夫婦の妻の方のお家事情
「奥様は大変に我慢強い、あの旦那様だというのに、辛いと涙を一つお見せしない、だからとても心配だ」
夫が朝食をとった後に仮眠に入り、私はまた忙しくなる前のつかの間の一休み、という事で、今日も天気がいいからと、庭師の方々が丹念に手入れをした、実家とは比べ物にならない規模かつ丁寧さで扱われている庭園のガセポで、誰にも見られないように気をつけながら、一休みをしていた。
そんな時に、生け垣の向こうから聞こえてきたのはそんな誰かの言葉で、つい私は耳を澄ませた。
そしてさらに小さな声で
「聴覚三倍」
と、一時的に耳がよく聞こえるように自分に調整をかけてみた。
聴覚三倍というのは、なかなか紙一重な調整で、ちょっと間違えると世界があまりにもうるさすぎて、精神的に参ってしまう事だ。
しかしながら、私はこれを使い慣れているので、どれくらいの間なら自分は大丈夫かなどをよく分かっている。
他人にかける時はとても気を遣う術だけれど、自分に掛けるのはお手の物なのだ。
そういう事をして、誰かの会話を盗み聞きする用意を整えて、私は息をひそめて会話の中身を聞き始めた。
「確かに、奥様はとても我慢強いお方だ。尊敬に値する」
「あの、わがまま放題で気に入らない相手となればどんな相手でも、簡単に首を切る旦那様の我儘に振り回されていらっしゃるのに、誰も奥様の弱音や涙を聞いた事も見た事もないのだ」
「本当にすごい奥様でいらっしゃる。旦那様は婚約者の方相手にも自分を隠さないものだから、次々と婚約者が変わり……果ては借金の返済の代わりに、奥様の義姉様が婚約者になっていたというのは本当だろうか」
「それは本当だ。奥様のご実家は度重なる悪天候により、不作が何年も続き、さらに奥様のお母様の散財も重なって借金の額がとんでもない事になり、この家に借金の返済の期限を延ばしてほしいと頼んできたのだ。しかし、当時の当主様がそれは出来ないといい、ならば娘をと差し出されたのが、奥様の義姉様なのだ」
「私はその当時ここで働いていなかったので知らないのだが、どうして義姉様ではなくて、奥様がこちらに嫁いでいらっしゃったのだ? あんなに我々に気を使ってくれる素晴らしい方が来て、本当にうれしいのだが、義姉様がご病気などに?」
「いや、そうじゃない。あくまでも噂でしかないのだが、その義姉様が旦那様との結婚を大変に嫌がり、奥様の当時の婚約者の方と道ならぬ仲に発展し、なんと妊娠し、不誠実だ、不貞だ、と法外かもしれない慰謝料を支払う代わりに、奥様が代わりにいらっしゃったのだとか」
「ええ、それじゃあ、奥様は完全なとばっちりで、旦那様と結婚する羽目になったんですか。奥様……なんて不運なお方なのでしょう」
どうやら厨房の料理人や、料理人見習い、料理人手伝いの女使用人の子達が、休憩時間におしゃべりしているようである。
何人もの聞き慣れた声が飛び交う会話の中身は、なんと私の事で、ちょっとびっくりしたものの、まさか使用人の方々にまで、私の事情のほとんどが筒抜けとは……情報網とは恐ろしい……と改めて私は、こう言ったお屋敷の人達の情報通っぷりに、驚く事になったのだった。
私はそれ以上会話を聞く事をやめて、小声で
「三倍解除」
と聴覚を元に戻す。そうすると一気にいろんな音が小さく遠のき、一瞬自分の耳が遠くなったような気がして来るけれども、これが普通なのである。
こういう一瞬のすきを狙われないようにしろ、といった人達の顔が頭をよぎり、でもここはお屋敷の中なのだし、私は今のところ誰からも恨みを買っていないので、少し隙があっても命をとられるわけではないと、緊張する背中に言い聞かせた。
使用人の人達の話している事は結構事実で、というか事実そのものだ。
私はとある中流の辺境に近い所に領地を持つ貴族の二女で、上には母親の違う兄と姉が一人ずついる。
割とありふれた話で、私は辺境の有力な部族の娘が、父である領主をもてなした時に生まれた子供なのだ。
だから当然のように母親のもとで育って認知もされないはずだった。
東の土地に近い領地では、結構ありふれた事と言われていて、悲劇でも何でもないと言われる中身だ。
しかしならば何故私が、父である領主の元で娘として認知されているのかというと、私が母の元から誘拐されて、そのまま私を誘拐した盗賊団で成長し、盗賊団を討伐するためにやってきた都の騎士団の人達に救助されたからである。
私は身元の分かる首飾りだけは、ずっと持っており、都では接待で子供が生まれるなんて事は考えもしない事だったから、私を保護した後に都で、父に私を認知するように指示してしまったのだ。
父も義母も大慌てで、ありふれた話だからという事は、辺境が一層田舎者と馬鹿にされる理由になるという現実くらいは見えていたので、仕方なしに私を認知したのである。
私は盗賊団で成長した事も有って、まあまあ口は悪いしマナーもなってないし、なかなかの野生児で山猿だった。
そんないかにも面倒くさい娘を、認知しなければならなかった父は、一応私に家庭教師をつけて、ぎりまともに見えるくらいまでは教育するように指示を出した。
私の家庭教師は、見た目はいいけれど非常に裏では評判の悪い、普通に鞭を出してくる家庭教師だった。
しかしそんな物知らなかった私は、なるほど、貴族も盗賊団も、何かを若い相手に仕込む時には飴と鞭か! と感心して、まあ……その家庭教師とうまい具合に歯車を回してしまったのだ。
その結果が何とも言えない事に、私は有能な家庭教師をたくさんつけられて育った兄や、姉よりも仕草が綺麗で、笑顔が素敵(社交界いわく)で、顔立ちこそそこまでではないけれども、本物のレディ、という評判が出来てしまったのだ。
私はこれを聞き家庭教師が天に快哉を叫んでいるのを目撃した後に、二人で勝利のおやつ会をした。あの時食べたお菓子は世界で二番目に美味しかった。
評判だけはぴかいちになった私には、すぐさま婚約の申し込みが大量にやって来て、父と義母がその中から、家にとって有益な、ちょっと格上で都に近い所に結構広大な領地を持ち、財政も豊かな所の長男を選んだ。
それがアンソニーという人で、穏やかな顔で笑う人で、私はこの人といるとのんびりできた事も有って、この人が夫になるのか、これもなかなかいい暮らしになりそうだ、と思って満足していた。
この頃の私は全く知らなかったのだが、その当時実家の借金は結構な額にのぼっており、家計は火の車だった。
私は生活水準が全く変わらなかったので、気付く事もなかった。
結婚前に、友人と言って差し支えなくなった厳しい家庭教師がこっそりと
「あなたに与えられている環境は、はっきりいって平民の中でも収入がかなり低い人のそれですよ、それだけは頭に入れておいたほうがよろしいですよ」
そう教えてくれたので、実家が私の扱いは大変にケチっていた事実を知った。気にならなかったけれども。
何しろ育ちが雑な盗賊団で、毎日のご飯は取り合い奪い合い、衣類は三枚あれば十分、お茶の時間に飲めるのは雑草茶という生活が半生だったので、平民の方でもわりと下と言われても、不運そうなのか、と暢気に構えていた私である。
さて、私の生活水準はさておき、家計が大変な事になっていた実家は、どこかから借金しなければならなくなった。
こんな状況でも、義母と義姉の買い物癖は直らなかったらしいので、直せよまずはそこからだ、と言える立場だったら突っ込みたかった。言えなかったけれどもね。
この状況で実家が借金を頼んでも、ほとんどの所はいい顔をしなかった。
そんな時に、条件はあるが、と声をかけてくれたのが、私の旦那の家である。
旦那の家は王族に連なる名門中の名門で、実家がいしくれに見えるほどの資産家で、驚くほど莫大な財を生み出し続けているすごい家で、実家の借金なんてはした金と思えるくらいの余裕がある家だった。
そんな家からの言葉に飛びついた実家は、その条件というのが、婚約者の決まっていなかった長女を嫁にもらう、という事だったので、実家も義姉も最初はいい縁談だと思って、一も二もなく頷いた。
だがしかし、辺境には聞こえていなかった義姉の婚約者になるその人……つまり今の私の旦那が、わがままでがさつで乱暴で雑で粗暴で気まぐれで……ととんでもなく不良物件だったのだ。
そのため顔を合わせれば、借金の事も有るから逃げられないだろうと強気に出る旦那側からの扱いに耐え切れず、義姉は何を思ったのか、私の婚約者に相談し、距離を縮め、果ては男女の仲になり妊娠までしやがって、旦那側を激怒させたのである。
旦那側は激怒して、貸した金を一括で返してもらおう、慰謝料もだ、という話になったわけだが、この時実家側が義姉の代わりに私を嫁に寄越します、と私に事前に話を通さずに言いやがって、姉が妹になるだけならまあ……と旦那側が貸した金の一括返済は待ってくれた。
慰謝料は、それはそれこれはこれ、で支払うように文章化したのだが。
そして同じような事が起きてはたまらない、と私と旦那の結婚が決定した三日後に、私は都の大神殿で旦那と結婚契約書を書かされて、更にその足で旦那の家に連れられて、普通とはいいがたい新婚生活が始まったのだった。