アニス、駆けずりまわる 1
「あのディル坊ちゃんがねえ……!」
翌日。
朝食が終わった後の時間を狙い、マーロウの庵の隣家(といっても、徒歩で十分ほどかかるのだが)を訪れたアニスは、隣家の夫人であるヤナと茶卓を囲んでいた。
場所は隣家の居間。大きな窓の外に、冬枯れながら美しい庭が広がっているのが見られる、ヤナ夫人ご自慢の一室である。
ふたりの間の卓には、美しい刺繍のテーブルクロスが掛けられており、その上には素朴な焼き菓子と薬草茶、そしてあの後アニスが寝ずに清書した小鳥のモチーフの図案が置かれていた。
「お小さい頃は病弱で、大きくなってからはやんちゃだった、あのディル坊ちゃんが! 町を思って、そんな事をねえ……!」
そう言って目尻を拭うヤナは、マーロウよりは若年に見える、ベテラン世代のご婦人だ。白髪の方が多くなったブルネットとこの地域に多い青の目、恰幅の良い身体、そして働き者らしい、節くれ立った手を持っている。
アニスがこの町にいた頃はまだ、隣家の住人ではなかった彼女は、夫が元役人、本人は元教師で、五年ほど前からここに暮らしているのだという。夫婦ふたり揃ってこの町外れに移り住んだのは、趣味の手芸と庭仕事に精を出すためであったらしい。
手芸も庭仕事も、その手腕は玄人はだしで、見事な庭には近隣の奥様方が集まって、よく茶会を開いているのだとか。
間違いなく、この町の奥様情報網のひとつの起点になっているご婦人である。
「屈強な隊長さんでしたけどねえ」
「ほんとにねえ。立派になってねえ」
何やら感極まっているヤナに、アニスは苦笑しつつ、出された薬草茶に手を伸ばした。
マーロウもよく飲んでいる、この地域で採れる薬草を乾燥させたこのお茶は、身体を温める効果が高く、冬は特に重宝されるのだ。
「あ、おいしい」
「これ、ウチの庭で採れた葉っぱを使ってるんだよ」
「さすが、『緑の手』……!」
「よしとくれ。本物の魔女さんに言われたら、居心地が悪いよ」
カラカラと笑い、ヤナは茶請けの菓子に手を伸ばした。昨日、ヤナの元に遊びに来た近所のご婦人が焼いてきてくれたという、木の実たっぷりのマフィンだ。
「で、ええと、本題は小鳥さんの刺繍のオーナーメントの話だったね」
「そうなんです。隊長さんから相談されたんですが、思ったよりもお話が大きくて……。いくらわたしが魔女とは言っても、ひとりでは流石に難しい規模の話なので……」
「そうさねえ。五十個とか七十個とかは、頑張れば出来るだろうけども。継続的に売ろうと思ったら、定期的にそれなりの数を用意しなきゃいけなくなる、ってことだもんねえ」
「まあ、そんなに売れるかは分かりませんけど……。まずは今回の七十個の制作で、ご協力をお願いできないでしょうか」
「もちろんだよ」
胸元をどん、と叩いてヤナは頷いた。
ヤナの快諾に、アニスはほっと胸を撫で下ろす。
「町の工芸品として定着したら、嬉しいお話だしねえ。あたしたちの冬の手仕事になるし、子供たちも守ってやれる。それにきっと、これを欲しがるのは子を持つ親だけじゃないよ。老いた親を持つ子供や旅人、あとは狩人だとか鉱夫だとか、危険のある仕事の人間にだって売れるだろう。妊婦さんとかも欲しがるかもしれないよ」
「ああ、確かにそうですね」
アニスはぱちりと瞬いた。
ミシェールの為に作ったものだからと、子を守る機能ばかり考えていたが、よく考えずともこれには、身を守る護符のような効果があるのだ。
「需要、思ったよりあるかもしれません……」
「あたしはそう思うよ。ああでも、そうだ、アニスちゃん、あんた『聖乙女の孤児院』の出じゃなかったかい?」
「はい、そうです」
町唯一の孤児院の名を上げられて、アニスは頷く。
アニスは、親の記憶を持たない孤児だ。はぐれたのか死別なのか、捨てられたのか、それすらもよく分かっていない。
三歳くらいの時に町の外れで保護されて、神殿に属する孤児院に預けられたらしいのだが、アニスは自分の名前以外のそれまでのことを、何も覚えていなかった、らしいのである。
六歳で魔力保持者だと分かってマーロウの元に引き取られ、以来、魔女として暮らしている。
「だったら、このお話、そこにも持って行きなよ。今の領主様が後を継がれてから、あそこも結構変わってね、今は子供たちに職業訓練なんかもしてるんだよ。もしもこの先続くんなら、刺繍とか縫製とか、あたしのとことあそこでやったら良いじゃないかね。売り上げの一部を寄付することにすれば、慈善活動にもなるだろう?」
アニスは再び、ぱちぱちと瞬いた。
さすがは元教師とでも言うべきか、アニスでは全く思いつきもしない観点だ。
「それは良いかもしれません。わたし、あんまりあの頃のことを覚えていないのもあって、恩返しとか全然出来ていないですし……。院長先生にはよくして頂いたらしいのですが」
「決まりだね。そうだ、今回のも、幾つかあたしらで作ってみて、良さそうだったら子供たちも巻き込もうじゃないか!」
「ぜひ!」
話が盛り上がり、ふたりが思わず握手をしようとした、丁度その時。
「うわああああ!?」
「ななななななななあにこれえええ!?」
『ギャアギャアギャア!』
庭先から、耳をつんざく大音声の悲鳴が聞こえ、ふたりはぎくりと身を震わせた。
「な、何……?」
「ヤン⁈ ラウラ⁈」
「ヤナさん!?」
どうやら声の主は、ヤナの孫息子と孫娘らしい。
弾かれた様に飛び出したヤナの背を追い、アニスも慌てて部屋を飛び出し――目の前に現れたものに、絶句した。
「なななな、なんだいこりゃあ!?」
一歩先に家を飛び出したヤナがふらりと後ずさり、目の前の光景に尻餅をつく。
『ギャアア ギャアアア』
『プキュプキュプキュ』
『ピィピィ ピィイイ』
ヤナの家の前庭に植えられた、大きな木。
その枝に、色とりどりの無数の鳥が留まり、かしましく鳴き声を上げていたのだ。
「おばあちゃあああん! きゅ、急に、鳥がいっぱい飛んできたあ!」
「み、見たことない鳥ばっかりだよばあちゃん!」
「つっつかれそうになったよお」
「めっちゃびびった……!」
「一体全体、これはどうしたことだい……」
うわああん、と泣きわめきながら、ヤナの孫たちが祖母に駆け寄った。
彼女たちを見送るように一層かしましく鳴くのは、この周辺どころか、王都近辺でも一度たりとも見たことのないカラフルな鳥たちである。
巨大な黄色いくちばしを持つ、ぎょろりとした目の黒い鳥。まるでティアラのような金色の冠羽を持つ、赤い鳥。身体が虹色の鳥に、尾が地面につきそうな程に長い鳥。やけに首の長い白い鳥に、やたらと足の長いピンクの鳥、などなど、など。
「……図鑑か王都の動物園でしか見たことない、異国の鳥ばっかりだわ」
アニスはぼそりと呟いて、木の上の鳥を見つめた。
「魔女さんあのね、おばあちゃんちだけじゃないの。町の方にもいーっぱい、飛んで行ったのよ……」
「群れみたいな数、飛んでった!」
尻餅をつく祖母の左右にとりつきながら、幼い孫たちは口々に、自分の見たものを口にする。
町の外れでこれならば、町中にこれほどの鳥がいたなら、一体どれほどの騒ぎになっていることか。
「この鳥……、魔術で出来てるみたいです」
異国の鳥がグアグアガアガア鳴きながらすずなりになっている木を見上げ、アニスは目を眇める。
魔力を意識をして鳥たちを見ると、何やら淡い水色と緑色の二種類の魔力が、ちらちらと輝きながら鳥たちの周囲を巡っているようだ。
(この色、もしかして、ミシェール?)
淡い緑色の方は分からないが、淡い水色はミシェールの目の色によく似ている気がする。魔術師の魔力の色は、目に現れることが多いものなのだ。
「……これはたぶん『導きの小鳥』と同じ、魔力で一時的に作られた鳥だと思います」
「なんだって? マーロウのばあさん、ついに耄碌しちまったのかね……?」
アニスの言葉に、ヤナがポロリとそんな事を言う。それなりに高齢のヤナに、更にばあさんと呼ばれる師匠は一体幾つなのか。そんな益体もないことが脳裏に浮かんだが、アニスは慌てて首を横に振り、鳥をじっと睨み付けた。
「いやいや、あの人は骨折したって矍鑠としてますよ。魔力の色も違いますし、これはたぶん……、ミシェールです」
「いやいや、あの子はまだほんの赤ん坊じゃないか。たしか、三歳とかなんじゃなかったかい? まだ魔法なんて使えないだろう」
ヤナが首を傾げ、アニスもううんと小さく唸る。
幼い子供は魔力があっても、魔術は使えないのが一般的だ。魔術を発現するための手続きである、呪文の詠唱がまだ困難であるし、握力のない小さな手では、魔法陣を正しく編むことも出来ないからだ。
(でも、あの子は『森の愛し子』だから、ひょっとして何か発動しちゃったのかもしれない)
魔術とは、魔法種族と呼ばれた古代種族が使っていた『魔法』を人間が使えるようにするため、偉大な先人たちがその方法を模索して編み出した『術』だ。
人間が魔術を使うためには、魔力と、力のある言葉や文字、図形を組み合わせた『魔術を発動させるための仕組み』の構築が必要である。
しかし、魔法種族と呼ばれた人々の使う『魔法』には、そのような手順は必要ない。彼らは息を吸うように、己のイメージしたものを魔力で具現化することで、力を振るったのだ。
(……楢の木で見た精霊様もそうだった。もしかして、愛し子ってそういうことが可能なのでは……⁈)
だとしたら、とんでもないことだ。
何しろあの子はまだ、大人ほどには自制の出来ない、小さな子供なのだから。
アニスはぶるりと背を震わせ、ヤナたちを振り返ると、庭の入り口へと駆け出した。
「そのはずなんですけど……、ごめんなさい。今日はいったん帰りますね! 詳しくはまた後日!」
「そうさね、気をつけて!」
「はい! ではまた!」
ヤナの声援と、うるさく鳴き続ける鳥たちの鳴き声を背に、アニスは全速力で隣家を飛び出した。