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一生独身でいるために婚約破棄を前提とした婚約をすることにした令嬢のお話

「婚約破棄を前提に婚約してくれですって……いったいどういうことなんですか!?」


 広々とした豪奢な伯爵家の応接間。その部屋を満たす落ち着いた空気を破ったのは、そんな驚きの叫びだった。

 中央に置かれたテーブルを挟み、二人の男女が向かい合って座っている。

 一人は乙女。実に落ち着いた態度だ。香りを楽しみながら紅茶を口にしている。

 一人は青年。その顔は驚愕に染まっている。先ほどの声も彼が発したものだ。

 

 乙女の名は伯爵令嬢セルマーリャ・アルアンディア。

 しっとりとした黒髪は、令嬢には珍しくショートにまとめられている。16歳と言う年齢にしては背は低い方で、体つきも細い。だが幼いという印象はない。理性的な輝きを放つ瞳は、涼やかな蒼。清楚で知的な令嬢だった。

 

 青年の名は子爵子息シルヴェガント・インフェーヴァル。

 まず目を引くのは、肩まで届く髪だ。絹のように滑らかに真っ直ぐと伸びたその髪の色は銀。切れ長に瞳もまた、美しい銀色だ。スッキリした鼻梁に薄い唇。名工の手による彫刻を思わせる完成された美しさだ。背が高く、スマートな体つきをしているが、ピンと伸ばした背に弱々しい印象はない。

 その銀の髪は本物の銀よりなおきらめくと言われている。幾人もの女性との付き合いがあり、貴族社会では『軽やかなる銀細工』との異名で呼ばれている。

 

 このたび、伯爵令嬢セルマーリャと子爵子息シルヴェガントは婚約することとなった。

 その縁談の顔合わせの席で、応接室で二人きりで話したいと、セルマーリャが望んだ。

 メイドが紅茶を淹れて部屋を去り、二人きりになった。そしてセルマーリャは、『婚約破棄を前提とした婚約』をしたいと切り出したのだ。

 

 貴族の家同士の結びつきのためにかわされる婚約だが、破棄ないしは解消されることはそう珍しいことではない。婚約者同士の相性や両家の経済状況の変化、派閥の動向。あるいは相手側の不貞。そうしたことにより、破談に至ることはある。

 しかしセルマーリャとシルヴェガントは初めての顔合わせであり、婚約は成立していない。もし相手の不備を見つけたのなら婚約を結ばなければいい。爵位が上のセルマーリャにはその選択権がある。

 

 それでも『婚約破棄を前提に婚約する』などというものは他に例がない。シルヴェガントが驚きの声を上げるのも無理のないことだった。

 戸惑うシルヴェガントに対し、セルマーリャはため息ひとつ吐くと、落ち着いた声音で語り始めた。


「それでは順を追って説明しましょう。わたしは炎の魔法……特に熱の伝導について研究しています。わたしの手掛けた『魔導熱工学』は、この王国内でもそれなりの評価をいただいています」

「はい。その高名は存じてあげています」

 

 セルマーリャはまだ学生の身でありながら、既に魔法学において様々な功績をあげている。彼女は炎の魔法について高い適性を有しており、特に熱の精密な制御に長けている。

 一般に炎の魔法で要求されるのは火力だ。魔力を効率よく使い、より高熱でより広範囲な攻撃魔法を作り上げることが最も重要なことだとされてきた。

 だがセルマーリャは、そうした常識とはまったく別方向の研究を進めていた。彼女が追求したのは精度と扱いやすさだ。少ない魔力で低出力の炎を精密に制御することに注力した。彼女はこれを『魔導熱工学』と名付けた。理論を打ち立て実証し、実用化にまで導いた。それは応用範囲の広い実践的なものだった。

 

 火というものは人々の生活から切っても切り離せないものだ。料理の加熱や暖房など生活の場。武器や農具の鋳造と言った工業。またはごみの焼却に至るまで、様々な場面で火を使う場面がある。

 火を起こすには薪や炭、油といった燃料を必要とする。そうした火の扱いは手間がかかる。危険も伴うし、煤が出ると言った問題もある。

 だが『魔法熱工学』は、これらの諸問題を解決するものだった。平民の少ない魔力でも起動し、単純な構造により安価で製造できる様々な炎の魔道具。それはすぐに広まり、王都では当たり前の日常品となりつつある。

 既に魔法省や一流の魔道具工房からいくつも勧誘が来ているとのうわさがある。セルマーリャは王国でも指折りの才女なのだ。

 

 そんな才女は、人差し指を立てて話を続けた。少し得意げなその姿は、いたずらの種明かしをする子供に似ていた。


「有名になったおかげで、伯爵家の第二子だというのに高位貴族からいくつも縁談をいただきました。そういう縁談は理由もなく断るのが難しいものです」

「あなたほどの方なら引き手数多なことでしょう。正直に言いまして、私のところに縁談が来た時は驚きました」

「いえ、あなたこそが相応しいのです。高位貴族との婚姻なんて困るのです」

「困る……と言いますと?」

「高位貴族の夫人となれば、社交に多くの労力を割かなければなりません。他の高位貴族との日々の交流。お茶会や晩餐会の取り仕切り。家の権威を保つためにやらなければならないことは山積みです。そんなことに時間を割かれては研究が滞るでしょう。それでは困るのです」

「えっ」


 シルヴェガントは絶句した。だがそれは無理もないことだった。

 貴族のもっとも重要な仕事は、家を大きくすることである。高位貴族との婚姻はそのための重要な手段であり、それに力を尽くすことは貴族の家に生まれ者の義務とさえ言える。

 しかしセルマーリャはそんな貴族の常識に背を向け、自分の研究を優先すると言っているのだ。

 

「それで当家に縁談を持ちかけたということですか……?」

「ええその通りです」


 シルヴェガントの信じられないと言った風の問いかけに対し、セルマーリャはさも当たり前のことのように答えた。

 シルヴェガントのインフェーヴァル子爵家は、爵位のわりにあまり羽振りは良くない。かつては良質な小麦の生産で潤っていたが、それにこだわり過ぎた。農地の無理な酷使によって近年では質も収穫量がかなり落ちてきている。それを補うために新事業を試みているが、その成果はどれも芳しくない。インフェーヴァル子爵家は、今や緩やかな没落の道を歩みつつある。

 しかもシルヴェガントは子爵家の第三子だ。家督は第一子の兄が継ぐことになっている。彼自身には何の実権もない。

 そんなシルヴェガントの下に嫁ぐのなら、確かに社交に時間を割かれることは少ないだろう。 理にかなってはいる。貴族としての義務から目を背ければ、という前提は必要となるが。

 

「……私が婚約相手に選ばれた理由はわかりました。それで婚約破棄を前提にするとはどういうことでしょう?」

「それは結婚自体を避けるためです。理不尽に婚約破棄を突きつけられた私は、貴族社会では悲劇の令嬢として扱われることになるでしょう。ついでに男性不信になったということにします。どんなにいい縁談を持ってこられても、それらを理由につっぱねます。結婚適齢期を過ぎるまで時間を稼げば両親もさすがに諦めることでしょう。そうすれば一生独り身のまま、研究に邁進できるというわけです」


 いまいち話についていけないシルヴェガントの問いに対し、セルマーリャはよどみなく答えた。それどころか加速した。

 

「だからこそあなたです! 家督を継ぐ見込みのない第三子! その上、その外見の美しさから多くの女性と関係を持つあなたなら、婚約破棄を告げたところでまわりも不審には思わない事でしょう! この計画に、あなたほど相応しい人はいないのです!」


 そう言いながら、セルマーリャは右手を差し出した。

 

「さあ、この手を取って、『婚約破棄を前提とした婚約』を結んでください!」


 シルヴェガントはまじまじと彼女の右手を眺めた。その手を取るどころか、事態を呑み込むことすらできていないように見えた。

 セルマーリャは聡明な令嬢である。今述べたことが無茶な要求であることは分かっている。『婚約破棄を前提とした婚約』など、まともな貴族が二つ返事で受け入れるわけがない。そもそも「うだつのあがらない子爵家の第三子で、浮気性の男だから選んだ」などと言われ、はいそうですかと手を取る貴族子息もいないだろう。

 これは戦術だ。最初に無茶や要求を突きつけて、あえて相手を怒らせる。そうして冷静さを失わせ、現実的で有利な条件を持ちかけて譲歩を引き出し、最終的にはこちらの要求を呑ませる。それがセルマーリャのやり方だった。研究資金の獲得も魔道具の生産契約も、こうやって実現してきたのだ。

 はたして、シルヴェガントは彼女の手を取ろうとせず、首を左右に振りながらこういった。


「残念ですがこの手を取ることはできません」

「どうしてですか?」

「あなたの将来のためにならないからです」


 セルマーリャは一瞬、きょとんとした顔を見せた。罵倒すらも想定していた彼女にとってすら、それは意外な言葉だったのだ。

 

「え……わたしの将来、ですか?」

「ええそうです。婚約破棄をされた令嬢は、周囲から問題ある者とみなされます。あなたは貴族社会で大きく立場を落とすことになるでしょう。それで手を引く出資者もいるかもしれません。それはあなたの研究にとってよくないことではないですか?」


 こちらからは無茶な要求したというのに、返ってきたのは理性的かつまっとうな提言だった。

 思わずシルヴェガントの目を見る。その真っ直ぐな瞳には悪意と言うものが感じられない。心底こちらの身を案じているように思えた。

 やや戸惑うセルマーリャだったが、質問の内容自体は既に検討済みのことだった。


「いいえ、それは心配ありません。確かに貴族社会でのわたしの立場は落ちることでしょう。でも既に『魔導熱工学』の商業利用に関していくつもの特許を押さえています。魔道具製造の関連でいくつかの大商人とのつながりもあります。たとえ今すぐ平民に落ちたとしても、研究の継続は可能でしょう。

 それでも伯爵令嬢と言う立場は有用なものです。それを維持するために、家と関係を断つのではなく、『婚約破棄された悲劇の令嬢』となることにしたのです」

「そこまでお考えでしたか……」


 シルヴェガントはほっとしたように息を吐いた。

 そんな彼を、セルマーリャはじっと見つめた。

 

「な、なんでしょう?」

「あなたは不思議な方ですね。真っ先にするのがわたしの心配ですか。ご自分の将来は心配ではないのですか?」

「わ、私の将来ですか?」

「わたしは絶縁を告げられた悲劇の令嬢にならなくてはなりません。そのためにはあなたが一方的にわたしのことを婚約破棄する形にします。上位貴族の令嬢を一方的に婚約破棄したなれば、あなたのお立場も悪くなることでしょう」

「ああ、そこまでは考えていませんでした。困りました、どうしましょう」


 シルヴェガントは顔を青ざめさせた。あまりに素朴な反応だった。本当に、自分より先にセルマーリャの心配をしていたようだ。

 その美貌から多くの女性と関係を持ち、『軽やかなる銀細工』と称される貴族子息とは思えない態度だった。

 あるいはこれこそが彼の手なのかもしれない。あえて無害を装って女性の心を惑わせるというやり方なのかもしれない。セルマーリャは気を引き締めつつ、話を続けた。


「そのことについても対策は考えてあります。婚約時にあなたには『熱魔法工学』で作り上げた魔道具の特許の一部を譲渡するつもりです」

「特許を譲渡ですか?」

「『熱魔法工学』に基づく魔道具は少しずつ広まっています。今は王都内でしか売られていませんが、いずれは王国全土で当たり前に使われるようになるでしょう。その特許は将来的に大きな利益を生むこと間違いなしです。

 またその特許を持つことで王国から支援を受けられます。王国も重要な特許は保護にうごくはずですからね。そうすればインフェーヴァル子爵家の没落はひとまず回避できると思います」


 そう言い終えたところで、引っ込めかけていた右手を取られた。

 シルヴェガントが両手でぎゅっと握ったのだ。

 契約締結の握手には慣れていたセルマーリャだったが、こんな風に情熱的に手を取られたのは初めてだった。

 

「それならばぜひ『婚約破棄を前提とした婚約』を結ばせてください!」


 熱のこもった目だった。もう少し駆け引きをすることを予想していた。その必死な姿には本気が感じられた。どうやらインフェーヴァル子爵家の状況はこちらが調べた以上に苦しいものらしい。

 

「わ、わかりました。わかりましたからとりあえず手を離してください!」

「ああ、これは失礼しました。」

 

 シルヴェガントは慌てて手を引っ込めた。

 彼は『軽やかなる銀細工』なんて異名を持っている。女性の手をとるのに慣れているから、あんなふうに手を握っているのだろうか。

 しかしバツの悪そうな彼の表情から、そうした軽薄な印象は感じられなかった。


「……あなたは本当に不思議な人ですね。事前の調査報告を見た限りでは、こんな人物だとは思いませんでした」

「そうでしょうか? わたしからすれば、あなたこそ不思議な方です」

「不思議? ……ふむ、そうですね。『婚約破棄を前提とした婚約』をしようとするなんて、ちょっと変わっていると思われてもしかたありませんね」

「いえ、そういうことではなく……これと言って取り柄のない非才な身ですが、外見に関しては高い評価をいただいています。自身もより美し見せるべく日々励んでいます。そのおかげか、初対面の令嬢は、大抵この顔を間近で見れば頬を赤らめたり瞳を潤ませたりすることが多かったのです。ですが、あなたはそうしたそぶりもありません。この外見はあなたの好みではないのでしょうか?」


 シルヴェガントの問いには、外見の良さを鼻にかけた傲慢さは感じられない。ただ純粋な疑問として聞いているようだった。

 そう問われるとセルマーリャも何か落ち着かないものを感じる。まるで自分が常識しらずと言われたように感じてしまう。

 

「わたしにも美醜は分かります。あなたの顔立ちの良さは確かに素晴らしい。特にその滑らかな銀の髪は実に見事なものです。その外見が人間関係の上で極めて有用であることは認めましょう。

 ですが、わたしが求める美しさは研究の中にあります。完璧に構築された美しい理論、効率よく設計された画期的な魔法回路。緻密にして無駄のない図面……そうしたものに美しさを感じるのです。あなたがどれだけ美しさを磨こうと、わたしの心がゆれることはありません」


 セルマーリャはそう断言した。彼女は研究を愛している。しかし、人間を愛したことはない。結婚自体に価値を感じていない。だからシルヴェガントの滑らかな銀髪も端正な顔立ちも、美しいという以上の感想をいだくことはできなかった。

 

「そういう方もいるのですね……」


 シルヴェガントは心底感心したように、感嘆の息を吐いた。




 そうして二人は『婚約破棄を前提とした婚約』の契約を結んだ。

 そうは言っても婚約した直後に婚約破棄となっては周囲も不審に思うことだろう。そのため、一年程度は婚約関係を継続することにした。

 

 セルマーリャとシルヴェガントは同じ学園に通っている。婚約関係にあると周囲にアピールするために、週一回はお茶の席を共にした。会話内容は当たり障りのない日常のことに限定した。周囲に冷めた婚約関係と認識してもらうためである。

 

 これに対してシルヴェガントが異を唱えた。あまりに疎遠すぎると、何かあった時に口裏を合わせるのが難しい。普段からある程度の連絡は取るべきだ、というのだ。そして、学園内で会話をするのが問題なら、手紙のやりとりでもするべきだと提案した。

 これはセルマーリャも了承した。普段から連絡を取っておいた方が、状況の変化に対応しやすいのはもっともなことだからだ。

 お互いの状況を把握しておくために、手紙は主に近況について書くことにした。

 

 使用人を使って頻繁に手紙をやりとりしていては、周囲に不審がられる可能性がある。そこでお茶会の席で手渡しするということになった。

 

 学園では普段は言葉を交わさない。廊下ですれ違う時に目礼をかわすぐらいはするが、声は掛けない。お互いに接触しようとはしない。

 週に一度、学園のテラスでお茶の席を共にする。そこで一時間ほど当たり障りのない会話を交わす。終わりが近づいたころ、人に見られないようにテーブルの下でそっと手紙を交換する。

 二人の婚約者生活はそういうものになった。

 

 セルマーリャは手紙には主に研究の進捗を書き記した。学園の大半の授業を免除され、学園内の自分用の研究室で研究に明け暮れている。そんな彼女にとって近況報告と言えば研究のことを書き記すことぐらいだった。

 シルヴェガントの手紙には最近話題になっている仕立屋や人気のあるアクセサリー、お菓子など、最近の流行に関することが書かれていた。さすが『軽やかなる銀細工』という異名を持つだけ合って、その情報は常に新鮮かつ多彩なものだった。

 

 そんな密やかな付き合いが3ヶ月ほど続いた。




「あ、確かにこれは美味しいですね」


 ある日の昼休み。学園内の研究室で一人、セルマーリャはブドウパンに舌鼓を打っていた。

 シルヴェガントの手紙によれば、ここ最近は令嬢たちの間で平民向けのお菓子を楽しむのが流行っているらしい。

 平民向けのお菓子は令嬢が普段口にするような高品質な食材は使えない。その分、味を少しでもよくするために様々な工夫が凝らされている。平民向けということで甘さや風味も濃くしたわかりやすい味付けになっている。それが普段、高級で上品なお菓子を口にしている令嬢に刺さるとかなんとか。

 興味を持ったので使用人を使って取り寄せ、昼食代わりに食べてみた。味そのものは、普段食べ慣れている高級菓子の繊細な味には遠く及ばない。だがブドウの酸味と甘みの濃い味付けがボリュームあるパンにうまくかみ合っていて実に食べ応えがある。

 かぶりついて食べるのが正しい食べ方らしい。令嬢として人前ではそんなはしたない食べ方はできない。だが研究中、小腹の空いたときにつまむにはちょうどいい感じだった。


「ふふ、シルヴェガント殿と婚約して正解でしたね……」


 ふと、そんなつぶやきを漏らしてしまう。

 口にしてからそのおかしさに苦笑してしまう。

 『婚約破棄を前提とした婚約』……それは本来、もっと険悪なものになるはずだった。

 立場の弱い子爵家の第三子。女性には不自由してない『軽やかなる銀細工』。契約を申し込んだら、まず相手は怒りだすと予想していた。

 だがインフェーヴァル子爵家は没落の道をたどっているのは事前の調査で分かっている。魔道具の特許をちらつかせ、伯爵家の立場を盾にすれば従わせることもできるはずだった。

 それでも断られる可能性はあった。その場合は口外を禁ずる魔法の契約書も用意していた。

 そうして臨んだ縁談だった。しかし、シルヴェガントは快諾した。予定通りの冷めた婚約関係を演じているが、その裏ではこうして手紙のやりとりを続けている。

 険悪どころかここ最近は親しみすら感じつつある。まったくおかしな状況だった。

 

 だが、こんなことではいけない。セルマーリャはまだ心を許したわけではなかった。

 研究室を出て、中庭に向かう。そこではいつもの光景が広がっていた。


「シルヴェガント様! 今日もお美しい銀の髪ですね! そんなにきれいな髪を保つ秘訣はなんですか?」

「櫛で丁寧に手入れすることですね。そのためにもいい櫛を選ばなくてはなりません。私が使っている工房を今度ご紹介します」

「ねえ、香水を変えたのお分かりになります?」

「スイトピーですね。落ち着いた香りで、あなたに似合ってると思います」

「あの新劇場での公演はご覧になられました? 今までにない仕掛けの舞台演出で、とても見ごたえがあるんですよ!」

「ええ、今度観に行こうと思っています」


 10人近くの令嬢からかわるがわる話題を振られ、シルヴェガントはゆったりとした態度でひとつひとつ丁寧に受け答えしている。

 一人の男をめぐって10人近くの令嬢が集まれば、相手を出し抜こうと男には見えないところでけん制し合いそうなものだ。しかし傍から見る限り、そういった険悪さは感じられない。まるで春の陽だまりのような和やかさがあった。

 令嬢たちの輪の外からはいくつか妬みや嫉みの視線があったが、まあそれは当然と言うものだろう。

 そして何より驚きなのは、シルヴェガントの美しさだ。美の追求に余念のない見目麗しい令嬢たちに囲まれながら、彼の銀髪の輝きと顔の美しさはなお際立っている。

 その光景を目にすれば、シルヴェガントが『軽やかなる銀細工』などという異名で呼ばれていることを、誰もが納得するに違いない。

 

 本来なら婚約者であるセルマーリャがとがめなければならない状況だ。しかし彼女はそんなことをしない。むしろかこうした付き合いをすることをシルヴェガントに推奨している。なぜなら『婚約破棄される悲劇の令嬢』になるつもりの彼女にとって、とても都合がいいからだ。

 

 だからこれは望ましい状況と言えた。それなのになぜだか胸がざわつく。面白くないことに思えてしまう。

 その理由ははっきりしている。これだけ令嬢たちから人気があり、高位貴族との婚姻もし放題なはずのシルヴェガント。そんな彼が、魔道具の特許の譲渡程度で『婚約破棄を前提とした婚約』を呑むのはやはりおかしなことだ。きっと何か狙いがあるに違いはない。

 やはり、シルヴェガントに心を許してはいけない。そのことはわかっている。だからこうして毎日のように中庭を見に来て状況を確認するのだ。

 そんな余計なことに気を回しているせいか、最近少々研究の進みがよろしくない。ちょっと行き詰りつつあった。そのこともあって苛ついてしまっているのだろう。

 まったくもって、婚約とは面倒なものだ。セルマーリャはため息を吐いた。

 

 シルヴェガントからデートを申し込まれたのはそんなある日のことだった。




 シルヴェガントによれば、週一回のお茶会程度ではさすがに不審に思う令嬢もちらほら出始めているらしい。確かに最初からお茶会以外でまったく会話しないと言うのはさすがにやり過ぎだったかもしれない。かと言って今さら仲直りしたとアピールするのもおかしなことだ。それらを考慮した結果、休日にデートに行くと言うのが無難ということになった。

 

 デートの行先は新築の劇場だった。最新式の魔道具により、今までの演劇にはない場面転換の演出が可能になったという。そのことに加え、演劇の物語自体も出来が良く、大変な人気を集めているという。

 セルマーリャは演劇と言うものにさほど興味がなかった。貴族令嬢の教養として最低限の知識は持っているし、話題の演劇は観に行くようにしている。研究の出資者と話をするのには、世間の流行くらい押さえておかないと何かと都合が悪いのだ。

 だが今日は、いつもの観劇とは少し違った。隣の席にはシルヴェガントがいる。彼とは婚約破棄して別れることが決まっているとは言え、今は婚約者だ。そういう人物が隣にいると思うと、なんだか妙な気分だった。

 

 舞台の幕が上がった。魔力装置は舞台全体にあるようで、どこがどんなふうに機能するかはわからない。魔力の流れに注意を向けた。

 セルマーリャはいつも、分析者として演劇を見る。この物語は観客にどんな感情を抱かせるために構築されているか。キャラクターの役割と、セリフの意味。そんなことばかりを考える。なにごとも解析しようとしてしまうのは研究者の(さが)のようなものだった。

 

 それなのに途中で分析を止めてしまっていた。気づけば物語に引き込まれていた。筋書きはありふれた恋愛劇だった。頭ではわかっている。それなのに舞台で役者の声が、身振りの一つ一つが、胸に響くものがあった。

 ふと気になって隣を観た。そこには子供みたいに目を輝かせて演劇を楽しむシルヴェガントの姿があった。


 ……この人の熱が伝わってくるせいだ。

 

 セルマーリャはそう思った。それ以上考えるのはやめた。考察を重ねることをこのむ彼女が、今は思考を放棄した。王国でも指折りの才女ではなく、ただ当たり前の少女のように、演劇を楽しんだ。




「演劇にはあまり詳しくありませんが、なかなかよかった思います」

「そうですね! 特に最後の告白シーンが素晴らしかった!」


 演劇を見終えた後は、劇場近くの貴族向けの喫茶店に入って感想を言い合った。

 店内にはピアノが落ち着いた曲を奏でている。店内は広く、各席は程よく離れているから、よほど大声で離さない限り周囲に迷惑になることもない。観劇後の興奮そのままに二人で感想を言い合った。

 

 そうした会話が一段落ついたところでセルマーリャは言うべきことがあったのを思い出した。


「今回はお招きいただきありがとうございます」


 そう言って、頭を下げた。

 いくら演劇を楽しめたからと言って、上位貴族が頭を下げるのはただ事ではない。シルヴェガントは大いに慌てた。


「あ、頭を上げてください、セルマーリャ様! そこまでしていただくほどのことではありません!」

「いいえ。あなたの心遣いはそれだけの価値があることでした。ここ最近、講堂などや劇場のような広い建築物向けの暖房設備について悩んでいました。あなたはそのことを察して、こうしてデートを企画してくれたのでしょう?」

「お気を使わせたくはなかったのですが、やはりあなたを騙すなんて無理ですね……」


 シルヴェガントは照れくさそうに苦笑した。

 お茶会で受け渡しする手紙に研究の進捗を記している。『魔導熱工学』を知らない者でも理解できるよう簡潔に書くように心がけている。だから彼が研究の概要を知っていること自体は不思議ではない。だがセルマーリャにも研究者としてのプライドがある。研究に行き詰っていることについて、あまり詳しくは触れないようにしていた。

 しかしシルヴェガントはその悩みを正確に見抜いた。それどころかこうして行き詰まりを打開するヒントを与えるために、デートを企画してくれたのだ。

 

 そのおかげで何かをつかむことができた。これまでセルマーリャは、小さな魔力でいかに大きな建物を暖めるかを考えていた。低魔力の炎の魔法では足りないから、暖炉の併用でいかに熱を循環させるかと、技術ばかりに着目して考えていた。

 しかし肝心なところを見誤っていた。暖めるべきは大きな建物ではない。その中にいる人々なのだ。シルヴェガントと共に観劇し、会場の人々の熱を感じた。そのことによって気づけたことだ。視点を変えれば突破口は得られそうだった。


 しかし、不思議だった。どうしてこの人はこんなことをしてくれるのだろう。

 利益のためではない。魔道具の特許の一部は婚約を結んだ時点で譲渡済みだ。今さらセルマーリャの研究が進もうと停滞しようと、シルヴェガントにはさほど影響はないはずだ。

 婚約者として愛してくれているから……などということはありえない。二人はいずれ婚約破棄で分かれる間柄だ。

 

 女に慣れた恋多き青年なら、優しさの裏に下心が見えるものだ。だが彼にはそうしたものが無い。見返りをすら求めていないようには思える。そう言えば縁談で出会った時もそうだった。

 そこまで考えて、ようやくセルマーリャは気づいた。

 

「あなたは……人の心に寄り添える優しい人なのですね」


 自分のことより他人のことを心配する。親切を押し売りするのではなく、そっと助け舟を出してくれる。

 セルマーリャはそうした人のつながりを知っている。だが、理性を優先し利害をもとに人とやりとりする彼女にとっては、それはどこか遠くにあるものだった。


「え? ど、どうなされたんですか、急に?」

「なんとなくっ。なんとなく言いたくなってしまったんですっ」


 確かにセルマーリャらしくない物言いだった。シルヴェガントが戸惑うのも無理はない。

 指摘されると妙に恥ずかしくなってしまう。でもさっきはなぜだか、言いたくなってしまったのだ。

 なんだか気まずくなってしまい、続く言葉を見つけらない。そんな空気の中、シルヴェガントがどこか寂し気な笑みを浮かべ、切り出した。


「私は、そんなに大した男ではありません……」


 シルヴェガントは視線を落とし、その表情に暗い陰を見せた。


「ご存知の通り、我がインフェーヴァル子爵家は傾きつつあります。そんな子爵家に生まれた私は、この外見の良さを利用して高位貴族の令嬢と結婚するよう幼いころから教え込まれました。でもそれは、簡単なことではありませんでした。王国の現状はご存知でしょう?」


 セルマーリャは頷いた。現在、王国では権力闘争が激化している。

 病弱だが学問に優れ思慮深い第一王子。武勇に優れカリスマのある第二王子。上位貴族はどちらの王子に着くべきか模索している。その動きが波及し、下位貴族に至るまで権力を得るために活発に活動している。

 

「今のご時世では、少々見た目がいいだけの、先行きの暗い子爵家の第三子をわざわざ選ぶ令嬢はいません」

「でも、学園であなたのそばにはいつもたくさんの令嬢が集まっているではありませんか」

「彼女たちは友人です。学生時代と言う限られた時間を、見た目の良い私と楽しく過ごしたいというだけなのです。事実、本気で愛を告げられたことはありません」


 貴族間の婚姻は純粋な利害関係に基づくものであり、当人の恋心が入り込む余地などない。貴族に生まれた子供は重要な手札だ。王国の現状を鑑みれば一枚たりとも無駄にはできない。貴族の子供たちもまた、そのことを自覚している。

 婚姻から背を向け研究を優先するセルマーリャが異常なのだ。彼女が両親から強くとがめられないのは、王国に於いて比類なき功績を上げているからだ。


「私など、少し見た目が綺麗なだけで、大した価値などないのです」


 シルヴェガントはそう話を結んだ。

 彼は正しく自分の立場を理解している。能力を把握している。適切な立ち回りをしている。

 貴族令嬢たちと懇意にしているのも家のためなのだろう。学生時代に交友関係を構築できれば、将来子爵家を支える一助となるのだろう。

 セルマーリャは聡明だ。そのことを理解している。それでも、許せなかった。

 

「自分を卑下しないでください!」


 セルマーリャの叱咤に、シルヴェガントが驚き目を見開く。

 彼女は勢いのまま言葉を続けた。


「あなたは立派な方です! 不躾な婚約を押し付けたわたしに、優しくしてくれました! 手紙で楽しい話をしてくれました! 確かにあなたの外見は優れています! でもそんなことは関係ありません! あなたの本当に優れているところは、その優しさなんです!」


 セルマーリャは自分がなんでこんなに必死になっているのかわからなかった。

 いずれ婚約破棄で分かれる相手だ。魔道具の特許を譲ったことで既に利害関係の清算は済んでいる。

 それでも、嫌なのだ。シルヴェガントの優しさは自分にはないものだ。尊いものだ。それを「大した価値などない」と言われるのは、受け入れがたいことなのだ。

 セルマーリャの勢いに圧倒されていたシルヴェガントだったが、彼女の言葉を受けて、やがて笑顔になった。


「セルマーリャ様……ありがとうございます。報われた気持ちです」


 シルヴェガントの言葉を受け、胸が温かな気持ちに満たされた。

 しかしそれは同時に、セルマーリャに痛みをもたらすものでもあった。

 

 『軽やかなる銀細工』なんて呼び名をつけられた、浮気性の軽い男。そんな男なら利用しても構わないと思った。

 研究のことだけを考えていた。それ以外はどうでもいいと思っていた。その傲慢な考えが、こんなに優しい人の人生をゆがめることになった。その罪の重さに今さら気づいたのだ。




 翌日、セルマーリャは手紙を書いた。いつものお茶会で渡す手紙ではない。使用人を使って届けさせる特別な手紙だ。初めから、その時が来たら手紙で知らせると決めていた。

 その時とはつまり、婚約破棄を決行する時、ということだ。

 

 本来はもう半年程度は婚約関係を続けるつもりだった。婚約後にすぐに婚約破棄となっては周囲の不信を招く。それにセルマーリャの目的は、適齢期を過ぎるまでの時間稼ぎだ。焦る必要は無かった。

 だが彼女はもう耐えられなかった。これ以上彼を縛り付けることはできない。一刻も早く解放しなくてはならないと思った。

 

 婚約破棄の計画を中断することも考えた。

 婚約破棄をせずにこのまま過ごせば、二人は結婚することになる。そんなことはできない。彼の花嫁になるなど、許されない。

 ならばもっと穏便に、婚約解消で別れることにするか? それもできない。婚約破棄をするという前提で魔道具の特許を譲渡した。それが履行されないのなら、返却を求めなければならない。それは子爵家を追い詰めることになる。

 もうこのまま進むしかない。終わらせるなら早い方がいい。セルマーリャは婚約破棄されるしかないのだ。

 

 手紙を出した時点でお茶会も行わなくなった。義務的に続けていたお茶会もなくなり、冷めきった婚約関係。そして婚約破棄が宣言される――そういう筋書きにしていたのだ。

 ただ待つだけの日々が続いた。

 そうして一週間ほど過ぎたころ、返事が届いた。

 そこにはこう書かれていた。


「次の夜会で婚約破棄を宣言します」




 時間通り、セルマーリャは一人で夜会に参席した。入場すると、グラスを手に壁の花となって待った。

 身に纏うのは暗めの紅のドレス。シックな装いは、小柄な彼女を淑女に見せていた。その佇まいは実に落ち着いたものだ。

 こうした場には慣れていた。研究者として出資者からパーティに招かれることもしばしばある。そんな彼女にとっていまさら学園の夜会で学ぶことはなかった。学園から夜会の出席を免除されていたから、出席することはほとんどなかった。


「それにしても……シルヴェガント殿にしてはずいぶんと思い切った選択をしましたね……」


 思わずそんなつぶやきが漏れた。

 確かに夜会での婚約破棄も一案としては考えていた。『婚約破棄された悲劇の令嬢』になったことを周囲に知らしめるのはこれ以上ない演出だ。セルマーリャにとってはおおむね都合のいいことだったが、シルヴェガントの側はそうとは言えない。夜会で不作法は行いをした愚か者として評価を大きく落とすことになる。その悪評は後々まで影響するかもしれない。

 

 本来は書面の手続きだけで済ませるつもりだった。婚約破棄の理由についてはいくつか考えてあった。「研究に専念するあまり婚約者としての義務を怠った」「シルヴェガントが人気があることを妬み、嫌がらせをした」などなど。セルマーリャの評判が落ちすぎない、ちょっとした理由をいくつか用意していた。


 それなのに、シルヴェガントは夜会での婚約破棄の宣言を選択した。その思惑はよくわからない。

 セルマーリャが受け入れたのは、彼をこれ以上縛り付けたくなかったからだ。夜会での婚約破棄の宣言は決定的な別れとなるだろう。もう関わり合いになることもなくなるはずだ。

 あるいはシルヴェガントも同じ想いなのかもしれない。『婚約破棄を前提とした婚約』なんてものを無理強いするような令嬢。その上、デートした翌日に婚約破棄を促した。優しいシルヴェガントであっても愛想が尽きたのかもしれない。

 そう考えると、胸がきゅっと締まって、苦しくなった。

 

 物憂げに時間を持て余していると、やがて会場の中の空気が変わった。参席者たちの視線が入り口の方に集まり、ざわめきが拡がる。そしてそのざわめきはこちらに向かって近づいてくる。

 セルマーリャは悟った。ついに来るべき時が来たのだ。

 

 そして夜会の場にて。子爵子息シルヴェガントは、伯爵令嬢セルマーリャの前に現れた。

 

 いつもはストレートに流している銀髪を、今日は左肩に垂らしている。金色の飾り紐で編み上げられた銀髪は、それだけで優れた美術品のようだった。

 身に纏った青を基調とした式服は、金糸で上品に縁どられている。深い青のその装いは、彼の美しい銀髪をより映えさせていた。


 それだけでも誰もが見とれるような美しさだ。しかも彼は、色とりどりの花々に囲まれている。花とは、令嬢だ。赤、青、黄色。鮮やかなドレスに身を包んだ絢爛華麗な令嬢たちが、シルヴェガントを取り巻いているのだ。

 どの令嬢も貴族の名に恥じない美しさだったが、正装に身を包んだシルヴェガントを前にしては、引き立て役にしかなり得ない。


 さすがのセルマーリャもその光景には圧倒された。驚きもあった。婚約破棄の宣言をするのだから、令嬢の一人も連れてくるだろうと予想はしていた。しかしまさかこんなにもぞろぞろと連れ立ってやって来るとは思わなかった。

 シルヴェガントは会場をぐるりと見回すと、大きな声で呼びかけた。

 

「みなさんに聞いていただきたいことがあります!」


 ただでさえ注目を集めているというのに、シルヴェガントはまだ足りないらしい。そこまで舞台を整えたいのか。そんなにも婚約破棄を宣言したいのだろうか。

 セルマーリャは胸が苦しくなった。背筋を嫌な汗が流れる。吐き気さえ覚えた。

 

「わたしは今夜、『軽やかなる銀細工』という呼び名を捨てることにしました!」


 会場がざわめいた。『軽やかなる銀細工』とはシルヴェガントの美しさから、周囲が呼び出した名前だ。それを捨てるとはどういうことか。誰もがその言葉に戸惑っていた。

 セルマーリャの明晰な頭脳はその言葉の意図を正しく理解していた。『軽やかなる銀細工』は、その美しさから多くの者たちから細工物のように好まれる。それを辞めるということは、多くの者に愛されるをやめるということ。それはつまり、誰か一人を選ぶということだ。

 きっと真実の愛の相手を見つけたのだ。そのことを皆に伝え、その上で婚約破棄を宣言する。きっとそういうことなのだ。

 そこまで深く理解し、セルマーリャは断頭台に向かう囚人のような心持ちで、次の言葉を待った。

 

「だから、こんなものはもう必要ありません!」


 そこから先のシルヴェガント行動は、セルマーリャにとってもまったくの予想外のことだった。

 彼は懐から短刀を取り出すと、その長い銀髪を切り落とした。

 

 本物の銀よりなおきらめくと言われた銀の髪が、ばさりと絨毯の上に落ちた。

 いくつもの悲鳴が上がった。令嬢たちの口から迸ったそれは、悲しみの悲鳴だ。宣言した通り、シルヴェガントは『軽やかなる銀細工』を捨てたのだ。

 短刀を懐にしまい、落ちた銀髪を見ながら。シルヴェガントは静かに語った。


「私の愛する人は、見せかけの美しさなどにとらわれたりしません。この銀髪は他の女性を引き寄せるだけの邪魔なもの。だからもう、私には必要ないのです」


 シルヴェガントはひたとセルマーリャに目を向けた。決意に満ちた目だった。心臓がどうしようもなく高まった。

 もう『軽やかなる銀細工』ではない。強い意志を秘めた、一人の男がそこにいた。

 彼は右手を差し出すと、告げた。


「あなたのことを愛しています、セルマーリャ様!」


 あまりのも大胆で真っ直ぐな告白を受け、まず最初にセルマーリャの胸の内に湧きあがった感情は怒りだ。

 これは騙し打ちだ。計画通り婚約破棄を宣言すると見せかけて、愛の告白をしたのだ。

 それも『軽やかなる銀細工』の由来となった銀髪を切った。ここまでの決意を示されて、理由もなしに断れば、名声は地に落ちる。研究の継続すら困難となるだろう。もはや婚約破棄の計画は頓挫したのだ。

 断ることが不可能な状況を作り上げ、愛を受け取ることを迫る。これを騙し打ちと言わずして他になんと言えばいいのか。

 

 胸の中で湧きあがる怒りの炎は、しかしすぐに感情の大波によって押し流された。とめどなく湧きあがるその感情は、喜びだ。

 

 セルマーリャがシルヴェガントから離れようとしたのは、彼を解放してやりたかったからだ。人の心に寄り添える彼に、自分のような令嬢は相応しくないと思ったからだ。

 彼の幸せを考えての行動だった。つまりセルマーリャは、シルヴェガントのことを好きになっていたのだ。

 

 セルマーリャはこれまで魔法の研究に全てを注いできた。男性に興味を持ったことすらほとんどなかった。そんな彼女の初恋だった。

 初めて好きになった男性が、全てをなげうって全身全霊の告白をしてくれた。これで心が揺れないわけがない。

 顔が熱くなる。胸がいっぱいになる。汗が止まらない。喜びで自分がどうにかなってしまいそうになるなんて、初めてのことだった。

 

 改めて彼の目を見る。決意に満ちていた銀色の瞳は、しかし今は不安に揺れていた。

 そしてセルマーリャは自分の不備に気が付いた。シルヴェガントは告白をした。セルマーリャは喜びに震えている。それだけだ。告白の返事をしていない。

 これほどの告白をしていながらも、シルヴェガントは成功を確信していない。断るはずなんてない。好きにならずにいられるわけがない。セルマーリャには自分の中の愛情をごまかす余裕もなく、それが外にあふれるのを止めることもできない。

 それでも、言葉にしなければ安心できないことはあるのだ。

 

 何か言わなければならない。何か応えなければならない。それなのに何を言えばいいかわからない。優秀な研究者で弁論も得意なはずの彼女が、告白を受け入れるのにどんな言葉が適切かわからない。

 ただただ熱を増していく思考の中で、セルマーリャは言葉では言い表すのは不可能と言う結論に至った。

 

 だから、動いた。


 足を踏み出し、シルヴェガントの差し出した手をすり抜け、彼のすぐ近くまで迫る。驚くシルヴェガントの視線をかわし、そのまま彼の胸に飛び込むと、ぎゅっと抱きしめた。

 小柄なセルマーリャに対し、シルヴェガントはスマートだが背が高い。抱き着くと、自然と彼の胸に顔を押し付けることになった。彼の体温を感じる。彼の鼓動を感じる。すごく幸せな気持ちになった。

 

「セ、セルマーリャ様?」


 シルヴェガントの声が降ってきた。その声には戸惑いと不安の響きがある。

 令嬢が人前で男性に抱き着いたのだ。告白を受けたに決まっている。

 それでもやっぱり、言葉が必要なのだろう。それは分かる。告白の言葉の嬉しさは、セルマーリャもつい先ほど深く深く理解した。

 さっきは言葉が出なかった。でも、今は彼の顔を見ないで済む。大きな声を出さないで済む。 

「わたしも……あなたのことが、大好きです」


 ようやく言えた。かぼそくて、弱々しくて、自分らしくない声。でもそれで精一杯だった。これ以上は無理だった。

 今度はセルマーリャが不安になる番だった。声はちゃんと聞こえただろうか。自分の気持ちは、ちゃんと届いたのだろうか。

 だがその不安はすぐに消え去った。シルヴェガントが抱きしめてくれたからだ。小柄なセルマーリャの身体は彼の腕の中にすっぽりと包まれてしまった。それがあまりにしあわせで、セルマーリャは自分が溶けてしまうのではないかと思った。

 とろけてしまいそうな幸せの中、耳にパチパチという音がいくつも届いた。拍手だ。会場のみなが拍手してくれているらしい。

 どんな目で見られているのだろう。気になったが、顔を上げることはできなかった。しあわせで、嬉しくて、でも恥ずかしくて。自分でもいまどんな顔になっているかわからない。顔を上げるなんて、できるはずがなかった。



 

「何の相談もなしにあんなことをするなんて、何を考えているんですか!」

 

 あの後。二人は会場を後にした。そして入った控室の中。テーブルを挟んで席に着いた。ようやく落ち着いたところで、セルマーリャが最初に叫んだのは不満だった。

 シルヴェガントが愛を告白してくれたのは嬉しいことだ。自分の恋心も自覚した。

 子爵家の問題も解決した。婚約破棄を宣言できなくなったことにより、魔道具の特許は返却を求めることになる。だがセルマーリャ本人が子爵家に嫁ぐのだから、家の立て直しはいくらでもできる。

 全て丸く収まっている。それでもやっぱり、事前の相談もなしに勝手をされたことには文句を言わずにはいられなかった。

 普段のセルマーリャなら自制できたかもしれない。でも今は、いろいろと感情の整理が追い付いていなかった。

 シルヴェガントはしゅんとなった。

 

「申し訳ありません。卑怯な行いでした。でも、こうでもしなければあなたの心をつかめないと思ったのです……」

 

 シルヴェガントは人の心がわかり、それに寄り添うことができる。その洞察力と感受性は使いようによっては武器となる。

 もし彼がその気になってその武器を振るえば、上位貴族を篭絡することもできたかもしれない。だが優しい彼は、そうしなかった。

 そんな彼が、なりふり構わず武器を振るった。それだけセルマーリャへの告白に本気だったということだ。


「これまで通り、研究の邪魔はしません。普段は近づかないようにします。だからどうか……」

「そんなのダメに決まってるじゃないですか!」


 セルマーリャはシルヴェガントの言葉をさえぎって叫んだ。


「一日一回、必ず研究室に来てください。それでわたしをぎゅっとしてください! そうしないと……許してあげません!」


 そう言ってそっぽを向いた。その顔は耳まで真っ赤に染まっている。

 シルヴェガントは最初は驚いたが、彼女のかわいらしい姿を目にして、すぐに微笑んだ。


「はい、承知しました」


 そう言ってニコリとほほ笑みを浮かべた。

 それを横目で窺うセルマーリャはますます恥ずかしそうにした。

 しばらくそうしていたが、セルマーリャはいきなりシルヴェガントの方を向くと、指を突きつけてこう命じた。


「シルヴェガント殿! ちょっと立ってください」

「? はい、わかりました」


 シルヴェガントは言われるままに席を立った。するとセルマーリャもまた立ち上がり、彼の胸に飛び込んだ。


「セ、セルマーリャ様?」

「恥ずかしがる女性の顔をじろじろ見るものではありません! あなたには……見せてあげません!」


 そう言ってセルマーリャはシルヴェガントの胸に顔を押し付けた。

 確かにこうすれば顔は見えない。だが彼女が本当は何を求めているのか、シルヴェガントはすぐに察した。


「はい……わかりました……」


 そう言って、シルヴェガントは愛する人をぎゅっと抱きしめた。

 

 セルマーリャは陶然となった。あまりに幸せで、熱くて、どうにかなってしまいそうになる。このままではダメになってしまう……そう思いながらも、この手を離すことなどできなかった。

 『魔導熱工学』の第一人者であり、熱の扱いに長けたセルマーリャであっても。恋の熱ばかりは、どうにも扱い切れないものなのだった。



終わり

「令嬢自らが婚約破棄を前提にした婚約をする」というネタを思いつきました。

それが成り立つよう設定やキャラを詰めていったらこういう話になりました。

ここ最近はちょっと殺伐とした感じの話になりがちだったので、わりと穏やかな恋愛ものを書けてなんだかホッとしました。


2025/3/19 20:30頃

 誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところもあちこち修正しました。

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