大蛇
昼の太陽は眩しいほど高く、空には雲ひとつない。
そんな中、体を押しつぶすほどの質量を持った雨が降り続ける。
その力は、前方。巨大な湖から出ている。
大気が爆ぜるように、轟音が何度か響く。
何が起きている?
ついに湖まで辿り着くと同時に、その中心が持ち上がる。
水柱が天に吼え、太陽の光を乱反射する。
周囲一体が眩しさと水蒸気で真っ白に染まる。
その水柱の内部で、八つの影が動いた。
そして━━━━━八の頭を持つ巨大な怪物が、姿を現す。
湖から現れた巨大な八つの頭を持つ大蛇が湖から身体を抜き上げた瞬間、巻き上がった水飛沫は雲のように空を覆って滝を降らせる。
この世界にありえぬ現象。晴空で、土砂降り以上の雨。
髪が濡れ、服に張りついていく。
それでも僕は、湖のほとりに立ったまま動かない。
やっとわかった。
日が経つにつれて曇っていた彼女の瞳は、今日が1番暗かった。
その要因は、おそらく前にいるこの怪物。
姉上が、この湖に何か秘密があるのではないかと言っていたのがドンピシャで当たった。
小さく息を吐き、その全貌を視界に捉える。
その刹那、八つの首が一斉に空へ向けて咆哮する。
「━━━━━━━━!!!」
その振動だけで湖面が割れ、水が巨大な渦となって四方へ盛り上がる。
一刻でも早く、彼女を安心させてやらなければ。
それだけの意思で、一気に決着をつけにいく。
「颯律ノ座」
湖岸から風の円環が放たれ、足元の雨粒を巻き取りながら、境界が形作られていく。降り続ける豪雨の向きが変わった。
通常なら下へ落ちるはずの雨が、境界の内側では風で吸い上げられるように流れ、逆巻く竜巻に飲み込まれていく。
次の瞬間八つの頭が、まるで稲妻のように別々の動きで襲い上がってくる。
一本目━━湖面を滑るように高速突進。
二本目━━上空から急降下。
三~五本目━━左右から空間を塞ぐように同時攻撃。
六~八本目━━湖底に潜り、水中に引きずり込みにくる。
速いが、動きが読めないわけじゃない!
そう思った瞬間、大蛇の尾が境界を打ち付ける。
━━━━━亀裂。
それを認識するのとほぼ同時に、境界が砕け散る。
「嘘━━━━━」
咄嗟に風に乗り、襲い来る頭を躱して距離をとる。
頭と尾が全て視界に入っていることを認識し、足場を失った湖に風で水面に立つ。
たった一回の攻撃で……しかも物理的な力だけで境界が壊された。
初手から切り札を切ったのはミスだという考えの反面、最後の最後に切り札に頼っていては敗北していた可能性を感じ取る。
思考の最中、八つの首が同時に僕へ飛び込んできた。
空気が裂ける音。湖が爆ぜる音。空が崩れるような衝撃。
避けるのがやっとだ。風の刃を飛ばしても、それは大蛇の首に食い込むことすらなく消えていく。
体の強度ですら、今までの敵と段違いだ。
足元の水を風で押しのけ、小道を駆け出す。しかし、大蛇の動きはさらに早くなる。
「━━━ッ!?」
咆哮とともに、ひとつの首が湖水を吸い込み、吐き出した。
数十、いや数百。
無数の水の槍が湖中に降り注ぐ。
逃げ場を作らないとでもいうように、乱雑に降り注ぐ槍が体に突き刺さる。
「ぐぁっ……!」
肩に一本。脇腹にも一本。腿、背中……次々に刺さっていく。
熱い。痛い。呼吸が乱れて、胸が締め付けられる。
湖に垂れた血が水と混ざり広がっていく。
だが、まだ立っている。
まだ、戦える。
もう一度境界を試して━━━━━
「貴様、陽光の巫女の一族であろう?」
突如として、低い声が湖に響き渡る。
「貴様の境界では我を殺すことなどできぬ。
理由は一つ。
境界内に閉じ込める対象として成り立つのは、自身の魂と対象として選ぶ一つの魂。
がしかし、我には八の命がある。一つを捉えようと、残りの七の命は境界に閉じ込められぬ。
そして境界は━━━━━」
「境界の対象に選択する者以外からの攻撃で簡単に崩れる━━━━━━」
認めたくもない事実が、喉の奥から漏れ出る。
「愚かなものだ。
貴様が来ようが、陽光の巫女本人が来ようが、我を殺すことなどできぬ。
それを理解して娘が貴様を逃がそうとしたにも関わらず、その身を我のもとに届けてくれたことには感謝しよう。
娘と貴様、最低でも2人分の供物を得られるのだ。」
大蛇が言い終えた瞬間だった。
真横から影が差した。大蛇の首が横から迫っている。
避けられない。
だが、避けないわけにはいかない。
これを躱せなければ僕は━━━━━━━
がむしゃらに放った風が、噛み砕かれる。
湖面に叩きつけられ、肺の空気が抜ける。
そして気づく。左腕から、何かが消えていた。
「あ……?」
肩から先が――なかった。血が噴き出し、視界が赤く染まる。
「っ、が……あああああああああ……!」
叫んだのか、喉が勝手に震えたのか分からない。
痛みより、恐怖で頭が真っ白になる。
立てない。
息が出来ない。
いまだかつてない恐怖だけが、体を蝕んでいく。
「愚かな人間よ………我が供物となるがいい。」
視界が滲んで、世界の輪郭が揺れている。
血が湖面に広がっていくたびに、痛みだけが鮮明に体の感覚を保っている。
湖から巻き上がる水飛沫が、昼間だというのに雨のように降り続けていた。八岐大蛇の影が、水面の光を揺らがせながら前へ迫る。
その顔は、逃げ道を探して苦しみ悶えるのを待っているかのようだった。
ふざけるな。
脳に、今の今まで感じられなかった感情が生じる。
血よりもはるかに熱い感情。
それが怒りだと気づくのに時間は要さない。
左腕の痛みももう感じない。痛みを処理するだけの体力も残っていないのだろう。それでも、目の前に立ち塞がる敵を滅ぼすための闘志だけは、消えていなかった。
右手を握りしめる。
いつものように、風が応える。
どれだけできるかなんて知ったことじゃない。
ただこの一瞬。
全力をかけてできることをしてやる。
動かない体で、握りしめた右の拳を突き出し、開く。
「颶裂・天断翔…………!!」
呼気と同時に大地が弾け、蒼白い風の奔流が背中から天へ突き抜ける。
絶えず降り続ける水を裂いて、風の刃が突き進んでいく。
大蛇の八つの眼が一斉に、僕の風を見据える。
頭に向けて放った刃は、狙いに当たることなく空を斬る。
ズシャァァァッ!という何かが断ち切られる音が、湖に反響する。
濁流のような断裂音が湖に響き、巨尾が宙へと跳ね上がり、切断面から大量の黒い血が噴き出す。
「貴様………大人しく死んでいればよかったものを……………!」
ずり落ちた尾が湖に落下し、水面が地震のように揺れる。
「……ッ、はぁ……っ……!」
息は荒く、視界は破れた絹のようにぼやける。
大蛇は僕を睨み返す。八つの眼に宿った怒りは、確かに僕一人へと向けられていた。
その視線を遮るように、静かに目を閉じる。
もうこれ以上、できることはない。
刀も、湖の底へと落ちていった。
姉上……………こんな出来損ないの最期のお願いです………………
どうか、彼女を………………
クシナダを助けてやってください……………………
その願いと共に、視界は暗黒に染まり上がっていった。




