金魚鉢
始まりは混沌だった。それから宇宙が生まれた。さらに星が誕生した──。
消滅と誕生を繰り返して、宇宙に、無数の星が存在するまでに至った。そこへ、実は最初から存在していたというややこしいあり方で、地球という星が生まれた。宇宙の法則というものは基本的にややこしいので、星の誕生の仕様もまたややこしい。申し訳ないがそういうものだと思ってもらうしかない。ややこしい。
とにかく地球が誕生した。
地球という星に、あらかじめ決められていたかのように、しばらくして海が生まれた。そしてここぞとばかりに生物が誕生した。まるで宇宙のシナリオに定められているようだった。最初は管状の生物として存在した。入口と腸、出口というシンプルな構造で、現代の人類の学術では腔腸動物と認識されている。
それから、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類、人類が誕生した。その仮定で脳が発達して、体内器官との兼ね合いで脳内ネットワークというものが生まれた。
社会性の始まりだった。
そもそもその社会という概念こそが、宇宙のシナリオの発端にあった。仕向けられて、相対性という法則性の範疇において、全ての生物が、もって生まれた自らの肉体という器に宿り、根元的な欲求に振り回されながら命を体験する。
0と1。無情と感情。無限と有限。それらはアイデンティティとスティグマという、社会性の根幹を覚えさせた。
ちなみに私はその始まりと終わりを見通す、一匹の金魚だった。私は自らの生息する金魚鉢の中で、この世界の全てを観測しているに過ぎない、ただのつまらない魚である。悩みはない。しかし退屈だった。なので世界を創造した。そんなつまらない魚である。創造物でありながら、この世界を創造した。それもまた、なんともややこしいところであった。
ちなみに私は田中家で飼われている。
この家の次女である真奈美が小学二年生の頃、夏祭りに行って、そこで金魚の屋台に興味を示して、我こそはと望んだ結果、一匹も取れなかったのが切っ掛けだ。
「はい、お嬢ちゃん、残念賞」
屋台のおやじが気を利かせて、袋詰めした私を真奈美に差し出したことで、私は田中家で飼われる事となった。その事に関してもただのつまらない金魚に不満はないので、満面の笑みを浮かべて私を見つめていた真奈美に対しても、まあよろしく頼むと思ったぐらいである。
そして始まりと終わりという現象を迎えた。私自身の消滅とは関係なく、器である金魚の寿命が間もなくだった。そろそろ天に召される。
後悔はない、むしろ遣り甲斐のある命を振り返っていた。この家で体験したものはかけがえのないものであった。時を経て──
父親の順次は定年を迎え、これからは釣りを趣味にして生きると言っている。母親の美怜は交友関係に恵まれて、友人との海外旅行を楽しみにしている。長女の優香里は結婚して、愛知県の自動車部品工場に勤める男と幸せに暮らしている。
そして次女の真奈美は、大学生活を満喫して、バイト先のファーストフードで少し面倒な客に絡まれて、もやもやした気持ちで間もなく帰ってくる。そこで私の死を確認する。タイミング的に最悪。全ての原因は私だ。しかしこればかりは、私にもどうしようもない事だった。すまない。
この金魚の命が尽きて、それからどうなるのかは分からない。しかし悲しみはない。結局のところ私はそういう存在だ。この世にはないこの世そのものだ。
しかし最後に、例え泣き顔だとしても、私を幸せにしてくれた大好きな女の子の顔を見たかった。私は、後悔というものを覚えた。この家で過ごせた命は幸せだった。全てはこの家の家族の、そして真奈美のお陰だ。とても幸せだった。ありがとう。
私は金魚鉢で生きた一匹の金魚。この家の上空に、梅雨の時期の夕暮れ時に、雲の切れ間から夕日が覗いたのを確認する。この世の最後に味わうその出来事に、悪くない気分を──。