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聖なる響き

耳で聞く音とは違う。足音でも、声でも、鼓動でもない。もっと奥にあるもの。感情が揺れたとき、心が震えたとき、ほんの一瞬だけ鳴る、形のない響き。

それが、“本当の音“だ。

ただの言葉遊びに聞こえるかもしれないが、それが本質。この世の全てのものは音を持っている。

子どものころは、それが当たり前だと思っていた。母が笑うと、柔らかい鈴みたいな音がした。父が怒ると、低い鐘のような音が鳴った。近所の子どもたちは、風に混ざるような軽い音を鳴らしていた。

人も、自然も。みんな音を持っている。それぞれ違う旋律で生きている。

いつ頃だろうか。音を聞くのが嫌だと思ったのは。自分以外は音を聞けないのだと気づいて嫌になったわけじゃない。逃げることのできない、あのひび割れたような音。崩れかけた弦が、無理に張られて軋むような響き。沈み続ける鐘。

この世界は、明るい音よりもそんな音の方が多いと気づいた。

悲しみは、終わらない余韻としてどこまでも続いていく。

街を歩くだけで、幾つもの音が重なる。笑い声の裏に隠れた、不安の小さな濁り。平然とした表情の奥にある、壊れそうな震え。人は、思っているより、たくさんの音を抱えている。

もしもこんな力がなくて、誰かが「大丈夫」と言えば、その言葉を信じられたかもしれない。

何度か道に迷った時に言ってもらった「大丈夫」という言葉。しかし、その瞬間に鳴る、かすかな軋み。

それが聞こえた時点で、大丈夫というのが口だけだとわかる。本心ではその言葉に責任を持ってはいないし、本気で大丈夫だと思える確証もない。

救われたというのを伝えるために笑うのもぎこちなくなってくる。

「大丈夫だって言ってるじゃないか。何をそんなに心配する必要がある。」

はっはっはと笑いながらそんなことを平然と口にする人間が、この世界にはたくさんいる。

ただ、それとは反対に泣きながら笑う人の音を、知っている。壊れそうになりながら、誰かを守ろうとする音も。声にできない「助けて」が、どんな響きをしているのかも。

「大丈夫」という何の確証もない言葉が、時に人を助けることも十分理解している。

本気で人を救いたくて、「大丈夫」と言う者がいることも知っている。

だが、大丈夫を信じて絶望した者も、声にならない救いが届かずに朽ちていった音も知っている。

そして、言葉ではなく形として残そうとした少女を、知っている。


……広い花畑の中で音を歌っていた少女は、この世界に平和が訪れて欲しいと言った。

「そのために歌を歌うのかい?」そう問いかけた僕に、彼女は首を横に振った。

「私が歌うのはお花のため。」彼女は答えた。

「なぜ花のために歌うんだい?」次の問いに、彼女は少し…いや、ずいぶん躊躇って言った。

「これは私の独り言だからね。」と。

そう前置きをして、彼女は続けた。

「お花のためっていうのは、嘘なの。

この世界には、神様がいる。その神様はみんなを助けてくれて、きっと世界を優しさで包んでくれる。」

「神様……?」長く旅をしていても聞いたことがないそんな言葉に、ここら辺の地域独特の言葉ではないかと思った。

「その神様に来てもらうために、私のお母さんもお父さんもお歌を歌っていたの。だから今度は私の番!」

すごいでしょ、と自慢げに少女は言った。

戦争が続く世界で咲いた一輪の花のように、眩しく凛とした姿だった。

自分の村か街か、それとも一軒家なのかはわからないが、少女がそこへ案内してくれることはなかった。だが、花畑を囲むようにして広がる森では動物も川もあり、食料には困らない。

夜は森、昼は花畑。行ったり来たりしているうちに親しくなり、少女に音楽を教えた。

少女が歌っていたのは、歌ではなく音。その音を元にして、曲を作った。

彼女は喜び、前の街から持って来ていたフルートをあげるとすぐに使い方を覚えて自分の歌っていた曲を吹けるようになった。

「この曲に名前はあるのかい?」

そう聞くと彼女は悩むこともなく、『花畑の聖楽』と言った。

「いい名前だね。」


そんな話をしてから10年以上、いくつもの街を巡って音楽を教えた。

『夜の明ける街』『花畑の聖楽』

いつも教えていたのは、決まってこの二つだった。

しかし、旅の途中で神の存在が禁忌であることを知った。

「聖楽は、神に捧げる音楽の総称…なぜそんな言葉を知っているのかは聞かないが、これ以上それを教えるのはやめた方がいい。」

古びに古びた村でそう言われ、それからは『夜の明ける街』だけを教えるようになっていった。


それからも旅を続けて数年、1人の女性と出会った。

「音楽があれば、世界は平和になれますか?」

重い病気を背負い、いつ死ぬかもわからないという人が、世界の平和を願っていた。

街の人々のため、そして世界を音楽で繋げたいという想いを胸に、彼女は日々音を奏で続けた。

いつも優しい笑顔を浮かべていた彼女の想いに、禁忌と知ってから初めて、あの曲の存在を明かした。

楽譜も、使う楽器も、何も言わなかった。

「そんな素敵な曲を作りたいです。」そう答えて笑った彼女に、

「君なら大丈夫。きっとできる。」と返してしまった。



そして、その“音“は、儚く消えた。

いつ戦いに巻き込まれるかすらわからない状況の中でも活気に溢れていた街は、悲しみの音でいっぱいだった。

しかし、ある音が流れると共に、その悲しみは未来へと向く明るいものに変わっていった。



自分が残したものがどれだけ人のためになっているかなんてわからない。本当の意味でそれが証明されるのは何十年か、あるいは何百年、何千年先かもしれない。

それでも、音を追い続け、音を奏で続ける。


自分ができる限りのことをした結果を、辿っていく。


自己満足か、あるいは贖罪か。自分の音を聞くこともできず、それでも道を進み、道を戻っていく。


…………また一つ、音が消えた。

懐かしの地を思い返し、薄暗い森の中で焚いていた火を土で消して立ち上がる。

新たな道を歩くためではなく、すでに通った道を戻るために。

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