幕間・マーロウは見た
――これは、アニスが広場で酔っ払いと肩を組み、歌って踊っていた頃のことである。
魔女の庵に残された、老師と幼女はリビングで、吊り下げられたテディベアを間に挟み、向かい合って座っていた。
「さーて。ウチの弟子に手を出したアホ妖精を、どう料理してやろうかねえ」
そう言って舌なめずりをするマーロウの左手には、宙づりにされたテディベア、セオドア二世の足が握られている。
マーロウの言葉を聞いたセオドア二世はじたばたと、吊られていない手足を動かしたが、大魔女の手を逃れるには余りにも柔らかく、力が足りなかった。
「あのう、ししょ、てでぃは……」
怠さを残しつつも、ようやく回復したミシェールは、なんとか相棒の弁護をしようと試みるが、マーロウにぎろりと睨まれて口を閉ざした。
「ミシェール、お前も反省することだよ。師から許しを得るまでは、大人のいないところで魔法陣を描いちゃいけないって、最初に教えただろう」
はっとして、ミシェールが口を噤む。
どうやら魔法陣に興奮しすぎて、その初歩の初歩のことをすっかり忘れていたらしい。
「描いた魔法陣に間違って魔力が流れたら、どうなると思う? 突然火が出て火傷をしたり、水が噴き出してずぶ濡れになるくらいならいいが、今回みたいな力で噴き出したら、ミシェールだけじゃないたくさんの人が、燃えたり溺れたりして死ぬかもしれない」
「あい……。ごめなしゃい……」
「お前ひとりじゃ、後始末もできなかったろう? アニスが後始末をしてくれているから良かったが、帰ってきたら、ちゃんと謝ってお礼を言うんだよ」
「あい……」
マーロウに、きゅ、と小さな鼻を摘ままれて、ミシェールはしょんぼりと肩を落とした。
「いいかい、ミシェール。魔女って言うのはね、普通の人間より強いんだ。だから、力を使うときはよくよく気をつけないと、簡単に他人を傷つけちまう」
アニスが怪我したらいやだろう? そう問われたミシェールは、ふわふわした金の巻き毛を揺らして、こくこくと頷いた。
「お前がまずせにゃならんのは、魔法陣を描く前の勉強だよ。魔法陣を描くためには、先に魔術のことを勉強しなくちゃいけない。そのためにはまず、文字を覚えにゃならん。アニスに文字と魔法文字を習っているだろう? あれを先に頑張るんだ」
「……あい。みしぇ、がんがる」
「おう、頑張りな」
ぐ、と拳を握ったミシェールの頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜてから、マーロウは再び、吊り下げたクマの顔を覗き見た。
「で、こいつだよ。どう料理してやろうかねえ」
セオドア二世はしばらく、ただのぬいぐるみの振りをしていたが、マーロウがじっと睨んだまま目を逸らさないものだから、次第にブルブル震え始めた。
「……ししょ、てでぃ、なんでうごく?」
ぬいぐるみにあるまじき動きをするセオドア二世に、ミシェールが首を傾げる。
「多分、楢の木先生のところで、妖精か雛精霊が紛れ込んだんだろう」
「なんで……?」
「ミシェールのことを気に入って、手伝ってやりたいと思ったんだろうよ」
だが、たいていの場合、妖精や未熟な精霊の手助けは過剰で、人間にとってはありがた迷惑であることが多い。ミシェールのような、年端もいかない小さな子供にとってはなおさらだ。
マーロウは息を吐き、セオドア二世の額を爪で弾いてから、ぶんぶんと宙で振り回した。
「おい、妖精だか雛精霊だか分からんが、お前、今度勝手にミシェールの魔力を使ってみろ。魔封じを付けて鉄の箱の中に閉じ込めてやるからね」
「――!!」
無言の悲鳴が聞こえるような、悲痛な動きで暴れたセオドア二世は、ややあって観念したように、くったりと伸びる。その悲壮感たるや、さめざめとした泣き声が聞こえてくるようだ。
ミシェールはオロオロとマーロウとセオドア二世の顔を行ったり来たりと眺め、無表情でありながら表情豊かなぬいぐるみに、マーロウは呆れて息を吐く。
「お前ね、ミシェールの力になりたいというなら、勝手に力を使って願いを叶えるんじゃなく、ミシェールの使い魔にでもなりな」
呆れつつ吐き出されたマーロウの言葉に、セオドア二世の動きがピタリと止まった。ボタンでできた瞳で、どこか期待感のあるまなざしを向けてくる。
「つかいま、なあに?」
「魔女と契約して魔女を手伝う、魔力を持つ生き物のことだ。使い魔の力を借りたら、お礼として魔力だとか餌だとかをあげる必要はあるがね」
「ごはんあげる、おともらち?」
「……まあ、そんなとこさね」
ミシェールの雑な認識に、マーロウも雑に頷く。
「お前、ミシェールの使い魔になる気はあるかい?」
マーロウの声に、ぬいぐるみは突然、ぶんぶんと激しく動いた。否定のようにも見えなくはないが、その目の輝きからすると、どうやら肯定しているらしい。
「ちなみにお前は妖精かい? それとも雛精霊か?」
雛精霊、の言葉に合わせてセオドア二世は激しく揺れる。やれやれ、とマーロウは声に出して呆れた。
雛精霊とは文字通り、『発生したばかりの精霊』を指す言葉だ。世界との関わりもまだ浅く、力の使い方も未熟で、偉大な精霊になる前に、消えてしまうものも多い。そして、『精霊の悪戯』の原因はほとんどがこの、雛精霊によるものだと言われている。
「ミシェール、お前はどうだい。このクマの中の雛精霊を、使い魔にしてやるつもりはあるかい? あんまり使えるヤツじゃないかもしれんが……」
「んー……」
首を傾げたミシェールにアピールするかのように、セオドア二世はぶんぶんと揺れる。
「うーん。みしぇのちから、かってちないんだったら、ちてもいい!」
ミシェールの言葉に頷くようにセオドア二世の揺れが激しくなり、マーロウは思わず噴き出した。
「あっはっは! しゃべらんのにこんなにうるさいぬいぐるみは初めてだ! なら、魔女マーロウが契約を代行してやろう。お前、名前は『セオドア二世』のままでいいね?」
頷くように揺れたセオドア二世をミシェールに渡したマーロウは、資材室をごそごそと漁り、契約の魔法陣を引っ張り出す。
玄関マットほどの大きさのそれを床に敷き、上にミシェールとセオドア二世を座らせると、マーロウは短杖を取り出して、トントン、と魔法陣の縁を叩いた。
「じゃあミシェール、あたしが呪文を唱えたら、自分の名前とそのクマの名前を呼んで、魔力を流しな」
「あい!」
「――!」
ミシェールが片手を上げてよい子の返事をし、セオドア二世がこくこくと頷く。マーロウはミシェールに、セオドア二世と手をつなぐように指示し、ひとつ息を吸うと厳かに口を開いた。
『森の使徒たる魔女の一族が裔、マーロウが、弟子ミシェールの使い魔の儀を代行する。主、森の愛し子、名をミシェール。従、魔女のぬいぐるみにして雛精霊、名をセオドア二世、愛称テディ。ふたりの魔力よ結びつき、主と従のちぎりを成せ』
『しゅはみしぇーる! じゅうはせおどあにせい!』
言葉の意味が正しく伝わっているかは怪しいが、発音はなんとか、正しくできた。
薄く微笑んだマーロウの短杖から、黄金に輝く魔力が流れ、魔術陣をぐるりとたどる。
「ほわ……」
闇夜で人々を導く灯火の明かりのようなそれの美しさに、ミシェールが思わず吐息を漏らす。
始点から終点へ、巡り切った黄金の魔力は、最後にひときわ眩く輝くと、ふわりと魔法陣から浮き上がる。光球は、眼を丸くするミシェールの目の前まで漂ってくるとふたつに分かれ、ミシェールとセオドア二世それぞれの身体に、すっと沈んだ。
「……きえた!」
頬を上気させ、セオドア二世を抱えてくるくるとまわるミシェールの手を取り、ひとりと一匹の状態を確認したマーロウは、大きく頷く。
「成功したようだね」
「わあい! よろちく、てでぃ!」
ぴかり、セオドア二世のボタンでできた目が輝き、クマはこくりと頷いた。
――こうして、アニスの知らないところでまたひとつ。魔女の庵に問題児が増えたのであった。




