アニス、故郷に帰る 3
(さぁて、と)
ミシェールを連れ帰り、師匠と三人で簡単な(残念ながら準備がなく、今日もパンと切ったフルーツだけの簡素な食事だった)昼ご飯を済ませたあと。
アニスはミシェールの入室許可をマーロウから得て、魔女の仕事部屋へとやって来た。先ほど見た魔法陣は既に片付けられていて、作業机の上にはアニスに送られた魔法陣の仕様書の原本が、ひらりと数枚置かれている。
(新米魔女殿に、イイトコみせなくっちゃね)
普段は「危ないから」と入れて貰えないらしい、仕事部屋に興味津々なミシェールは部屋の隅にちょこんと座っている。
部屋の中にあるものに触ってはいけないよ、とマーロウに言われた言葉を忠実に守っているが、目に映るすべてのものに興味を惹かれてやまないようで、何を見ても目を輝かせているのだ。
(初めて師匠の魔術を見た時のわたしも、こんな感じだったのかな)
丸いほっぺを熟れた桃のように真っ赤に染めているミシェールに微笑むと、アニスは一度、深く息を吸う。そしてゆっくり吐き出すと、ぱちんと両の頬を叩いた。
それから、自分の荷物から使い慣れた前掛けとローブ、髪をまとめるスカーフを取りだして身につけ、腕をまくる。
(……ローブを着ると、ちゃんとしなくちゃ、っていう気分になるな)
アニスにとって、ローブを羽織ることは、それまでの自分と魔女の自分を切り替える儀式だ。
ローブを羽織っている時は、魔女の名に恥じない仕事をしなければならないと、背筋がしゃんと伸びるのである。
アニスのまとう雰囲気が変わったのだろう。ミシェールが目と口をぽかんと見開いているのを視界の端に感じながら、アニスは卓上に広げられていた魔女の仕様書に手を伸ばした。
(なるほど、ひとつは食料貯蔵庫の風通しを良くする魔術で、もうひとつは玄関の雪を溶かす魔術、最後のは……生まれる赤ちゃんに森の加護があるように祈る陣か)
どれも王都ではほとんど描くことのなかった、生活に密着した魔術だ。
誰でも簡単に、そして安全に使える魔道具が普及した都会では、魔法陣に頼ることが少なくなっている。
特に王都では、魔法陣は道具と言うよりも嗜好品のような扱いで、装飾品や芸術品と認識されることが多い。それ故に、アニスのような装飾魔術師にも仕事が多くあるのである。
しかし、装飾性の有無にかかわらず、魔法陣とは本来、こうして人の暮らしを助けたり、魔術師の魔術の起動を助けたりするものだ。
(……なんだか、原点に返るような、身が引き締まる思いがするな)
改めて息を吸い、アニスは仕様書をじっと見つめる。師からは、特別こうしろという指定はなかった。であれば、マーロウのやり方通りの陣ではなく、アニスらしい描き方をしても問題はないということだ。
(この構成なら、書くべきはあのモチーフとこの図形、そしてこの文字)
(インクは……星屑楓の樹液を混ぜたセピアと、月光草の雫を混ぜたブルーブラックがいい。ペンは、銀河硝子のペンか……、白雪雁の羽ペンでもいいかな)
(魔紙は師匠専用のだと、ちょっとわたしの魔力が乗りづらいから、赤魔茶で淡く染めよう。紙を染めるのに一番適しているのは、霊山の湧き水というけれど、この土地で使われる魔法陣なら、湖の水が一番いい)
目まぐるしく頭の中で考えながら、アニスはぱっと顔を上げると周囲を見渡した。ぐるりと作業台を取り囲む壁に備え付けられた棚には、今上げたどれもがあるべきところに鎮座している。
(さすが師匠。材料は全部揃ってる)
アニスの口の端が、にやりと上がった。
そこからは、魔女の時間だ。
アニスはまず、硝子の薬缶で赤紫色をした茶葉を煮出し、その間に湖の水を水桶に流し込んだ。赤紫色の茶が湧くとそれを湖の水に混ぜ、水鳥の羽箒でぐるりと三度かき回す。アニスの魔力が水の表面を渡ってキラリと光り、赤紫の水面は次の瞬間、淡い緑へと色を変えた。
そこに浸すのは、マーロウが用意していた魔紙だ。魔法陣や魔法書を書くことに特化している特殊な紙で、緑の水に浸けられた魔紙は、不思議なことに淡い水色へと染め上がる。
それを魔術で乾かす間に、今度はインクの調合である。青と茶のインクを取り出したアニスは、それぞれに淡く光る液体と粉末を入れると銀の薬さじでかき混ぜる。
口の端からこぼれるのは、魔女の仕事歌だ。歌から滲んだアニスの魔力はインク壺にじんわりと染みて、インクは星空のような銀を散らす、瑠璃色に変わる。
そうしている内に紙も乾いて、アニスはそれを卓上に広げると、丁寧に伸ばした。魔力に反応して変化する紙は、するするとシワを伸ばしてピンと張り、日の出間際の雪原のような美しい雪白の場を作り出す。
「……それじゃ、ミシェール。わたしと机に触らないように、でもよーく見ててね」
くるりとアニスが振り返ると、部屋の隅からアニスの近くまでにじり寄ってきていたミシェールは、目をパチパチと瞬かせて大きく頷いた。
そんな彼女の仕草にアニスはふと笑みを零し、しかし次に羽ペンを手に取ったとき、彼女の気配は再び一変していた。
それは魔女というよりも、湖に仕える古の巫女のような、研ぎ澄まされた気配だ。
するり。
アニスが魔紙にペンを置いた途端、それは鮮烈な輝きを放って走り始めた。
くるりくるり、するするり。アニスの持つ青い魔力が白い羽と青いインクの力を借りて、薄青の魔紙の上を縦横無尽に駆け抜ける。
いつの間にか隣りに来ていたミシェールの瞳と口が、これ以上ないほど大きく開かれている気配を感じながらも、アニスは魔力操作を止めない。
まるで躍るように羽ペンが舞う。
その軌跡の先に、次から次に咲くのは美しい花のような魔法陣だ。
「ほわあ……」
「……ずいぶんと腕を上げたもんだね」
最後の花が開いたあと、そっと羽ペンをレストに置いたアニスに、そんな二つの声が掛かってアニスはようやく我に返った。
スカーフがあってなお滲んだ汗を雑布で拭い、アニスははにかんだ笑みを浮かべて肩を竦める。
「うわあ、師匠に褒められるなんていつぶりだろ」
「まあ、あたしにしてみればちょいと華美が過ぎるような気もするがね。これだと魔法陣というよりは装飾魔法陣じゃないか。パントリーの換気にこんな姫君のドレスみたいな魔法陣は要らんだろうよ」
「あはははは……」
アニスが描いた陣は、風の精霊が愛するという『風連草』という植物と、風の大精霊シルフィードのモチーフである白い翼、この地域で春の訪れを告げるスプリング・エフェメラルを組み合わせて、そこに風の精霊の助力を願う呪文と、発生した風を制御するための図形を組み合わせたものだ。
一から自由に描ける陣は久しぶりで、つい、趣味に走ってしまったことは確かである。
王都でよく依頼されていた、ドレスや壁紙のような装飾品に刻む装飾魔法陣は依頼主の好みこそが重要で、『バラのモチーフを使ってほしい』だとか『羽を図案に入れてほしい』といった要望があるものなのだ。
「ちょっと、やり過ぎたかしらね?」
「町の食堂のおっさんが使う陣だからねえ。まあ技術的には問題ないし、弟子が描いた、王都で流行の魔法陣だとでも言っておくよ」
「ぜひそれでお願いしまーす!」
おどけて答えたアニスに、マーロウはやれやれとぼやいて、「じゃあ他も頼んだよ」と部屋を出て行った。
その背を見送り、アニスはおどけていた表情を引っ込めて、ぶるりと震える。
(う……うれしい……)
半人前の頃は、決してひとりでは納品仕事をさせてくれなかったあの師匠が、自分の仕事部屋で作業をするアニスを放って、部屋を出る。それは彼女からの信頼の証だ。 つまりは、その技術が一人前だと認められた、ということ。
アニスはとっくに、師匠の下から独り立ちした身だ。けれども、王都でひとり奮闘してこなしてきた大量の仕事が無駄ではなかったのだと、師に改めて認められたようで、忙しい日々が報われたような気持ちになる。
「……よーし、やるぞー!」
アニスの頬はじわじわと熱くなり、彼女は思わずそう叫んで拳を握った。
しかし、決意も新たに天井の灯りを見上げたその時、アニスのローブの裾がくい、と引かれた。
どこかにローブを引っかけでもしたかとそちらを見れば、まるで英雄でも見つけたかのような表情をしたミシェールが、アニスに負けず劣らずのキラキラした瞳を向けている。
「ミシェール?」
「しゅごい……」
熱に浮かされたような声が、ミシェールの小さな唇からこぼれ落ちる。
彼女はアニスのローブに縋っていた指にぎゅっと力を入れ、全身全霊で訴えるように大きな声を上げた。
「いまの、しゅごかった!!」
混じりけなし、真っ直ぐな賞賛に、アニスは思わず少し仰け反る。
(わたしだって、初めて魔術を見た時には、ものすごくワクワクしたのを覚えているけれど……、この子のそれは人よりずっと強そうだわ……)
ミシェールの余りの興奮ぶりに、アニスは眉間に皺を寄せた。
魔術に興味関心が強いのは、魔女の素養として何よりも大切なものではあるが、この興奮はちょっと異常なのではないか。
(……でも、魔術馬鹿ってもしかしたらこんな子どものなれの果てなのかも。どこかの誰かさんもこんな感じだったのかしら)
脳裏にちらりと過る面影を頭を振って追い出して、アニスは前のめりなミシェールの頭をよしよしと撫でて宥めようとする。
しかしミシェールはそんな姉弟子のためらいなどお構いなし、自分の中に湧き上がったらしき感情を爆発させ、アニスの裾を握りしめたまま、ぴょんぴょんとウサギのように跳ね回った。
「こ、こらミシェール! 何かひっくり返すといけないから……!」
「いまの、まほう?! しゅごい!」
「正しくは、魔術っていうのよ。今のは、魔術を使うための魔術、ってやつね。こら、飛び跳ねないの! インクをこぼしたら大変なんだからね!」
「でも、ぴょんぴょんしちゃう! しゅごい! しゅごい! しゅごい!!」
どうやら彼女自身も、自分の中に眠っていたこの衝動をどう制御していいものか、分からないままに振る舞っているらしい。
アニスが叱ると、ミシェールは飛び跳ねることは止めたものの、作業台に身を乗り出してできあがったばかりの魔法陣をのぞき込む。そして、両頬に小さな手を当てると、恋する乙女のようなうっとりとした息を吐いた。
「ね、もっかい! もっかいやって!」
まだふたつ、魔法陣の仕様書が残っていることに気がついているのだろう。まだあるでしょと言いたげに、それらに手を伸ばそうとするミシェールから、慌てて仕様書を遠ざけながら、アニスは苦笑しつつミシェールの前にしゃがみ込んだ。
どうやらこの幼子は、この幼さでしっかりと、魔女の魂を備えているらしい。
「大人しく座って見ていられる?」
「あい! みしぇおとなしくしゅる! ぜったい!」
だからもっかいやって!
そう叫び、これ以上ないほど本気です、と言わんばかりにキリリと表情を険しくさせたミシェールに、アニスは苦笑を浮かべるとその頭をぽんと一度撫でた。
それからひょいとミシェルを持ち上げて、彼女が最初に座っていた部屋の隅――オニキス用に積まれたクッションの山にそっと下ろす。
「……じゃあ、次の魔術を見せるから、ちゃんと見ていてね」
「あい!」
そうして、かつてないほどの熱視線を受けながら、アニスは再びインク壺と羽ペンへと手を伸ばし、次なる魔法陣の記述に立ち向かうのだった。