アニスが帰郷を決めた、その顛末 3
「栄養失調に、貧血ってとこじゃな。ついでに過労だわい」
次にアニスが目覚めたのは、カフェのすぐ近くにある診療所の仮眠室だった。どうやらカフェのスタッフが、ここまで運び込んでくれたらしい。
たっぷりとした白い髭に白いローブという、絵本で見かける森の精霊の翁のような見た目をした老医は、目覚めたアニスの脈やら下目蓋やら爪やら喉やら診察し、そう結論して肩を竦めた。
「昨日は随分寝たんですけども……」
「いくら若くとも、そんな状態の身体は一日二日では回復せんよ」
老医はふるふると頭を振って、「一度身体を壊したらすぐには元に戻らない、長い時間が掛かるものだ」と顔をしかめた。
「ここはね、お嬢さんとおんなじ症状で、研究局の徹夜明けの職員が運ばれてくることも珍しくないんだよ。だからこの手の診察は、先生のお手の物っていうわけだ」
老医の横でカルテを確認している貫禄のある看護師が、「みんな若さをたのんで無茶ばっかりするんだから」とぼやく。なるほど、とアニスは頷いた。
「ああ、それでここに運んで貰えたんですね」
「あのカフェでは根を詰めた職員が倒れることが時々あるからね。あそこには担架も置いて貰ってるんだよ。寝た方が仕事の効率も良いって何度も言ってるのにさ!」
憤る看護師に老医も大きく頷いて、改めてアニスに向き直る。
「身体がだいぶ弱っとるところにで外出して、保たなかったんじゃろう。それか、なんぞショックを受けるようなことでもあったかね」
「えーと……」
言いよどむアニスに、医者はそれ以上は聞かなかった。その代わりにここしばらくのアニスの暮らしぶりを聞き取ると、「そりゃあ身体が悲鳴をあげるわ」と眉間にシワを寄せた。
「いいかね。しばらくは仕事を減らして、ゆっくり暮らしなさい。その暮らし方を続けたら、十年後、二十年後に大病するよ。若い頃の不摂生の影響ってのはね、積み重なると急に来るから」
「はい……」
「ほら、なんじゃ、今、若者の間で流行っておるじゃろ。上昇志向を捨て、毎日をていねいに暮らすー、みたいなやつ。アレをやるといいんじゃないかね」
「流行ってましたっけ……?」
今ひとつピンときていない様子のアニスに老医は苦笑し、最後に居住まいを正すとこう告げた。
「ともかく、二食は食うこと。朝日の内に起きて、真夜中になる前に寝なさい。そして、一日のどこかで散歩なりなんなり、身体を動かすことじゃ。のんびりしなされ」
*
「……ひっぱたきそびれたなあ」
診療所を出る頃には、すっかり日も暮れていた。
空には星が瞬き、街は昼間の健全な気配から、どこか妖しい華やかさのある空気へと変わっている。
今から研究局に突撃し直す気にはなれず、アニスは最終の乗合馬車に乗り込んで家路についた。
「しっかし、丁寧な暮らし、ねえ……」
最寄りの停車場で降り、家までの道のりをとぼとぼと歩きながら、アニスはため息を吐く。白い呼気が星空に吸い込まれてゆくのを眺めて、星空を眺めるのさえいつ振りだろうと独りごちた。
仕事にのめり込む余り、自炊はおろか、食料の買い出しも週に一度だ。まとめて買った日持ちのするパンや果実を日に一度食べ、そのあとは眠る間を惜しんで作業を続けて、朝日が昇ってから眠るような暮らしである。
衣替えも模様替えも後回し、それどころか、部屋の外で流れる季節の廻りにさえ無頓着になっている。友人知人への連絡も疎かで、気がついたら半年経っている始末だ。
丁寧な暮らしとやらからは、ほど遠い暮らしをしている自覚はあった。
(……あれ。これは愛想を尽かされても仕方がないやつでは?)
そんなことに思い至り、ズキリと胸の内が軋む。四年、いやそろそろ五年になる付き合いがあったはずなのだが、疎遠になるなり今までに見たことのない姿を見せつけられたことが、思いの外堪えているらしい。
とはいえ、失ったものに縋ってぐだぐだと悩むことはアニスの性に合わない。
滲んできた目尻をぐっと手の甲で擦り上げ、アニスはふんと鼻を鳴らして昇ってきた月を睨んだ。
「……くそう。こうなったら、徹底したのんびりライフを送ってやろうじゃないの」
まずは徹底した部屋の掃除だ。衣替えもして、秋冬向けの模様替えもしてしまおう。
それから、三食自炊をしよう。買ってきたパンをそのまま食べるのではなく、肉や野菜、炒り卵を挟んだり、ジャムを塗ったりしようじゃないか。時間のかかるシチューを煮込むのも今ならアリだ。
そうだ、たまには自分の服を縫ったり、今の時期なら編み物でも始めたらいいかもしれない。あのお嬢さんの着ていたドレスは無理でも、綺麗な模様の生地でブラウスでも縫えば、秋冬を楽しく過ごせること間違いなしだ。
そしてもちろん、毎日の運動は欠かせない。近所の商店街に二日にいっぺんは行くべきだし、王都の大公園を散歩すればかなりの運動になるだろう。
そうそう、ボディケアだって忘れないぞ。肌はもちもちつやつやに、髪の毛だってこの上ないほどのツルツルサラサラにしてみせようではないか。
あとは例えば、花を買ってきて生けるとか。なんなら、キッチンで使うハーブを育ててみるとか。ピクルスを漬けて、ジャムを煮て。自分でお菓子を焼いたりして。丁寧にお茶を淹れて飲むだけでも随分違うだろう。
そうだ、行こう行こうと思って後回しになっていた美味しいと評判のお菓子屋やカフェ、美術館に博物館、ギャラリー巡りもいいかもしれない。美術館なんて、これからの仕事に活きそうだし――おっと、仕事のことを考えるのはしばらくお預けだ。
「……のんびりライフ、いいかも」
色々と想像を巡らせたアニスは、徐々に調子が戻ってきたのを感じてにんまりと口の端をもたげた。じくじくと胸を焦がすものの気配はまだまだ大きいけれど、そのうちこれらの楽しみに上書きされて、小さくなって消えることだろう。
「……あれ、手紙?」
そうして集合住宅へと帰り着き、アニスがポストを覗くと、なにやらギチギチ、パンパンにつまった封書がひとつ入っていた。
「まさか、納品物になんかあった?」
アニスはにわかに青ざめ、思わず一歩足を引く。しかし、ポストの中に鎮座する封筒に得意先のロゴなどはないようだ。
「うーっ。仕事絡みでないといいんだけど……」
とはいえ、仕事以外で手紙が届くことなど、滅多にない。アニスは恐る恐る封書を取り上げ、送り主の名に気がつくとぎょっとして目を剥いた。
「……師匠!?」
そこに記されていたのは、アニスの魔女の師匠の名だったのだ。
しかし、アニスが王都に出て十年、師匠たる魔女のマーロウが手紙を送ってきたことなど一度もないのである。
何しろ、マーロウという人は非常に前時代的な魔女らしい魔女で、たいそう矍鑠とした老婆なのである。
魔女は他者や権力に寄りかかることのない独立した存在であるべき、というのが彼女の信念で、独り立ちした弟子はほぼ放任、好きに生きよと言わんばかりに構うことをしない。
「なのに、あの師匠が、て、手紙……?」
宛名の文字は直筆のようだが、まさか『よほど』のことが何かあったのか。
気が急いて、アニスは部屋に駆け込むと封筒の端を粗雑に引きちぎった。
慌てて中身を取り出してみれば、そこに現れたのは見慣れた懐かしい文字で綴られた、簡素極まりない文章である。
不肖の弟子、アニスへ
お前のことだから元気だろうね
魔法陣の作成を幾つか代行して欲しくて
この手紙を書いている
二枚目以降は魔法陣の仕様書だ
悪いけど頼んだよ
マーロウ
封筒がパンパンだった原因の二枚目以降は、一枚目が示す通りに魔法陣の仕様書で、他の私信は一文たりとも入っていない。しかしアニスは戦慄した。
「あの師匠が、魔法陣作成の代行依頼ですって?!」
そんな馬鹿な。
アニスは思わずそう呟き、二度、三度と書面を見返した。しかしそこに書かれている文字は何度読んでも、「魔法陣の作成を幾つか代行して欲しい」である。
「この手紙、まさかニセモノ……?」
魔女の手紙を偽る猛者などそういるわけもないのだが、アニスは思わずそう疑って、手紙を矯めつ眇めつしてみたが、これで騙されればもう仕方がないと思える程には、師匠の書く文字そのものである。
「嘘でしょ……」
アニスが弟子として彼女の下で暮らした十年の間、魔女マーロウが自分への依頼を弟子に触らせたことなど一度もなかった。それどころか、「完遂出来ない量の仕事はけっして受けない」というのが彼女の流儀で、さらには「受けたからには必ずやり遂げる」というのも彼女のポリシーだったのだ。
そんな師匠の鬼気迫る仕事ぶりを、アニスは隣りで眺めていたものだった。
「……師匠の身に、何かあったんだ」
そうでもなければ、あの師匠がこんな手紙を送ってくるはずがない。
「――行かなきゃ」
アニスにとって魔女マーロウは、恩師でもあり親、いや祖母代わりでもある。アニスは実の親を知らない孤児なので、彼女がたったひとりの家族なのだ。
アニスは医者の言葉も忘れ、寝る間も惜しんで荷物をトランクに詰め込むと、朝一番の汽車を目指して家を飛び出した。
*
――こうして、のんびりライフのこともセージのことも、 アニスの頭からは綺麗さっぱり吹き飛んでしまったのである。
これが後に、アニスののんびり暮らしの野望を邪魔することになるのだが、今の彼女にはそれを知る術はないのだった。
申し訳ないのですが、連続投稿はいったんここまで。
以後は水・土の深夜1時更新で、12月28日に今回の最終話になる予定です。