アニスと森のファンタジー 3
「精霊様」
「えっ?」
その姿を目にした途端、青年に向かって膝をつき、姿勢を正したマーロウの言葉に、アニスはぎょっとしてよろめいた。
(せ、精霊……⁈)
なにしろ、『精霊』といえば、古の伝説に現れる超自然的存在である。概念や自然の中から現れて魔術を超える力を使い、時に恩寵を、時に天罰を下す、神にも近しい存在だ。
慈悲を受けられるのであれば人の身には余るような恵みがあり、罰を与えられるとそれは魂までも滅ぼすほどに苛烈だという。
(本物……⁈)
アニスは激しく瞬き、震える。
なにしろ、精霊を見たという記録はほとんどないのだ。歴史的に著名な魔術師や神官が邂逅したという手記を残していたり、各地に残る民間伝承に時折現れたりはするものの、どれも信憑性を疑われる程には古い時代の記録である。故に、もはや精霊は消滅し、実在しないと唱える学者もいるほどなのだ。
驚きのあまり、抱え込んだミシェールを落としそうになり、アニスは慌てて踏ん張る。
それを見て、精霊と呼ばれた青年はくすりと笑い、ゆっくりと立ち上がった。彼の動きに合わせて揺れるのは、古風なデザインをした青年の衣にまとわりつく、薄く柔らかい領巾だ。風もないのにふわりと揺れて、青年の周りを揺蕩っている。
『やあ、森の魔女。久しいね』
青年の唇が動き、紡がれたのは木の葉のさざめきのような、耳に心地よい妙なる響きの声だった。アニスは思わず陶然として、その声に聞き入る。
『百年ぶりくらいだっけ? 二百年かな?』
「……五十年程前に、一度お会いいたしました」
『おや、思ったより最近だった』
「我々人の子と御身では、時の流れが違います故」
『そうだった、そうだった。そちらの若い森の魔女も、あっというまに大きくなったものね』
マーロウと会話をする精霊の姿に、それまで驚きに固まっていたアニスはハッと我に返った。慌ててミシェールを腕から下ろすと、マーロウの後ろで片膝をつく。
『ふたりとも、そう畏まる必要はない、顔を上げて』
ふ、と青年が微笑む気配がして、アニスは恐る恐る顔を上げ、改めて息を吞んだ。
四季折々の森を写し、刻々と色を変える艶やかな虹彩。高い鼻と深い眼窩、薄く形の良い唇に滑らかな頬、長い睫毛とバランスの良い眉。
――それは、左右の完全に整った、一部のゆがみもない顔。人間にはあり得ない、天上の美貌だった。
『若い森の魔女はいつぶりかな? この前、森を出ると挨拶に来たような記憶があるけれど』
絶句するアニスに、森の精霊らしき男は微笑む。
(ひい。美し過ぎる微笑みって、圧力を感じるものなのね……。こ、怖い……)
余りにも眩い顔貌に目眩がするが、アニスは必死で踏ん張って、精霊に言葉を返した。
「ぜ、前回お邪魔しましたのは、もう十年前のことです。……先日、師の元に戻って参りました。一時的か、この先ずっとかは、まだ決めておりません」
『十年か。ぼくたちには瞬きの間のことだけれど、人の子にとってはそれなりの年月なのだっけ。――ああ、だからそう畏まる事はないよ。森の魔女も顔をお上げ』
精霊は小さく笑い、再び頭を下げようとするアニスの顔を上げさせた。マーロウもゆっくりと顔を上げ、改めて感謝を告げる。
「……精霊様。直接お礼を述べられる栄誉を賜り、光栄にございます。この度は我が新弟子、ミシェールを災難からお助けくださいまして、誠にありがとうございました」
『ふふ。元気な子だよね。ミシェール』
おいで、と手招きされたミシェールは、ムッと眉根を寄せて首を振る。
「……くっきー、たべた」
『おや、嫌われてしまったかな』
「こらミシェール、それは元々、精霊様のものだろう。精霊様が召し上がらなかったら人が食べて良いと、ただそれだけなのだからね」
マーロウの言葉に、ミシェールはぷいとそっぽを向いた。精霊は笑い、アニスは(そういえば、わたしの焼いたクッキーを精霊様が食べた⁈)と青ざめる。
素朴な、と言えば聞こえはいいが、実際のところは慌てて焼いた、簡素なクッキーなのだ。そんなものを捧げたと、罰があたらないだろうか。
『ふふ。そう震えることはないよ、若い森の魔女。君の焼いたこれはなかなか美味だ。以前よりも腕を上げたね』
「あ、ありがとうございます……?」
(旅立つ前に供えた焼き菓子も、知らない間に精霊様に食べられてた、ってこと……⁈)
額に滲んだ汗を拭うアニスの隣で、ミシェールは未だ未練たっぷりに精霊を睨んでいる。
「くっきー……。たべたかった……」
「こ、こら、ミシェール!」
なんと恐ろしいことを言うのかと慌てて窘めるアニスに、精霊はくつくつと笑い、未だ手に持っていた一枚をミシェールに差し出した。
アニスは恐ろしさに震えたが、ミシェールはぱっと笑顔になって、精霊に駆け寄り「ありがと!」と飛びつく。
「おいちーい」
『ふふ、子供は元気が一番だねえ』
「おにーしゃんは、あにしゅのちーとでしゅか?」
『ちーと、とはなんだろうか? でもぼくは、君の姉弟子に会いに来たわけではないよ。君の姉弟子も、良い魔力の持ち主ではあるけれどね。その君のドレスの裾は、姉弟子の魔法陣だろう?』
「しょう! あにしゅの! おしめしゃまのりぼん! かあいでしょ!」
『うん、良い魔力、良い魔術だ』
クッキーを片手に、精霊の前で無邪気にくるりと回るミシェールに、精霊は破顔して頷く。
『でもね、ぼくは君に会ってみたくて出て来たんだ』
「みしぇに?」
「……精霊様、此度は何故、お姿をお見せ下さったのでしょうか」
ミシェールと精霊の会話に困惑を隠さず、マーロウが問う。精霊は人外の美貌で微笑んで、クッキーをむさぼるアニスの頭をふわりと撫でた。
『今言った通り、この子に会ってみたかったんだよ。この前、この子を連れて挨拶に来てくれただろう?』
精霊の言葉にただ頷き、マーロウが先を促す。
『この子の祖は、ぼくが若木だった頃にこの地を離れた森の民のひとりだ。とびきり好奇心が旺盛で、力も強かった彼は儚い命の人に焦がれ、人間に馴染んでずいぶん遠方に行ったらしいと聞いていた』
(この方は本当の本当に、伝説の存在なんだ……)
アニスはごくりと息を吞み、唇をわななかせた。
ミシェールは、その成長の遅さと知能の発育状態から、おそらくは長命種、それも魔法人と呼ばれた人たちの先祖返りだろうと目されている。
そして、魔法人や精霊と言った存在は、魔術を志す者たちにとって、いわば憧れの遠い先達なのである。しかし、その実態や歴史的なことは、良く分かっていないのだ。
(――も、もしかして、い、いま、わたし、世界の秘密の端っこを、覗き見ているのでは⁈)
アニスはついに、ぶるりと大きく震えた。
今、世界の神秘に触れているのだと、唐突に理解したのだ。
(……セージがここにいたら、一体どれだけ震えたかしらね)
あの元恋人がこの現状を見聞きしたなら、アニス以上に震えて我を失い、後から根掘り葉掘りネチネチじっくり何日でも、起こった事を聞き取り検証し、歓喜に震えてこねくり回しただろう。
不意にそんな事を思い浮かべ、アニスは「こんな時に」と思わず苦笑した。吹っ切ったつもりでも、やはりそう簡単に切り替えられるものではないようだ。
『だのにその末裔がこの森に現れたものだから、気になってしまってね。しかも、この子は君たちの言葉で言う、先祖返りというものだろう?』
「わたくしどもはそう考えておりますが……」
神秘とのふれあいに感動し、また過去に思いを馳せるアニスを他所に、マーロウと精霊の会話は進む。
精霊はまだクッキーをかじっているミシェールの頭を今一度撫で、それからその額に小さく口づけた。
(精霊の、祝福……⁈)
アニスと、そしてマーロウは息を吞み、精霊を見上げた。精霊の口づけは、祝福――精霊による守護と、被祝福者の能力の底上げをもたらすと言われている。
それは時に、人の身には過ぎると言われる程のもので……今、とんでもないものがミシェールに与えられたのだ。
「精霊様⁈」
『この森にとっては再会の子、森の寵児、愛し子だ。森の記憶を残す旧いものたちが皆、この子の訪れを歓迎している』
(ひえっ……!)
精霊が微笑むと、彼らを包む周囲の木々は冬の枝を鳴らし、一瞬で新芽を着け緑の木々に変わった。森の奥から鹿の遠鳴きが響き、小鳥がさえずって、眠っているはずのリスが枝から木の実を落とし、季節外れの花が咲き乱れる。
「しゅごーい!」
「精霊様、これは……」
にわかに春の様相となった森に、アニスとマーロウは言葉を失い、ミシェールは目を輝かせて楢の木の周りを駆け回った。
『森が、この子の訪れを喜んでいるのだよ』
呆気に取られ、固まってしまった魔女たちに、精霊は微笑みを投げかけてると、おもむろに楢の木にもたれかかった。
『――さて、そろそろぼくは消えよう。森が喜び続けて常春になってしまうと、あちらと繋がってしまうからね。ミシェール、ぼくたちはいつも、君を見守っている。また、遊びにおいで』
「あい!」
『森の魔女たち、この裔の愛し子をよろしく頼むよ』
「……御身と見えましたこと、幸甚の至りにございました。この森の魔女、永劫に忘れませぬ」
『ふふ。ではまたね』
マーロウが丁寧に頭を垂れると、精霊は足から透き通り、そして楢の木に沈むように消えていった。
「きえた……!」
ミシェールは木に駆け寄って、ぺちぺちとその小さな掌で楢の木を叩いているが、勿論、木肌はピクリとも動かない。
「いない!」
周囲に広がっていたにわかな春も、精霊が消えて程なく、解けるようにして霧散する。夢から醒めれば、後には三人が楢の木を訪れたときと何ら変わらぬ、冬の森が残された。
*
「はあ……、まさか精霊様がお出でになるとはねえ」
矍鑠として揺らがぬマーロウには珍しく、疲れた声色でそう零し、楢の木を見上げた。アニスもようやく呆然とした心地から回復して、目の前にそびえる巨樹を見上げる。
ひととき前に感じたような神々しさは薄れ、その気配は記憶の中にある巨樹のそれに近い。おそらく、精霊が覗きに来ていたからこその、あの神々しさだったのだろう。
「びっくりしましたね……」
「全くだ。寿命が縮んだよ」
ふたりは顔を見合わせ、そろって巨大なため息を吐いた。
「……だが、納得した。ミシェールが森の中で逃げおおせたのは、愛し子の命を守ろうと、森が働きかけたお陰だったんだよ」
「師匠、森の愛し子、というのはなんです?」
アニスの問いに、マーロウは「不勉強だねえ」と呆れたが、突き放すことなく口を開いた。
「ミシェールの祖とおぼしき魔法人と呼ばれた種族の中には、幾つか氏族があったそうでね。森で暮らすことを選んだものや、海で暮らすことを選んだもの、高所で過ごすことを選んだものなど、それぞれ、特性や特技が異なったのだそうだ」
マーロウは楢の木から外した視線をさらに、森の奥に向けた。この楢の木より向こうは、湖に続く道か獣道しかない。しかし、その森の中に、マーロウの目にはなんらかの幻影が見えているようだった。
「かつてこの森には、森に生きた魔法人の氏族がいたという。森と共に生きた彼らは、自分たちを『森の民』と自称したそうだ。彼らは皆、森の寵児――森を愛し森に愛され、森に関する魔術に関しては神の如きだったと言い伝わっている。その様を見て、周囲は彼らを『森の愛し子』と呼んだ」
「そういえば、何かの書物にそうした記述があるのを見かけたことがあるような?」
「新しい魔術や魔法陣を覚えることも、仕事に邁進することも大事だがね、お前は魔女なんだから、自分の魔力が育った地の過去くらい、把握しておきなさい。それが己の魔力を深め、より育てることになるんだ。帰ったらお前、学び直しだよ」
「……はあい。思ってたよりわたし、都会に染まってましたね」
「別に悪い事じゃあないが、この地で魔術を使う気があるなら、シャンとしな」
しょげて頷くアニスに頷き返すと、楢の木の周りをぐるぐると駆け回るミシェールを眺めて、マーロウは薄く微笑んだ。
「森の奥には、彼らの遺跡も幾つか残されているよ。まだ、まともに研究されてはいないがね。……彼らは最早この森にはいないが、楢の木先生と彼らは親しかったのだろう。その裔の子の再訪を言祝いで、祝福を授けてくださったのだろうさ」
「ミシェールへの祝福は、流石に驚きすぎて何も言葉が出ませんでした……」
「情けないがあたしもだよ」
魔女たちは再び顔を見合わせ、息を吐くと苦笑する。彼女たちの末の弟子は、どうやら傑物か怪物となる未来が約束されてしまっているようだ。
「ミシェールをちゃんと導かないと……。そういえば精霊様、最後に、『たち』って仰いました?」
不意に思い出した、聞き捨てならないその言葉を思わず口にすると、マーロウは重々しく頷いた。
「……精霊様は、お前をあたしの後継だと見込まれたんだろうね」
「や、やっぱり?」
(ずっとここにいるつもりかは分からないって、ちゃんとお伝えしたのに!)
アニスは恨めしげに楢の木を見上げる。
楢の木はアニスを揶揄うように、枝を一瞬、わさりとひらめかせた……ように見えた。
(これはもう、本格的にこっちで暮らすことを検討しないとかな。……ああ、この地で出来るはずだった、『のんびり暮らし』は一体どこへ?)
「あにしゅ! おなかしゅいた! くっきーたべたい! かえろー!」
「そうさね。あたしもすっかり腹が減ったよ。それに、ずいぶん身体も冷えた。温かいお茶でも飲みたいところだね」
「ああもう、分かりました、分かりましたよ! ひとまず帰りましょう! すべてはそれからです!」
ニヤニヤ笑う師匠と、袖をぐいぐい引っ張ってくる妹弟子を横目に、アニスは頭を抱え、がっくりと項垂れたのだった。
*
――森に背を向け、歩き出した一行の後ろを、小さな光が追いかけている。
それは、蝋燭の明かりよりもほのかな、淡い緑色の光で、精霊の青年の髪色によく似ていた。
小さな光はふわりふわり、一同に気づかれぬように最後尾を付いてゆく。
そして、一行が森を出るその直前に、ミシェルが引きずるパッチワークでできたクマのぬいぐるみ――セオドア二世に近づくと、そのままふわり、綿の身の中へと沈んで消えたのだった。




