幕間・森の『ふぁんたじー』
こちらの1話だけ、同人誌に入れられなかった(入稿後に思いついてイベントまでに書き切れなかった)分になります……
「ねえ、ミシェール?」
「……う?」
ミシェールが、狼に追われるという危機を乗り越えてから、少し経ったある日の夜のこと。
あの日の夜から毎晩、アニスの寝台に潜り込むようになったミシェールは、ぽんぽんと背中を叩くアニスに向かい、のろのろと頭をもたげた。
目があったアニスは、安心させるように微笑むと、ぱちぱちと目を瞬かせるミシェールをよいしょと持ち上げ、自分の太腿の上で向き合うように座らせた。
「なあに……?」
「えーとね……」
首を傾けたミシェールに、アニスはしばらくもごもごと口の中で言葉を転がす。それからミシェールの顔を覗き込んで、口を開いた。
「あのね、ミシェール。思い出すのが怖かったら、言わなくてもいいんだけど……、あの木、よく上れたね? すごーく偉かったけど、どうやったの?」
その言葉に目を丸くして、ミシェールはアニスを見つめた。
(……みしぇ、どうやったっけ?)
言われてみれば、実に不思議なことだ。
実年齢である六歳相応の体つきをしているのであれば、森の木を登ることも、ある程度できるだろうが、ミシェールの身体はいまのところ、二歳か三歳かというところだ。握力も脚力もそれ相応で、特別な身体能力を持っているわけでもないし、魔術を使えるわけでもない。
よく考えなくとも、ミシェールがひとりで木の上に登るのは容易なことではないはずだった。
(……『かじばのばかぢから』ってことばが、もうひとりのきおくにあるけど……、なんか、ちょっと、ちがう……)
むん、とミシェルは眉間にシワを寄せ、大人の真似をして短い腕を組む。
怖くて怖くて動けなくなりそうで、だけれどもうひとりの記憶が『とにかく木に登れ!』と言ったので、大慌てで必死に木を登ったのだった気がする。あの時はそれが「できた」のだ。
慌てて駆け上って、狼が届かない高さまでたどり着くと、枝の陰に必死で隠れて――
「きのこ!!」
叫んでぱっちり、ミシェルは目を瞬いた。
思い出してみると、あの時、木の根元から高い枝までの幹には、ミシェールが登れるような、階段状のキノコの足場があったのだ。しかもその足場は狼の進撃を阻むように、ミシェールが登るにつれてボロボロと崩れ、地に落ちて消えたのである。更に木は、幹の又で震えるミシェールを、色づいた葉で隠してさえくれたのだった。
「んん?」
ミシェールの叫びに、アニスが首を傾げる。
思い出した光景にミシェールは興奮して、両手をぶんぶんと振り回した。
「きのこ、かいだん! はっぱ!」
「んんん?」
「みしぇが、のぼったら、きえた!」
「えええ……?」
アニスの困惑は深まるが、ミシェールの興奮は高まる。なんだったら、キノコが弾んで上に押し上げてくれたような気さえして、ミシェールはアニスの膝の上で、身体をぴょこぴょこと動かした。
「ぽよ、ぽよ、ぽよって!」
「ええーと……、キノコの階段?」
「ん!」
ミシェールは大きく頷き、アニスの胸元にとんとんと手を当てて、足場になったキノコの姿を再現する。
アニスは考え込むように眉根を寄せたが、しばらくすると合点がいったらしく、ぽかんと口を開いた。
「えーとつまり、木にキノコが生えて足場になってくれた、ってこと?」
「しょう! あとね、はっぱ、かくしてくれた!」
「そ……そんなことある?!」
アニスの小さな叫びに、ミシェールはぶんぶんと首を縦に振った。
とはいえ、アニスの気持ちはミシェールにも分かる。そんなことが起きたなんてことは、ミシェールの中のもうひとりの記憶にだってないし、ミシェール自身だって初めてだ。
「ええー……? いやでも、ミシェールの空想というにはイメージがはっきりしすぎてるし、おとぎ話ならいかにもありそうな感じだけど、えええ……?」
「くうそう、じゃ、ない、もん!」
ぷすん、ミシェールは大人の真似をして眉根をぎゅっと寄せ、頬をぷくんと膨らませる。
「ごめんごめん。でも不思議な話すぎて……」
「なんだい、真夜中に。騒がしいねえ」
ぷすんぷすんとふくれっ面のミシェールを宥めようとアニスが口を開いたその時、アニスの寝室の扉がさっと開いて老婆――庵の主たる大魔女、マーロウが現れた。
「師匠!」
「ししょ!」
ふたりはまるで親子のように揃ってぴょこんと飛び上がり、ふわふわと漂ってくるマーロウの方に頭を向けた。
「どうしたの師匠、いい加減寝ないと治るものも治らなくなるわよ」
「うるさいね、水差しが空になったんだよ」
ふん、と鼻を鳴らしたマーロウの背後には、彼女に追従するように琺瑯の水差しが浮かんでいる。
なるほど、と頷いた弟子たちに、マーロウは再び鼻を鳴らして「それで?」と言葉を掛けた。
「それで、とは?」
「お前はともかく、ミシェールももう寝ているべき時間だろう。一体、何を騒いでいたんだい?」
「ああ……」
アニスはミシェールと顔を見合わせ、それから「それがね」と、ミシェールが話した内容を伝えた。
マーロウは眉間に谷間を刻んだまま腕を組み、アニスと、時々挟み込まれるミシェールの拙い合いの手に耳を傾けていたが、話がひと段落すると「楢の木先生のご加護かも知れんねえ」と呟いた。
「おーくしぇんしぇい?」
「精霊が宿っていると言われる、森の奥のひときわ巨大な楢の木だ。森で一番大きい木だよ。ミシェールを引き取った時に挨拶に行っただろう?」
この町には、森を統べると言われる楢の巨木の加護を願い、子どもを連れて巨木に詣でる習慣がある。
孤児だったアニスも孤児院に引き取られた時には連れて行ってもらったし、歴代の姉弟子たちも、マーロウに師事するその第一歩として、巨木詣でをしたという。ちいさなミシェールもまた、引き取られたその日の内に、楢の木の下に連れて行かれたのだった。
「いった! ことりしゃんの、しっぽのはっぱ!」
ミシェールはつぶらな目を見開き、ぱっとマーロウを仰ぎ見る。マーロウは重々しく頷いて、「そう、あの木だ」と答えた。
「ってことは、師匠はミシェールの言っている事が、あり得ると思う?」
「勿論さ。あの木に精霊が宿っているなら、そのぐらいの事は朝飯前だろうよ」
アニスの言葉に、マーロウはあっけらかんとそう口にした。
「それに、あの木はこの辺り一帯の守り神だ。前にも、森で迷子になった子どもが光るどんぐりをたどって森の外に出た、なんて話があった。精霊が宿ると言われるだけのことはあるんだよ」
「たしかに、あの森を中心に、ものすごくいい魔力が流れている感じはするけど……。えええ……、ホントに……?」
「魔女が森の不思議を疑うなんてねえ。お前、ずいぶん都会に染まっちまったんだねえ。嘆かわしいことだよ」
「都会に限らずそう起こる事じゃないと思うけど?」
「魔女が、地の力の源たる森を疑うなんてことそのものが、あってはならないことなんだよ。お前、明日からしばらく森で瞑想してきな」
「……はーい」
師匠の言葉にムッとして唇を尖らせながらも、そう返事をして頷いたアニスの膝の上で、ミシェールは瞳をキラキラと輝かせた。
(しゅごい……、これぞ、ふぁんたじー!)
ミシェールの中のもうひとりの記憶では、そうした不思議は『ふぁんたじー』と呼ばれ、『現実では起こらない、物語の中の不思議で素敵なできごと』を示す言葉だったらしい。
ところが、ミシェールの遊び場である庵の裏に広がる森では、その『ふぁんたじー』が『現実に起こる』ようなのだ。
これが盛り上がらずにいられるだろうか。
(ちいさなはねの、ようせいしゃんとか、おみみのながい、えるふ? とか、とってもびじん! のせいれいしゃんとか、しろくてふわふわなもふもふとか! おーくのもりなら、ほんとに、いるのかな!?)
ミシェールの中のもうひとりはどうやらその『ふぁんたじー』が大好きだったようで、『ふぁんたじー』について考えてみると、ミシェールの知らない不可思議な出来事があれやこれやと脳裏に浮かび上がってきた。
(あにすがもりで、めいそう? するなら、もりで『ちーと』がおこるのかも! ようせいしゃんが、よってきたり! せいれい? に、こいされちゃったり? もふもふが、あつまってきたり……!)
妄想の世界でうっとり遊ぶミシェールの頭を、マーロウがぽんぽんと撫でる。ミシェールははっと我に返って、マーロウを見上げた。
「そろそろ眠くなってきたようだね。――明日、晴れたら楢の木先生にお礼参りに行くよ。今日はもう寝なさい」
「あい……」
うっとりしていた姿が眠気を催しているように見えたのだろう。眠くなったわけではないけれど、ミシェールは神妙に頷いた。
「ええっ、明日?! 当然ですけども禊ぎとか晴れ着とか、何も準備してないですよ!?」
「あたしはこの身体だからね。お前が明日の朝準備しとくれ。あたしはもう寝るよ」
「お、横暴!!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐアニスを他所にふわりと出ていくマーロウの背に向かい、ミシェールも大きなあくびをひとつこぼした。眠くなった訳ではなかったはずなのだけれど、興奮がおさまってきたことで眠気がやって来たのだろう。
「ええー……。朝から風呂沸かして晴れ着出して火熨斗当てて……? 待って、ミシェールの晴れ着ってどこにしまってあるの? そんなしれっと言われても、結構時間が掛かるってのに! もー、師匠ってばホントにそういうとこ大雑把なんだから!」
アニスはぷりぷりと怒りながらも、あくびをしたミシェールに気がついて「……でもま、しかたないか」と肩を竦めた。
「かわいい妹弟子を助けてくれた存在がいるんだったら、何を置いてもお礼に行かなくちゃだもんね、姉弟子が一肌脱ぎましょう。……魔女って、結構義理堅い生き物なのよ?」
「みしぇも、がんばる」
アニスは小さく破顔して、ミシェールの頭をわしわしと撫でた。そして、ミシェールを抱えたまま毛布に潜り込む。
「じゃ、今日は寝よ! お休みミシェール!」
「おやしゅみあにしゅ……」
アニスの柔らかい腕の中で目を閉じたミシェールは、いくらも経たないうちにすやすやと、甘く柔らかい寝息を立て始める。それにつられるようにして、アニスの呼吸も徐々に緩やかに変わっていった。
――そうして訪れた夢の中。
ミシェールと、彼女の眠りに巻き込まれたアニスは、森にそびえる巨木の下でぞんぶんに、もうひとりの記憶にあるような『ふぁんたじー』を味わったのだった。
おまけのあと1話は、明日公開の予定です。




