アニスとあいつ 3
ちょっと長めです。
「ここは、素晴らしい町だな……」
町外れの大魔女・マーロウの庵と町の中央を繋ぐ道の途上に、そんな事を呟きながら歩く男がいる。
「静かで、美しい。そして、アニスを育んだ町だと思うと、一層素晴らしく見える」
歳は三十手前くらいか。
背はそこそこ、しかしその体付きはひょろりと頼りなく、歩く姿は蜘蛛のように、長い手足を持て余している。
梳られてなお、言うことを聞かないうねり癖のある黒い髪を肩まで伸ばしていて、灰色の瞳は鋭く、視力が悪いのかどうにも目つきが悪い。
偉大なる大魔女を訪ねるべく、身なりは整えているものの、上に羽織っているのは飾り気の一切ない黒いローブだ。
彼の名は、セージ・ソレル。
見た目に違わず、魔術師である。
彼は今、元恋人(いや、まだ『元』ではなく『現』だと信じている。別れてなどいない、断じてない)に復縁を願い出て一旦保留にされ、しかしなんとか次の約束を取り付けて戻ってきたところだった。
取り付く島もないかと思ったがどうやら話し合いには応じてくれると分ったので、絶望の淵からよみがえった彼の足取りは軽やかである。
周囲を見渡す余力も生まれたようで、のどかな町の眺めを堪能しては、時折こうして呟いている。
「ど田舎ですけどねえ」
「何を言うか。いやしかし、この素晴らしさは、魔術師でないと分からないのかもしれない……」
空を仰いで深呼吸をしたセージの呟きに答えたのは、彼付きの女中である。歳の頃はセージの少し上なのだが、セージより若く見える、頬に散ったそばかすの愛しい、明るい雰囲気の女性だ。
主に対するものとしては随分とフランクな口調を咎める事もなく、セージは肩を竦めて首を振り、両の腕を開くと深く息を吸った。
「まず単純に、空気が綺麗だろう。そして魔術師的には、空気中に心地よく魔力が満ちていて、息が楽にできる感じがする。領主家が静養の城館を建てたのも納得できるな。それに、子どもの頃は分からなかったが、今改めて見るとあちらこちらに旧い時代の魔術の名残があって大変興味深い。例えばこの道標、町の中に規則性を持って配置されているようだ。おそらくだが、町を守る魔法陣になっていたんだろう。刻まれている文字からしておそらくはステラ期の魔術だから、中世期の魔術師か魔女の手によるものだろう。しかしそれは今や機能を失って自然に溶け込み調和し、町と一体化している。大魔女殿の庵もステラ期の魔女の庵の特徴が残っていたから、その礎は、その頃の魔女が建てたものだろう。推定だがもう五百年近く前の庵が、あれほどしっかりと残っているとは……、暮らしてきた歴代の魔女たちがしっかりと保全の魔術を掛けてきた結果なんだろう。それに……」
「若様、その辺りで」
言葉が止まらなくなりつつあったセージを今度、止めたのは、彼付きの執事である。こちらはセージの父親ほどの年齢と見えるが、役職に相応しい端然とした雰囲気の持ち主で、いかにも『仕事ができそう』な気配を漂わせている。
専属女中に、専属執事。
そう、セージ・ソレルという魔術師は、世間の魔術師達よりもちょいとばかり、生まれ育ちが高貴な男なのだった。
「若様はやめてくれ……」
「わたくしにとっては、若様はいつまでも若様でございますから。そういえば、若様が魔術に目覚められたのも、奥方様がこの地に静養にいらっしゃって以来でしたな」
「ああ。この地で魔法陣に目を奪われたのが、魔術への学びの始まりだった。……あの日の事を覚えているか?」
「もちろんでございます」
執事の言葉に頷いて、セージは今出てきたばかりの魔女の庵をゆっくりと振り返った。魔女の庵の背後には、豊かで深く、力のある森が、庵を守る城壁の如くにそびえている。
この地を治める領主家――町の警備兵隊長であるディルの実家は、セージの実家であるソレル家の親族である。その縁で、体調を崩したセージの母親がこの地に転地療養をしていたのは、今から二十年近く前のほんの一年ほどのことだった。
都会の暮らしで肺を痛めた(おそらくは喘息だったのだろうと今のセージは考えている)幼い頃のディルがこの地で療養し、随分と元気になったというので、母親の身体にもいいのではと考えた父親が、母子をこの地に送り込んだのだ。
当時のセージもまだ年齢が二桁に満たない子どもで、書物だけを友とするような、華奢で虚弱な少年だった。日々、引きこもっては本を読むことだけに楽しみを見出していて、友達もいなければ運動もしない、太陽に当たらないので色も白く、もやしのようだと言われていた。
そこで、『魔術を愛するのはいいが、引きこもり過ぎだ。お前も空気の良いところで過ごしなさい、そうすれば少しは健康になるだろう』と父親に言われ、母親に同行させられたのである。
「正直、がっかりしたのを覚えている。当時はまだ鉄道も敷かれる前でここまでは随分遠かったし、ここには図書館もなかった。世界の果てに来てしまった、と思ったんだ」
「当時の若様は本の虫でしたからな」
「王立図書館の魔術書を全部読んでやろうと思っていたのに、持っていっていい本は馬車一台分、と言われて途方に暮れたのも覚えているとも。そんなのすぐに読み尽くしてしまう、図書館も博物館もないところで、いったい何をして過ごせと言うんだ、とね。……しかし、この地に来たからこそ、最高の魔法陣と出会えたのだから、何が幸いするか分からないものだな」
そう。
セージはかつてこの地で、魔法陣と出会った。
そして夢中になり、今に至るのである。
「あの日、発動した魔法陣を見て――これこそ我が空虚を埋めるものだ、と直感したことを未だに覚えている。あれは本当に美しかった」
「……あとから事のあらましを聞いた我々は、たいそう、肝が冷えましたよ。湖に落ちたとなれば大ごとですから」
「あの転落も、私を魔法陣と出会わせるための、何者かの差配だったのかも知れないぞ」
しみじみと遠い目をする執事に、セージはそう呟いて再び空を仰いだ。
セージが魔法陣と出会った切っ掛けは、持ち込んだ本を読み尽くして暇を持て余していたセージを、療養が上手くいきすぎてガキ大将となっていたディルが、湖へと連れ出したことだった。
その日、暇を持て余していたセージは釣りに連れ出され、ビギナーズラックで大物を引っかけた。
しかし、初めての釣りだ。釣り上げ方など分かろうはずもない。その上、彼は小柄な子ども、それもまったく鍛えられていない、ひょろひょろの細腕だった。
そんな彼が大物に敵うはずもなく、セージは年かさの少年たちが目を離した一瞬の隙に、あえなく小舟からドボンと湖に落っこちたのである。
しかし、彼の身体が冷たい湖水に触れたその瞬間。
真珠のような光沢をもつ、シャボンのような泡がふわりとセージを包み込み、湖水からその身を護ったのだ。
それは、ボートに刻まれていた、転覆時に乗船者を守る魔法陣が発動した結果だった。
「あの魔法陣があったからこそ、子どもだけで釣りに行く事を許されていたんだろうな。しかし正直、釣りで大変な思いをしたことも、ボートから落ちて怖い思いをしたことも、ほとんど覚えていない。記憶に残っているのは、発動した魔術の淡越しに見た幻想的な世界と、その中で目撃した、輝く魔法陣の美しい姿だけだ」
目の前に現れた、淡く輝く、美しい魔法陣。
これほど美しいものがあるのかと、幼心にセージの胸は震え、心が躍った。
「あの魔法陣の、世界の真理を示す数式のような、整然とした美しさ。一切の無駄のない、見事な構成。――あれが私の、魔術を志す原点となった」
セージは恍惚とした吐息を漏らした。
二十年の時が流れた今となっても、あの日の光景を思い出すだけで、セージは容易く魔術の世界に誘われるのだ。
「今思えばあの魔法陣は、大魔女マーロウ殿の作品だったのではないかな。庵で見た魔法陣と通ずるものがあった」
「大魔女様は長らくこの町にお住まいだとお伺いしておりますので、可能性はございますね」
「……そういえば、あの頃既に、アニスは大魔女殿の弟子だったのだよな。あの頃、アニスともどこかですれ違っていたのだろうか」
「わたくしは、町中でアニス嬢をお見かけした記憶がございますよ」
「何っ」
何気なくそんな事を口にしたセージは、返ってきた執事の言葉に勢いよく振り返った。執事はにこやかに微笑んで、愕然としている主に頷く。
「赤い髪の幼い娘が、お遣いをしているところに出くわしましてな。今年から魔女の弟子になったのだ、と町の方に聞きました。若様のふたつ下と幼いのにすでに良く働いている、真面目な子がいるものだ、と関心したものです」
「つまりお前は、アニスの幼い頃の姿を見たことがある……?」
「はい。幼いけれど顔立ちの整った、聡明そうなお嬢さんでしたな。六歳にしては大人びていたのは、元孤児だったからなのでしょうか。姉弟子らしき娘に連れられて、一生懸命買い物をしておりましたよ」
当時を思い出し、しみじみとそう答えた執事に、セージは愕然としたまま打ち震える。
「……私はつまり本当に、当時のアニスの姿を見逃していたということか⁈ おい、当時の肖像画か写真はないのか……⁉」
「すれ違っただけの男が肖像画を持っていたら、事案でしょう。それに、肖像画や写真を撮影する文化があるのは、貴族やブルジョア《資本家》階級くらいのものでございますよ」
「つまり、その姿を見るためには、お前の頭から記憶を吸い出す魔術を開発すればよい……⁉」
「おやめください。そんな魔術を開発しようものなら、あちら側の組織に取り込まれるのが関の山でございますよ」
「む……。それはつまらんな……」
ならば他に方法はないか。立ち止まり、腕を組んで思索にふけり始めたセージの斜め後ろで、彼の専属執事――名をステファノという――は小さく息をついた。
(それほどお好きで、お顔が動かないと自覚がおありなのならば、せめてアニス嬢に対してお言葉を尽くしてくだされ……)
ステファノにとってアニスは、救世主だった。
なにしろアニスは、セージにあの幼少期以来の二度目の覚醒をもたらした存在なのである。
(なにしろ、若様が自ら交流を強く望んだ人間など、それまでほとんどいなかったのですから……)
考え込むセージを他所に、ステファノも軽く目を伏せ、思いを馳せた。彼はその日――セージの人生に二度目の転換が起こった日のことを、今も鮮明に覚えている。
魔術にしか興味がなく、家柄故にそれを許されて、他の全てを有象無象のごとくに扱っていた気難しい青年が、あの日、初めて見るほどに頬を上気させて、執事の控え室に飛び込んできたのだ。
『どうなさいました』
『ステファノ……、大変だ』
問うた執事に、セージは薄い唇を戦慄かせ、白すぎる頬を赤く染めて、こう叫んだのである。
『私は今日、世界最高の魔女を見つけた! とびきり美しい、運命の魔女を! ……なあ、魔女と親しくなるには、どうすればいい?』
それを聞いたステファノは、手にしていた新聞をばさりと落としたし、女中も受け取ったばかりのヒースのコートを床に落とした。
それは執事と女中にとって、目をつぶっていてもできるほどに慣れた業務を思わず失敗するほどの、とんでもない衝撃だったのだ。
(あの若様が! 人と親しくなりたいと⁉)
(あの坊ちゃまが、生まれて初めて、女性を美しいと思う衝動を……⁉)
長年この若様に仕えてきた執事と女中は目を合わせ、その瞬間から結託した。
その世界最高の魔女様とやらを、なんとか主の『いい人』にしてみせる、そのために、主をもうちょっと『人間』にせねばならぬ、と誓ったのだ。
その後、ふたりの献身とセージ自身の努力もあり、彼は多少の協調性と、相手を思いやる心という、人間関係を構築する上での初歩の初歩、しかし何よりも大切なものを手に入れるに至ったのである。
その甲斐あって、一年ほどの友情期間を経た後に恋人になったと聞いた時には、執事と女中はひっそりと、祝杯をあげたものだった。
(それまでのままの若様でしたら、アニス嬢はとっくに見限っておられたでしょうなあ……。アニス嬢がいなければ、今頃若様はどんな人生を歩んでおられたのか……。孤独をものともせず、いっそうに引きこもっておられたかもしれないが、今ほど功績を挙げられる事もなかったに違いない)
晴れた空を見上げ、ステファノはふたたび息をつく。
彼の人生を決定づけたのは魔法陣だが、彼を人間たらしめたのは、魔女のアニスなのだ。
(それだけに、アニス嬢を逃がしてしまえば、若様はどうなってしまうか分からない……。旦那様さえ、アニス嬢は若様の人生の切り札かもしれないと言っておられたのだから。ああ、なんとかうまくまとまってくれたら良いのですが……)
セージ自身に自覚があるか分からないが、彼女は彼のミューズのようなものだ。
うっかりこのまま別れようものなら、この数日の主の干からび具合からして、ろくでもないことになるのは間違いない。
「ん……?」
「おや?」
主と執事がそれぞれに、思索の中を歩いていたその時、ふいにばさりと鳥の羽ばたきが聞こえて、一行は足を止めた。
セージが改めて見上げれば、晴れ渡った秋の空からハヤブサのような形の鳥が、急降下してくる。
セージがおもむろに腕を突き出せば、滑り降りてきた鳥はその腕に止まり、鋭く一度鳴くと咥えていた小さな書簡を突き出した。
「伝書鳥か」
鳥の身体は淡く発光している。
先ほどセージが送った鳩同様、これもまた魔力でできた、魔術の鳥なのだ。
突き出された書簡を受け取ると、鳥はまた一度鋭く鳴き、それを合図にしたようにするりと解けて消えてしまう。
セージは訝りながら書簡を見つめ、そこに記された署名が先ほど鳩を送った相手のものであることに気がついて、目を丸くした。
「……まさか、もう返事が?」
しかし、鳩は先ほど送ったばかり。王都、もしくは出張先にいるはずの同僚の元には、流石に届いていないはずである。
「偶然か?」
向こうも用事があってこちらに鳥を飛ばしたのかもしれない。そう考え直して小さな書簡を開いたセージは、丸くしていた目をじとりと半眼にした。
「何だというんだ……?」
そこにはこう書かれていたのだ。
今から行く
逃げるなよ
ヒース・ホーソーン




