アニスが帰郷を決めた、その顛末 2
「そういやさあ、セージ・ソレル結婚するらしいじゃん?」
「——え、まじ?」
——ここで、冒頭に戻るのである。
思わずフォークから芋を取り落としたアニスに、躍る一角獣亭で遭遇した友人のアイヴィはニヤニヤしていた表情をさっと真顔に変えた。
「……えっ。相手、あんたじゃないんだ?」
アイヴィの言葉にアニスは眉間に皺を寄せ、ここしばらくセージから何らか連絡があったかと振り返ってみたが、言伝てどころか一通の手紙すら届いた記憶がない。もっとも、こちらからも出していないのでお互い様ではある。
「わたしが記憶喪失になってるんでなければ、プロポーズされた記憶は今んとこないねえ……。というかしばらく会ってもいない」
「え……ええー……」
豊かに波打つ金の髪と、名の示すような濃い緑色の瞳が美しいアイヴィの、華やかに整った顔が、苦手なものでも食べたかのように歪む。
「……聞きましたよねェ?」
「……アイヴィ。お前が聞いたやつには、続きがあってな。なんでも研究局のお偉いさんのお嬢様との縁談が決まったとか、なんとか」
アイヴィの隣りで舌鼓を打っていた彼女の上司が、言いづらそうに言葉を濁す。
「ハア?!」
アイヴィが働いているのは、王都の魔術師達の相互扶助を目的とした組織である『王都魔術師協会』なる組織である。彼女はそこの敏腕魔女で、王都で仕事をする魔術師達が恙なく過ごせるよう、仕事を斡旋したり住むところを紹介したり揉めことの仲裁をしたりと、日々忙しく飛び回っている。
見た目のたおやかさを裏切るすばらしい豪腕だと、王都で話題の魔女のひとりなのだ。
そんな仕事をしている彼らのところには、王都中の魔術師たちにまつわるニュースや噂が集まってくるのである。王城付近の研究所から滅多に出てこない王立魔術研究局の職員であっても、彼らの情報網からは逃れられないものらしい。
カッと目を見開き口を開けてアニスと上司を見るアイヴィの向こうで、彼女の上司はぼそぼそと言葉を続ける。
「ほら、セージ・ソレルは去年、とんでもない発明で話題になっただろう」
「……えーと、小型転移装置? でしたっけ。手紙程度であれば、魔術で長距離転送ができる、という」
「それそれ。いままで人とか鳥に託してた手紙が、隣県くらいまでなら数分のラグで届くようになるかもしれないって言う。つまり、各県毎に転送装置をおければ、一日二日で国の端まで手紙が届くかもしれないってことだ。革命的な道具だよなあ」
「ええ、天才かよと思いました」
「天才だよなー」
アイヴィの上司の言葉に、アニスも頷く。
その話を聞いたとき、この男は本物の天才だったのかと戦慄したことをまだ覚えている。
それに伴ってセージの仕事は一層忙しくなり、ふたりが会う機会は激減したのだが、目を輝かせ――いやギラつかせ、己の発明について口を挟む間もないほど滔々と語る姿に、仕方がないなと笑った記憶がよみがえった。
「量産はまだ先みたいだが、研究局は本腰を入れて研究を加速させたいと思っているようでな。ウチにも腕利きの魔道具師を紹介してくれって話が来てる。……まあ、そんな腕っこきの魔術師を、研究局としちゃあ逃したくないわけだ」
「なるほど、それは縁談にもなりますねえ」
「……なぁにを暢気なことを言っとるンかァ!!」
ガターンと、丈夫な樫の木で出来た年代物の椅子が轟音を立ててひっくり返る。争う魔術師達でも尻尾を巻いて退散すると協会でも評判の、雄々しい勢いで立ち上がったアイヴィは、目を白黒とさせるアニスの両肩を掴んでガシガシと揺すった。
「アンタの男を盗られかけてンでしょうがァ!!」
「あ、あい、あいび、ゆす、ゆすらないで」
「腑抜けたこと言ゥとらんでギチギチに問い詰めんかい!!」
「わ、ワインがで、でちゃうっ」
「おい落ち着け、飲んでる奴を揺するな」
上司がアイヴィの肩を叩き、店員に頭を下げて椅子を直しているその隙に、アニスはアイヴィの腕からなんとか逃れた。
「と、は言っても、ねえ……」
アニスはううんと口ごもる。
「……半年、お互いに連絡してないんだよねえ」
「はァ?」
アイヴィのドスの利いた声がアニスの耳を打つ。胸ぐらを捕まれそうになって、アニスは今度はさっと身をひねった。しかし彼女は厳めしい顔をして、アニスの眼前にずいと首を突き出す。
「どゆこと?」
「その、わたしも、だいぶ、忙しくてさ……」
「アニス、あんたもしかして……また?」
ぎこちなく頷いたアニスに、彼女の悪癖を知るアイヴィは、額に手を当てると深い息を吐いた。
「だから前から言ってるじゃないのよ。あんた、仕事にめちゃくちゃのめり込む質なんだから気を付けな、やり過ぎると人間関係を失うよ、って」
「……なんだか、穏やかじゃないな?」
首を傾げて覗き込んできた上司にくるりと振り返り、アイヴィは捲し立てる。
「聞いてくださいよ、アニスは自営業の職人なんですけど、仕事を受けるとぜんっぜん連絡が付かなくなることが昔から結構あって……」
次から次へと挙げられる前科に、アニスは小さくなって頭を垂れた。アイヴィの上司はアニスをちらりと横目で見ると苦笑し、それからすうっと真面目な顔になって言葉を紡ぐ。
「そりゃ危ない。魔術師協会にもたまに、引きこもりの魔術師が急に倒れて、誰も気づかないまま天の橋を渡っちまった、っていう案件が持ち込まれるんだよなあ……」
天の橋。それは、あの世とこの世を隔てる河に架かっていて、魂しか渡れないと言い伝わる、永のお別れの象徴である。
「き、気をつけます……」
それはさすがにぞっとしない。想像して背筋を冷やしたアニスはこほんと咳払いをひとつして、顔をしかめたままのアイヴィに向かい、口を開いた。
「だからまあ、セージについては自然消滅と考えても不思議はない、かも……」
はっきりと、別れ話をしたわけではない。でも、半年の間、互いに連絡を取っていないのだから、彼が自分たちの関係性は自然消滅したと考えたのだとしても、あり得ないとは言えないのではないか。
「……あのねえ。半年ぐらいのブランクじゃまだ、消滅って言わないと思うわよ? いいことアニス、別れるなら別れるで、はっきりさせときなさい。色恋沙汰で揉める魔術師、意外といるんだかんね! そういう仲裁は、協会じゃやってないんですけどね!? んなもん持ち込むな!!」
「そ、そうなのね……」
「そうなの! ですよね?!」
「お、おう……、そうだな……」
アイヴィの剣幕に気圧されて、彼女の上司も思わず頷く。アニスも当然こくこくと首を勢いよく縦に振り、声を絞り出した。
「……一応、明日か明後日には、問い詰めてみるわ」
「ぜっっったいよ?!」
猛禽類の如く鋭い目を見せたアイヴィは、グラスを握るアニスの手首を掴むと、高々と天井に向かって突き上げる。そしてそこに、自分のグラスをカチンと当てた。
「それじゃ、明日のアニスを鼓舞するために! かんぱーい!」
「か、かんぱーい……?」
「カンパーイ」
アイヴィの上司がつられたようにジョッキを持ち上げ、ごちんとぶつける。ふたりのグラスに大きな波が立った。
*
(この店も久しぶりだな……)
翌々日。
アニスは王立魔術研究局の向かいにある老舗のカフェでひとり、タルトタタンを突きつつ、ふわふわに泡立てられたミルクの揺れるコーヒーを、静かに啜っていた。
今から五十年程前、王立魔術研究局の前身である魔法研究所が出来た時に創設者の友人が開いたというこのカフェは、食事を疎かにしがちな研究局に勤める職員達に食事を摂らせる為に、朝早くから夜遅くまで店を開けている。職員やその関係者からは「研究局食堂」と呼ばれているが、周辺の住人にも人気のある美味しい店だ。
(最後に来たのはいつだったかな? この半年の大仕事の前に、久しぶりに飲みに行こう、って待ち合わせしたんだったっけ? いや、あの時はあいつの家に行ったはずだから、もしや年始に待ち合わせて以来? ……いやだ、十ヶ月くらい経ってるってこと?)
アニスはちらり、綺麗に磨かれたガラス窓の向こうに視線を投げた。
カフェの座席の多くは大きな窓越しに研究局の玄関を向く形で設置されている。お陰で、開発や研究にのめり込む職員と彼らの友人知人恋人達との待ち合わせ(正しく言うと、連絡が付きづらい彼らの退局を待ち伏せて、捕まえるのだ)によく利用されている。どうやら初代店主が友人《創設者》を捕まえる為に、そんな店構えにしたらしい。
アニスも過去に幾度か、セージが仕事を終えて出てくるのをこの席で待ったことがある。何しろ、手紙を送るよりよほど確実に捕まるのだ。
(今日も返信なかったし……)
酔って帰った翌朝に、メッセンジャーボーイに手紙を頼んで研究局の寮まで届けてもらったのだが、案の定、今日の昼になっても返信はなかった。しかし彼のことなので、研究に夢中になって研究局に泊まり込んでいて、寮に帰っていない可能性が高い。
こういう時は、返信を待っていると月単位になってしまうことが常なので、アニスは久しぶりにこの店で、『出待ち』をすることにしたのである。
(今年のタルトタタンもとっても美味しい。……しかし、出てこないな)
この店の名物である、シナモンの香る大ぶりのタルトタタンを切り分けて、アニスはひとつ息を吐く。昼前に店に入ってからすでに半日。ランチタイムもおやつタイムも通り過ぎたが、今のところ、研究局の玄関にセージの姿は見当たらない。
(これは、退局まで待つしかないか……、ん?)
カフェの中にある時計を見上げ、アニスがそう独りごちた時。ガラスの向こうに見える研究局、その前の車寄せに立派な造りの馬車が入ってきた。
艶やかな飴色の箱馬車で、窓には赤いベルベットのカーテンが掛かっている。貴族や裕福な人々が、日常的に使うものだ。研究局の職員達は近頃使われ始めた魔導車や乗合馬車を利用する者が多いので、なかなか珍しい光景である。
誰かお偉いさんでも来ているのだろうか。そんなことを考えて、何の気なしに研究局の出入り口へと視線を向けたアニスは、そこに映った姿に目を見開いた。
シワひとつない三つ揃いのスーツに身を包んだ男が、年若い令嬢をエスコートして扉を出てきたのだ。
(……セージ!?)
今は梳られ、後ろでひとつに結ばれているようだが、癖の強い、伸びっぱなしになっている黒い髪と、気難しげな灰色の瞳。整ってはいるもののどこか神経質そうで、引きこもっている職種故に色白な肌と、筋肉も脂肪も見当たらないひょろりと伸びた背と手足。これほどかっちりとした姿をしているところは今までに見たことがないが、その男は間違いなく、アニスの恋人のはずの男、セージ・ソレルだ。
(……見間違い? いやでも、本人よね?)
アニスが目を疑ったのは、彼の表情が、いつもとまるで違って見えたからだった。
彼はいつも何かしら考え込んでいるせいで、不機嫌そうに見える顔つきをしている。そうでなければ、何かに夢中になって目をギラギラと輝かせていることの方が多い。
しかし今は、いつもならば深い渓谷が刻まれている眉間と険しい瞳は柔らかく、口の端にはほのかな笑みが乗っている。そして、これほど大切なものはないと言わんばかりの恭しい仕草で、隣りに立つ令嬢の手を取っているのだ。
それを受ける令嬢は、縁談相手にしては少々歳が若すぎるようにも思われたが、貴族や名家と呼ばれる家柄の婚姻は、年の差があるものだという話も聞く。
それに彼女は遠目にも美しいと分かる顔立ちで、夏の麦穂のような黄金の髪を秋風に柔らかく揺らしていた。彼女の秋らしい紅茶色のドレスは白いレースと赤いリボン、そして木の実を模した飾りに彩られていて、いかにも淑女、といった風情だ。
(っていうか……)
ガタン、と音がしたのは、アニスが無意識の内に立ち上がっていたからだった。座っていた椅子は後ろ向きに倒れ、閑散とした店内で店員が目を丸くしていたが、アニスはそれにも気づかない。
縁談は本当だったのかとか。
だから返信がなかったのかとか。
他人の口から聞くだなんてあんまりにも水臭いんじゃないのとか。
(あんな顔、わたしも見たことないンですけど!?)
色々な言葉が一瞬で脳裏を駆け巡ったが、一番はそれだった。
優しく柔らかい顔をしている彼を見たのは、いつが最後だろう。いや、見たことなど一度もないのではないか。あんな顔ができるというのなら、今までの彼との付き合いは一体何だったのか。
怒りのような哀しみのような、激情にも近い勢いのある何かが、アニスの胸の内を駆け巡って、引き裂かんばかりに爪を立てる。
カッと頭に血が上り、一発ひっぱたいてやろうかと一歩踏み出しかけたアニスは、その瞬間、自分の足がふわりと揺らぎ、膝がガクンと抜けるのを感じた。
(あ、やばい、目の前が、霞む)
慌てて手元――カフェテーブルに縋りつくが間に合わない。アニスの身体は勢いよく傾ぎ、そのまま床へと打ち付けられた。