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夜に在る温もり

隠離世の夜は、外界の夜とはまるで違う。空気が澄み、月は丸く、手を伸ばせば触れられそうなほど近い。

なぜか月と対等に存在している太陽も、この世界独特だ。道の左右には、風に揺れる細長い草が青白く光り、ゆらゆらと道案内をしているようにも見える。

━━━━━でも、その光に従って歩いた結果、僕は今どこにいるのかわからない。

「うーん。多分ここさっきも通ったなぁ。」

大きめな独り言を呟いて、僕は草を撫でる。

森の匂い。湧き水の流れる音。遠くで虫の羽音がして、冷たい風が頬を撫でていく。

魔法を使えば、一瞬で帰れる。高高度から位置を確認して終わりだ。

けれど━━━━今日は、魔法を使いたくなかった。

ただ歩いて、この世界の夜を感じたかった。というわけだ。

自分の足で知らない道を踏みしめて、知らない匂いを吸い込んで、知らない音を聞いて。魔法の力を通さず、この土地を味わってみたかったのだ。

だけども。

「……完全に迷ったなぁ、これ。」

立ち止まって空を見上げる。大きい月の周囲を、薄く霞むような雲が滑っていく。幻想的で、美しい。孤独をまるごと包み込むような静寂。

その静寂を破ったのは━━━━━

「姉上、こっちだ!」

風の切れる鋭い音と、駆け寄ってくるような足音だった。

「………?」

振り向くと、草をかき分けて凪翔さんが飛び出してくる。月の光に照らされ、少し息を切らして、まるで僕を見つけた子犬みたいに目が大きく開いている。

「はぁ……良かった、見つけた……! どれだけ探したと………」

「え、その……ごめんなさい……?」

「ごめんじゃないよ。本当に心配……っ」

息を整えきれないまま、凪翔さんが僕の腕を掴む。その掌は、思ったより温かかった。

そして、その後ろから陽凪さんが姿を現す。

「な、なんて長いかくれんぼ………」

長い髪を夜風になびかせ、僕へ歩み寄る。

「探検に行くって言っていっつまで経ってると思ってるんですか!」

震える両脚に手を当てながら、陽凪さんはふと思いついたように顔をあげる。

「あれ………?

どうして魔法で帰らなかったんですか?」

「えっと……」

僕は胸に手を置いて、少し照れながら答えた。

「歩きたかったんです。魔法じゃなくて、自分の足でこの世界の知らない場所を見たかった……そんな、気分で。」

ずっこけた2人を見ながら、僕は苦笑を浮かべるのだった。



「もし、まだやってたら、あの店……寄ってみませんか?」

陽凪さんの言葉に、僕と凪翔さんが顔を見合わせた。

しかし、凪翔さんはすぐに合点がいったようで、

「……行ってみるか」と頷き、陽凪さんも笑った。

夜のひんやりした風の中、角の細い路地へ向かう。街灯の少ない道を進むと、小さな暖簾がゆらゆら揺れている店が見えてきた。

「あ……まだやってる……」鉄製の扉の前に立つと、少しだけ出汁の匂いが漂ってくる。

陽凪さんは遠慮がちに扉を開けた。

からん━━━━

小さな鈴が鳴る音。中から湯気と、優しい香りが広がった。

「いらっしゃい……おや? まさかこんなところに陽光の巫女様がいらっしゃるなんて。

ここで会うのは随分久しぶりだなぁ。」

古びたカウンターの向こうから、白髪混じりの店主が顔を上げた。

「覚えてます?」陽凪さんが少し照れたように笑った。

「そりゃあ覚えてるさ。よく父さん母さんと来てくれてたじゃないか。もう何年も前だけどなあ……」

店主は嬉しそうに目を細めた。

そういえば、2人の両親はいったいどんな人なんだろうか。

近くにいないだけで、どこかで生きているのだろうか。

そんな疑問が湧いてきたりするものの、ここでしなければいけない話じゃないかと割り切る。

「座って座って。ほら、好きなの選びな。

陽光の巫女様とあっちゃ安くしておくよ。」

「いえ、そんなことは………」

「いいんだよ。ご両親にはよくしてもらったからな。」

すみませんと遠慮がちにお礼をしている陽凪さんの横で、僕は前に視線を向ける。

カウンター前の鍋には、湯気を上げる具材がぎっしり詰まっていた。

灰色のぷるぷるした塊は、まるで小さな生き物が跳ねているかのようで、どう扱えばいいのか全く見当がつかない。

その隣には、筒状で中が空洞のものが並ぶ。穴の奥が暗く揺れ、じっと見ていると、まるで鍋の中からこちらを覗いているようだ。

円柱状で白く、半透明に光る大根も、液体を吸ったせいか不思議な存在感を放っている。

さらに目を凝らすと、平べったく柔らかい白い塊が鍋の中で浮かんでいる。表面はふわふわとしていて、見るだけで指で押したくなる衝動に駆られるが、食べ物だと理解してもなお、その感触は想像がつかない。

そして、袋状になったものもぷかりと揺れている。中に何かが入っているのか、膨らんだ形が変幻自在に揺れ動く。鍋のだしに浸かりながら、まるで生きている袋のように見えて近づくたびに息を呑む。

僕は目をぐるぐる回しながら、どうやってこれらを口に運ぶのか、まったく想像がつかなかった。

いつの間にか店主と話し終えた陽凪さんが、どれがどういうものか教えてくれる。

こんにゃく……ちくわ……はんぺん……餅きんちゃく……見たことがあるものは大根くらいしかない。

それ以外にも、色々なものが出汁の中で浮いている。凪翔さんは昔からの好物だと言う、牛すじ。陽凪さんも、子どもの頃いつも頼んでいたという練り物の盛り合わせを頼む。

えーっと僕は………大根かな?あと中に何が入っているのか未知である餅きんちゃく。

「はい、おまちどう。」

鍋から掬い上げられて取り皿から立ちのぼる湯気が、僕たちの顔をやわらかく照らす。

箸を入れると、大根の中心まで出汁がしみている。口に入れた瞬間、ふわっとほどけて、温かさが全身に広がる。

「……おいしい……」

その言葉に、陽凪さんが満足そうに頷き、凪翔さんは目を閉じてゆっくりと味わっている。

「変わらないですね……この味。」陽凪さんが呟き、

「……ああ。父さんが隠離世一って言ってた理由、今なら分かる。」と凪翔さんが少し微笑む。

店主が照れくさそうに笑う。

「そんな大げさな……だが、またこうして食べてもらえたのは嬉しい限りさ。」

そんな店主の声を聞き、やはり年上の人は敬語を使っていない方がしっくりくるような気がするなんて思いながら凪翔さんを見る。

そうこうしているうちに、最近の慌ただしさを晴らすように、温かい店の中で夜は更けていった。

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