出版する。自分のことを書いてほしくなければ、それなりの対応をしろ。そう言って脅してきたんだろうが」


「はあ……」


手帳? 回顧録? ――脅し?

よくわからなくて、背後に立つ若い執事を見上げる。

どういう意味? 母さまは何かなさろうとしてたの?

母、アデリシアは、先月亡くなった。

半年ほど前、病に冒されていることがわかり、三か月ほど前にはベッドから動けないまでに病状が悪化していた。それなのに。回顧録の出版?

一人娘であるわたしは、何も聞かされていない。

アナタは何か知っているの? 

視線に疑問を載せて執事を見るけど、軽く首を横に振られただけだった。つまり、この執事も聞かされていない話だということ。


「お前の母親は、社交界でも有名な淫婦、毒婦だろうが」


ング。

それはそう。


「舞踏会などで夜な夜な男を漁って、浮名を流した」


ングググ。

それもそう。

母は、様々な男性と浮名を流してきた。

王侯、貴族、大商人、外交官。果ては聖職者まで。

既婚未婚関わらず、あらゆる男と交際し、あらゆる男と寝たという。

母自身から詳しく聞いたわけじゃないけど、わたしたちが暮らすこの屋敷も、そうした男からの贈り物で、生活の資金はも男たちから貢がれたお金で賄われている。

そして、わたし自身もその結果。

時に、複数の男性と関係を持つこともあった母。生まれたわたしは、誰の子なのかわからず、父親のいない子として育てられた。

身持ちの悪い、放蕩な母。

淫婦。毒婦。

わかっているけど、初対面の相手にそれを指摘されると、グッと飲みたくもない息を飲んでしまう。


「浮名を流す、関係を持つだけなら勝手にしろだが。お前の母親は、過去を使って脅しをかけてきた」


「脅し……ですか?」


母が? そんなことを?

世間的に非難される存在であったことは知っているけど、脅しだなんて。


「そうだ。お前の母は知り合った男のことをすべて手帳に書き残していたらしくてな。それを自身の死を前に回顧録として出版する。回顧録に名を書かれたくなかったら、それなりのもの、つまりは金だな。金を払えと脅してきたんだ」


「まあ……」


よそ事ではないのだけれど、驚きが強烈すぎて、どこかよそ事、他人事に捉えているような「まあ」しかでなかった。

あの母が? そんなことを?

わたしにとって、母は、どこまでも優しく明るい母だった。

悪いことをすればものすごく怖かったけれど。そうでなければ、精一杯わたしを愛してくれる、いい母だった。


「それで」


王太子殿下が、ムスッとした声で話を続けた。

わたしの反応がよそ事っぽかったのが、気に喰わないのかもしれない。


「それで。わが父はお前の母親に金を支払ったのだが、お前の母親は出版の前に死んだ。だから、払った金を返せ」


そのために、わざわざこうして来た。

そういうことらしい。

母の遺影を見るでもなく、昔話をするでもなく。

通した応接室に入るなり、ドカッと不遜に座って、開口一番「金返せ」だったのは、そういう理由だったらしい。


――過去のことを暴露する本を出版する。自分のことを書かれたくなかったら金を出せ。


でも。


――本は出版されないまま女は死んだ。だったら、払った金を返してもらおう。


国王陛下が、母との赤裸々な関係を暴露されるのを恐れて金を払った。けれど、出版を前に母が亡くなった。本は出せてないのだから、金を返せ。

国王が直々に金を云々言いにやってくるのは、世間の目もあって憚られるから、こうして王太子が名代としてやって来た、と。そして、そんな名代を任され不服だから、こうして尊大な態度で居続けている、と。


(なるほど)


母を侮辱するような言動。

その理由はわかった。けれど。


「キース、本当なの?」


後ろに立つ執事に問う。

お母さまは本当に、出版を考えていらっしゃったの?

本当に、お金をいただいていたの?

殿下の仰ることは本当なの?

執事として、わたしが寄宿学校に入ってる間も、この屋敷を取り仕切っていたアナタなら、何か知っているのではなくて?


「はい。奥様の帳簿には、それらしい出納がございます」


「そうなの……」


わたしが俯くと、王太子が「わかったか、小娘が」と、フンと鼻息を荒らす。こちらを睥睨するような視線。


(腹立つわあ、その態度)


母が脅したということより、尊大すぎる態度の王太子に腹立つ。

人の家に来て、その態度はどうなのよ?

これでも、母を失った寂しさに耐えている最中なのよ? 亡き母を懐かしめとか、わたしを慰めろとは言わないけど。その態度を改めることはできないわけ?

申し訳ないを凌駕する怒りが、フツフツと体の中に湧いてくる。

なにか。なにか反撃したい。

無駄だとわかっていても、一矢報いたい。

でも、何を言えば、どんな返しをすれば一矢になる?


「――殿下」


グッと拳を握ったわたしの背後からかかった、冷静な声。

キースだ。


「申し訳ありませんが、そのお金をお返しすることは出来かねます」


「なにっ⁉」


「亡き奥様が約束なさった、『お金を渡せば、過去のことを暴露しない』。この点に関して、奥様はお金をいただいた代わりに、キチンと約束を守られています」


それはそう。

病床にいた母さまが、回顧録を書いていた形跡はない。


「お金を払えば書かない。この約束が履行されている以上、返金には応じられないかと」


「ふざけるな!」


ダンっと、間にあるテーブルを叩いて立ち上がった王太子。接客の一環として、置かれたティーカップ二つ。なみなみと注がれ放置されたお茶が、その振動でテーブルにこぼれる。


「それは、あの女が死んだからだろう!」


母さまが亡くなったから、回顧録を書けなくなった。お金を渡したから書かなかったのとは違う。


「ええ。ですが出版されていないということは、約束が履行されているととらえて問題ないのでは?」


激昂する王太子とは反対に、どこまでも柔和で優しいキースの声。


「別に、奥様が亡くなられたからといって、出版できないというわけではございませんよ?」


(――え?)


キースの言葉に驚いたのは、王太子だけでなく、わたしも同じだった。

出版できないわけじゃない? 母さまは、回顧録の原稿を残していらしたの?


「支払われたものをお返しすることはできますが、その場合、出版する回顧録に陛下の行状を記させていただきます。それでも殿下はよろしいので?」


形勢逆転? 

尊大だった王太子が萎んで見え、逆に使用人らしく落ち着いてるキースが大きく見える。


「そういうわけですので」


王太子を言い負かした形になったキースが、恭しく胸に手を当てる。


「当方、殿下を亡き奥様を慕い、弔問にいらした方と思い、お通しいたしましたが。お話が以上でございましたら、お帰り願います」


お帰りは、あちらです。

キースが、応接室のドアへと手で促す。


「只今、当方のお嬢様は、たった一人の肉親を亡くされて、身も世もなく、大変嘆いておられます。そのような娘のもとにいらして、亡くなった母親を『淫婦、毒婦』などと仰られるのは、いかがなものかと」


ニッコリ。

とってもニッコリ笑っているのに。


「殿下は、未来の治天の君なのですから、民草の心を慮る余裕を持っていただきたいと存じます」


――サッサと帰れ、この野郎。

ブチ切れた怒りが、完璧執事の仮面の下から、ムラムラと陽炎のように立ち昇ってるのが見えた気がした。


「ふ、フンッ! 母親が母親なら娘も娘だな。こんな不敬な男を雇うなどと」


捨て台詞? ただの虚勢?

強制的に促され、立ち上がらざるを得なくなった王太子が言う。


「お前のような娘、父上が異母妹として引き取ると仰っておられたが。止めて正解だったな」


異母妹?

わたしが王太子と異母妹だと?

わたし、母さまと王様の子なの?

寄宿学校でも、よく言われた。お前のその瞳の色、国王陛下と同じだって。

母さまが国王陛下のお相手をしてた時期と、わたしを身籠った時期が重なるからって。わたし、本当に国王陛下の子どもなの?


「王太子殿下」


静かに、キースが割り込む。


「お嬢様は、国王陛下の御子ではございません。お嬢様は亡き奥様の子。それだけでございます。国王陛下は、お嬢様の父君ではありませんので、陛下のお心づかいは大変ありがたいのですが――」


ニッコリ。


「お嬢様が、貴方様と御兄妹でないこと。わたくしめもありがたいことだと存じております」


          *


「――ありがとう、キース」


横柄王太子が帰って。

一人ソファに腰かけ直す。といっても先ほどまでいた王太子のように、ふんぞり返って足を組むなんては不遜なことはしない。


「それにしても。母さまは、本当にそんな回顧録を出そうとなさっていたのかしら」


テーブルの上。

王太子を接待するために出したお茶。一口も飲んでないまま冷めてしまっていたけど、もったいなからと手を伸ばしたら、キースに優しく制されてしまった。


「いえ。奥様は一切そのようなものを書いておられません。書くおつもりもなかったようですよ」


「じゃあ、どうして?」


どうして、お金をせびったりしたのかしら?

書くつもりもないのに、お金を払えば書かないでおいてやるってのは、詐欺じゃないかしら?


「それは……」


冷めたカップを二つ回収し、新しいカップにお茶を注いでいたキースの手が止まる。


「おそらく、お嬢様のためだと……」


「わたし?」


「はい。奥様は、ご自身亡きあと、お嬢様がどのように暮らしていくか。そればかりを心配なさっおいででしたから」


「じゃあ、わたしのために、書く書く詐欺を働いたっていうの?」


「書く書く詐欺――。そうですね。そうなりますか」


わたしに注ぎたての温かいお茶を渡し、キースが苦笑する。


「この屋敷の収入は、奥様がご関係を持った相手からの贈り物、ありていに言えば金品で保っておりましたから。それが途絶え、お嬢様が立ち行かなくなることを、奥様は一番懸念しておられました」


母さまは、王太子の言った通り、社交界の淫婦だった。

恋多き女と言えばカッコいいけれど、誰にでも股を開く、淫蕩な女でもあった。

そして、見返りとして金銭を受け取る。

商人でもなければ、貴族でもない。なのに、こうして邸宅を構えられて、三食に困らず生活できたのは、母がそれを生業としていたから。

母さまが亡くなって。その収入源を絶たれた今。わたしが生きていくのはかなり難しい。

母さまのようにその道で生きていけばいいのかもだけど、母さまは、それを望んでいらっしゃらなかった。

母さまは、十三で男を知ったらしいけれど、わたしが十五になった今も、その道を選ばそうとはしなかった。令嬢らしい教育をと、三年前から寄宿学校に入れてくださった。


(母さま……)


だから、書く書く詐欺をしたの?

昔の男を脅して、金を巻き上げて。

少しでもわたしのために使えるお金を遺そうとなさったの?


(わたしのために……)


そんなことすれば、とんでもない悪女扱いを受けるのに。

回顧録を出版しなくても、悪女の烙印は消せないのに。


(母さま……)


もう泣いたりしないって思っていたのに。泣いてばかりじゃ、母さまが心配なさると思って。でも。


「ウッ……」


嗚咽が漏れる。

我慢しようと唇を噛むけど、そのせいで、カップを持った手が、肩が小刻みに震える。


「お嬢様――」


「キース、お兄ちゃん……」


そっとカップを取り上げられ、我慢崩壊、感情が涙とともにあふれ出た。


「うわぁあああんっ! 母さまっ! 母さまっ!」


泣かない。泣いちゃいけないって思ってたけど!


「ど、どうしてっ、死んじゃっ、たのっ……!」


病気だったから。仕方のないことだから。

それは、わかってる。わかってるけど。


「母さまぁっ……!」


亡くなられて一か月経とうがどれだけ経とうが、この悲しみが消えるわけがない。母さまのいない悲しみは、どんな時でも不意に理性をぶち破って現れる。止めることなんでできない。


「ルルリア……」


キースが、お兄ちゃんがそっと、次第に強く腕に力を込めて、抱きしめてくれる。


「お兄ちゃんっ! お兄ちゃんっ!」


本当の兄妹じゃないけれど。母さまに、兄妹のように仲良く育てられた相手。

涙は、その執事然としたキースの服に深くしみ込んでいく。


          *


「でも、キース。どうしてわたしの父親が国王じゃないって、アナタ知ってたの?」


涙も感情も落ち着いて。

それから、改めてキースに問う。

わたしの母は母さま。父はわからない。

けど、わたしが生まれた十五年ほど前。確か母さまは国王とも関係があったから、父親が国王っていう可能性はゼロってわけじゃないと思うのだけど。


「ありえないよ」


くだけた、執事らしくない口調のキース。


「だって。ルルリアは僕が見つけた捨て子だったんだから」


――え?


「はああああっ!?」


一瞬の間。それから津波のような驚き。衝撃。


「ちょっ、待って! わたし、母さまの子でっ、だって! えっ!? ええええっ⁉」


わたしは母さまの子で!

母さまが複数の男を同時に相手にしていたから、父親不明の子で!

父親はわからなくても、母親だけはわかってる。そういう生まれじゃなかったのっ⁉


ハクハク。


上手く疑問が言葉にならなくて、口だけを開いたり閉じたりくり返す。


「ルルリアはね。僕が使いに出た先で拾った赤子だったんだよ」


冷静に、さっきまで王太子が腰かけてたソファに座ったキース。


「僕が拾って、奥様に届けた。奥様に、僕と同じようにここで育ててほしいってお願いしたんだ」


「ちょっ。え? 僕と同じって?」


キースは、わたしに物心ついたころからこの屋敷で働いていたけれど。


「僕もね、奥様に拾われたんだよ」


「えええっ⁉」


「僕の場合、十七年前、8歳で拾われたから、さすがに奥様の子どもってことにはできなくてね。僕はそのまま使用人の扱いになったけれど。君は生まれたばかりのへその緒もついた赤子だったし、女の子だからってことで奥様が自身の子として養子になさったんだ」


十七年前。

当時の母さまは20歳。

子がいてもおかしくない年齢だけど、そこで8歳の子はさすがに。

12歳で子を産んだことになる。さすがにそれはない。

でもそれから二年後、22歳でわたしを拾った母さまなら、生まれたばかりの子がいてもおかしくない。

だから、キースとわたしにそれだけの立場の差ができたのか。


「でも、奥様は僕も君と同じだけの教養を身につけさせてくださった。使用人として厳しく接するなんてこともなく、君に僕のことを『お兄ちゃん』って呼ばせていた」


それはそう。

母さまは、わたしにキースのことを「お兄ちゃん」と呼ばせていた。

兄妹ではないけど、それに近い存在だと、従兄のような感覚でわたしも彼を「お兄ちゃん」と呼んでいた。

けど。


(まさか、そんな裏があっただなんて)


「奥様は、幼い頃からご両親にああいう仕事を強要されて。――御子ができない体になっていたんだ。昔はできたらしいけど。無理矢理堕ろされたりしたせいでね」


真剣に話すキースの声に、深い沈痛なものが混じった。

男と交わり金品を貰う。

それを親に強要され、子が出来たら堕胎させられる。その結果、子を望めない体になる。


(母さま……)


それはどれほどの地獄だったのか。

同じ女として、胸が痛む。胸が張り裂けそうな、鉛を押し込められたような痛み。


(だから、母さまは……)


わたしを大切にしてくださったのだろうか。

産むことのできなかった我が子の代わりに。

同じ女として、わたしに同じ轍を踏ませないために。

わたしやキースを拾って。わたしたちに愛情を注いで。

自らがどれだけ悪評にまみれ、蔑まれても、わたしたちには優しい母であり続けた。

そして、病に冒され、自身の最期を予感した時。自らのすべてを使って、わたしたちにお金を遺そうとした。

お金があれば、わたしたちが路頭に迷うことはない。わたしが母さまと同じようなことをしなくてもすむ。

だから。だから――。

深く、深く瞑目する。


(母さま、ありがとう)


そこまで深くわたしを想ってくださって。

わたしを愛情深く育ててくださって。

これからは。

これからは、先に天国で待っていらした御子といっしょに、仲睦まじく暮らしてください。

わたしは――


「お兄ちゃん」


目の前に座るキースに微笑む。


(わたしは、お兄ちゃんと仲良くやっていきます)


キースが見つけてくれなければ、そんなへその緒つきだったわたしは、一刻ももたずに死んでいただろう。

母さまが育ててくださらなかったら、ここまで大きくなれなかっただろう。

だから。


「ありがとう」


だから、二人に深く感謝する。

母さまには、心の中で。

キース、お兄ちゃんには笑顔を添えて言葉で。


「ルルリア……」


受けたキースが、照れたというか、感動したというか。よくわからない表情になった。


「わたしね。父親が国王なんじゃないかって思ってたの。ほら、目の色がおんなじ、ハシバミ色してるらしいし」


母さまが病で倒れるまで。

在籍していた寄宿学校でも散々言われてた。

お前の母親は不貞の塊。国王陛下も手玉に取った悪女。

だから、お前の父親は国王なんじゃないかって。

バカにして。揶揄する気満々で「王女さま」なんてあだ名で呼ばれたこともあった。

だから、病に倒れた母さまには悪いけど、こうして母さまの看病を理由に、家に帰ってこられたのはうれしかったし、そのまま悲しみから学校に戻らなくてもいいのは助かった。


「でも、違った。違ってよかった」


「ルルリア……」


「あんなクソが異母兄だなんて。考えただけで鳥肌立っちゃう」


あんな横柄な、人の気持ちも考えられないような男が異母であっても兄だなんて。

その上、出したお金を返せだなんて。とんでもないシブチンケチケチ野郎。


「わたし、キースがお兄ちゃんでよかった」


キースがわたしを見つけてくれたから、母さまの子になれた。母さまに出会って、母さまに愛しまれて育った。

この縁は、キースが結んでくれた縁。

まあ、そうじゃなくても。わたしーー


「僕としては、『お兄ちゃん』はうれしくないかな」


うれしくない?

わたしの兄なんか嫌だった?

ポリポリと軽く頭を掻くキース。

わたしが妹なの、不満だった? それとも、母さまに拾われた時期が違って、キースは使用人、わたしは令嬢になったことに不満が?


「だってさ。僕が『お兄ちゃん』のままだと、ルルリアに求婚できないじゃないか」


「え――?」


求婚?

まばたきをくり返し、キースの言葉を反芻する。

キースがそんなわたしを見ながら立ち上がると、こちらに歩いてきた。


「僕はね、ずっとルルリアのことが大好きだったんだ。兄としてじゃない。一人の男として」


キースがわたしの手を取る。


「それでなくても、僕と君とじゃ立場が違うってのに。そこに『お兄ちゃん』まで加わったら、僕は君に想いを寄せることすらできなくなってしまう」


「おにぃ……、キース……」


彼が「お兄ちゃん」を嫌がってるのに、「お兄ちゃん」と呼ぶのは憚られて、「キース」と呼び直す。すると、彼がこの上ない、最高の笑顔を見せてくれた。


「今はまだルルリアが幼いから求婚しないけど。でもいつか、大人になったら僕と結婚して、僕の家族になってくれないか?」


「わたしが?」


キースの?


「うん。奥様は驚かれるかもだけど、でも許してくださる。そう思うんだ」


母さまが?

実の子でもないわたしを拾い育ててくれたという母さま。わたしと同じだけの教育をキースにも授けてくださった母さま。

立場に差はあったけれど、母さまは、わたしにもキースにも同じだけの愛情を注いでくれていた。

わたしに内緒にしていた、わたしの生い立ちをキースにだけ話していたのは、それだけ彼がわたしより年上で、母さまから見て頼りがいのある存在だったからだけで。それ以外の分け隔ては存在しなかった。

ちょっと破天荒な所もある、面白いこと好きの母さまなら、きっと「よかったわね」と笑ってくださる。だって。


「わたし、キースのことが好き」


「ルルリア……」


「でも、この想いは隠さなきゃいけないって思ってたの」


だって、わたしは母さまの娘で。キースは使用人で。

いくら兄妹のように育っても、立場が違うから。この想いは叶えられないと思ってた。

けど違う。


「好きよ、キース」


今はまだ結婚できないけど。

大きくなったら。大人になったら。

わたし、アナタと結婚して、本当の家族になるわ。


「ルルリア」


チュッと優しくついばむようなキスが、わたしの唇に落ちる。


「これは、約束」


ちょっと茶化したようにキースが言った。


「君が成人を迎えるまで、あと三年。それまでに、僕は奥様の遺してくださったお金を元手に、君を養っていけるだけの商いを始めるよ」


「商い?」


「うん。君が寄宿学校に入ってる間、君には内緒で奥様から商売の勉強をさせていただいてたんだ」


そうなんだ。


「でも、どうして内緒だったの?」


「君に教えたら、僕が商いで身を立てて、離れていくんじゃないかって不安になっただろう?」


図星。

おそらくだけど、キースが商いの勉強してるって聞いたら、キースが離れていくって泣いたんじゃないかな。


「大丈夫。商いで失敗しても、僕にはこれがあるから」


ゴソゴソとキースが懐から何かを取り出した。――って。


「それって……」


「そ。あの殿下が気になさっていた、奥様の黒い手帳」


手に収まる大きさの手帳。縁が擦り切れているのは、それだけ長く母さまが持っていた証。


「バカだよねえ、あの殿下も。原稿を書かない、出版してないってだけで、ここに元ネタは残ってるんだって」


確かに。

母さまは、回顧録を書いてないし、出版してない。

けれど、その元となるネタをどうしたか。それは説明していない。


「お金を返せって喚くより、これを寄越せってほうがよかったのに。奥様が出版されなくても、こっちにはコレがある。いくらでもコレをもとに回顧録を出版できるってのにさ」


「じゃあ、その手帳でゆするの?」


もしくは、「たかる」の? それがアナタの言う商い?


「まさか」


キースが笑い飛ばす。


「これはあくまで保険。僕が商いに失敗した時、君を飢えさせることがないようにっていう保険かな。いざとなったら、これをネタにお金を融通してもらうこともあるかな? どうかな? って程度だよ」


ピラピラと、どうでもいいもののように、手帳を振るキース。


「あの人はこういうプレイが好きとか、こう言ってやると喜ぶみたいなネタには尽きないけど――、って。ここから先は秘密だよ」


軽く片目をつむって、口に立てた指を押し当てたキース。

こういうプレイってどういうプレイ? 

知らないはずだけど、級友の話からそれなりに知ってる初心な娘だから、勝手に想像して耳まで熱くなる。


「ルルリア。三年だ」


真顔になったキースが言う。


「君が成人するまでの三年。僕は商いに精を出す。君と結婚できるように。君の夫として名乗れるように」


「わかったわ。じゃあ、わたしも花嫁修業に精を出すわ」


彼が頑張ってくれるのなら、わたしだって頑張らなくちゃ。

学校に戻るのは淋しいし、辛いけど。でもその先にキースとの結婚があるというのなら、そんな素敵な目標があるのなら、わたし頑張れるわ。


「楽しみだな」


手を引き、わたしを立ち上がらせたキース。

頭一つ分背の高い彼が少し身をかがめて、わたしにキスをする。


「でも、あまりに楽しみすぎて、我慢できなくて、一年も経たずに呼び戻しちゃうかもだけれど。――その時は観念して、僕の奥さんになってね?」


キースが、最高にいたずらっぽくて甘い笑顔になった。

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