井の中の蛙
リニューアル投稿です。
「この世」という処は一般に信じられているよりも実はかなり相対的な空間なのだが
蘇芳楓がその事を実感したのは、ここ最近の事である。
例えばこの目の前の空き地。
つい最近まで「妖怪みたいな面相のお婆さんが店番をしている駄菓子屋が長年あった」のだ。
それは誰が何と言っても間違いなく事実である。
小学校からの帰り道に通る場所だった。
よく買い食いをしていたのだ。
ラムネの瓶を開けてシュワシュワと泡が湧き出るあの感覚も、今でもまざまざと思い出せるくらいにリアリティーに溢れている。
それなのに…
「何言ってんの、あんた。…その場所はボロい平屋の市営住宅の貸家が建ってたでしょうが昔から…」
と友達の千重里から言われてしまった。
私は当然
「いやいやいや。あんたこそ何言ってんの?ふざけてんの?ボケたの?やめてよ、作り話にしても何か怖いよ…」
とツッコミを入れた。
だが千重里は頑固に前言撤回することはなかった。
(つく必要もない嘘をつき続けるために何ムキになってんのよ!バカ千重里!)
と思いながら、楓は他の者達にも話を訊いて回ったのだが…
何故だろう。
皆が千重里と同じことを言うのだ。
(あれぇ?あれれれぇ?)
楓は混乱した。
何が起こったのか、楓には勿論判らない。
なので
(うーん。そう言えばこの前、夜中に山の方を見てたらヒュンヒュンとジグザグ模様を描きながらあり得ないような速さで光が移動してたし。…出たのか?ついに。地球外生命体が?…それで皆、脳にチップか何か埋め込まれちゃった?)
などと、これまたあり得ない想像をして独り密かに戦慄した。
しかし取り敢えず、家族には愚痴を言う。
(脳にチップ埋め込まれるなんて、そんな事ある訳ないしねぇ?)
という思い半分
(皆がおかしいからって、ウチの家族に限ってそんな事はない筈だ!)
という思い半分。
「聞いてよ〜。千重里のバカなんだけどさぁ。
小学校までの通学路途中の大きなお寺がある方へ曲がる道の角の空き地。
あそこに駄菓子屋が無かったって言うんだよ。
『あそこは昔からボロい平屋の市営住宅の貸家があった』とか訳の判らん嘘をつくの。
あんまりしつこいから腹が立っちゃって喧嘩になったんだけど。
ヒドイでしょう?」
と両親に話しかけた。
なのに妹の茉莉が
「お姉…。頭大丈夫?」
と言い出した。
「くっ!…なに、その言い方。あんたこそ姉に向かってそんな口の利き方をしてて、人生大丈夫なの?礼儀知らずの自己中女が!」
と言い返した。
「まあまあ、茉莉の言い方は悪いけど、茉莉が楓の頭を心配する気持ちも判るよ。本当にあんた大丈夫?」
と母親が楓に訊いた。
「頭?」
楓は自分の頭を触って、チップを埋め込まれた手術痕がないことを確認して
「大丈夫だけど?」
と答えた。
「楓…。麻薬はいかんぞ」
父親がボソリと呟いた。
「一体どこから麻薬って話が出てくるのか理解不能なんだけど?」
楓が父親を睨むと、父親はテレビの方へと目を逸らした。
その時に父親の耳の後ろが楓の目に入った。
(…何だろう?)
「父さん、耳の後ろ。怪我したの?傷口みたいなのがあるみたいだけど…」
「え?何処に?」
「ここに」
楓が指を差すと、妹も母親も途端に顔を強張らせた。
「…何も無いよ?楓…」
母親がそう言って、真剣な目で楓を見た。
その目は
(幻覚が見えてるようだけど。一体何時から?もしかして昔からこの子は幻覚が見えてて、本当は頭がおかしかったんだろうか?)
と心配しつつも真偽を確かめようとする決意を宿していた。
翌日ーー
楓は心療内科クリニックを受診させられたのだった…。
***************
幻覚が見えてても、それで暴れるという訳ではないので特に緊急的な措置が必要だという事にはならなかった。
幻覚を抑制する薬が処方されただけで他には特に何も言われずカウンセリングを勧められるということもなかった。
心療内科クリニックだと正式な精神科医院とはまた違い、カウンセラーを擁している訳でもなく「ただ薬を処方するだけ」という事になりがちな事を楓も両親も知らなかった。
「薬を飲むだけで良いのだから重症という訳ではないのだろう」
と胸を撫で下ろしたのだった。
だが楓としては不満だ。
結局、駄菓子屋があった空き地は、空き地になる以前は千重里の言うようにボロい平屋の市営住宅が建っていたと、皆が言うのだ。
自分にとってまざまざと思い出せる駄菓子屋に関連する思い出が全て自分の妄想だと言われてしまったのだ。
更には
「治るんでしょうか?この子は…」
と心配されてしまって…
(私っておかしいのかな?狂ってるの?)
と楓は情けない気持ちになった。
(どうしてこんな事が起こるの?本当に私が頭がおかしいだけなのかな?本当に?)
楓は納得しようとしても納得できないのだ。
妄想に囚われて暴れた事もなければ誰かを傷つけた事もない。
ただ皆とは違うものを見ていてそれが皆には見えないもの、皆にとって存在していないものだという事にずっと気付かずに自分を普通だと思って暮らして来ていただけなのだ。
「やっぱりお祖母ちゃんーーパパのお母さんの血が良くなかったんだろうね…」
などと母親が言い出した。
父方の祖母は精神的に問題があったので
父親の兄ーー伯父は
祖母が亡くなるまで散々苦労させられた。
祖母には伯父と父の他にも胤違いの子供が居たらしかった。
それが原因で祖父と離婚したらしい。
独りで子供二人を育てたは良いが、子供達が成人するのを待っていたかのように40代半ばで精神に障害を負った。
祖母に産まれ、直ぐに実家に押し付けられ顧みられなかった最初の子は
グレて働きもせずにギャンブルに明け暮れた挙句、行方不明になったらしい。
「何処かで亡くなってて無縁仏になってるんだろうね…」
と何年か前の御盆の時に伯父が話していた。
色々と業深い血なのだ。
蘇芳家は。
ギャンブル。
虐待。
精神障害。
色々と業深い血の影響が出ないように気をつけなければならない家系なのだろう。
母親は上手く子育てをしてきたつもりだったので楓が幻覚を見ている事を知ったことでガッカリしているようだった。
「ママはパパの実家の血が楓達に強く出ないように、それなりに頑張ってきたつもりだったんだけどね…」
と母親が肩を落とした。
楓からすれば
(お母さんは変な自称霊能者に何かとお金を払って人生相談することが「悪因縁から免れる方法」だと思ってるみたいだけど、それは単に他力本願の自己暗示の為に大金をドブに捨ててるようなものなんだ)
という見方になる。
「大丈夫だよ。もう三学期だから三年生は高校も殆ど授業は無いし、就職先も決まってるんだから。
その間にちゃんと薬飲んで幻覚が見えなくなれば良いだけなんでしょう?」
と楓は母親を慰めた。
(本当はこっちが慰められたいんだけどね!)
自分の存在の所為で親が劣等感を持ってしまうと、その劣等感を自分まで降りかけられる気がするのだ。
楓は何とか両親が「精神障害の子供を持ってしまった」などといった劣等感を持たずに済むように
極力マトモに振舞うことを自分自身に強いることにしたのである…。